井の頭公園でふたり、もうどのくらい話し込んでいたのだろう。杜の向こうの斜陽が夜の訪れが近い事を知らせていた。人影はまだあったが、ここから米花市に帰るにはちょうどいい時間だ。日が暮れないうちに哀を家に帰さなければと、コナンは思う。時計をチラッと見て

「そろそろ帰るか?」
「そうね」

と、短く哀は答える。ふたりだけの時間が、とうとう終わってしまう。
彼の本音と彼女の想いが交錯しあった、たぶん、もう二度とこんな機会はない…。いや、こんな悲壮感に満ちた話は今日限りで終わるのならその方がいい。平穏な日常が少しでも早く来るのならば…。

「あぁ、そういえばこの間、大阪の少年探偵から電話がかかってきたわよ」
公園から出る小道を歩きながら、哀は思い出したように言った。
「服部から?」
「ええ」
「え?また?」

コナンの顔が引き攣る。博士についてもらった嘘がバレたのか?イヤな予感が胸の内をよぎる。でも博士を責めることは出来ない。服部平次の勘は、西の名探偵と呼ばれるだけあって鋭いのだ。
「たまたま電話に出たのが私だったからよかったものの、博士だったらとっくに嘘、バレてたわよ」
電話口に出たのが博士ではなかった。それを聞いてコナンは少し安心した。心苦しい頼み事をしたと思っていたので、再度嘘をついてもらうのは、さすがに申し訳なく思っていたのだ。
「で、何て話したんだ?」
哀は、会話の内容を再現しようと、その日のことを思い出す。

コナンにもらった冷却ジェルシートのおかげか、哀の熱はその日の晩のうちにさがった。翌日、念の為休んだほうがいいと、博士に言われて彼女は学校を休んでいた。
その日の午後、博士はホームセンターへ買い物に出ていた。哀がひとり留守番をしているところに電話がかかってきたのだ。電話口に出ると、相手は服部平次と名乗った。博士が留守である事を伝えると、彼は彼女に聞きたい事があると言う。
「このあいだ、ジイさんから電話あったんやけどな。なんや…奈良の観光名所教えてくれっちゅうんや。なあ、姉ちゃん、阿笠のジイさんはほんまにそんなこと聞きとおて電話してきたんか?」
電話の向こうで平次は訝しげな声を出している。
「そうじゃない?この間真剣にガイドブック眺めて溜め息ついていたもの」
「そないゆうたかて、奈良やったら奈良公園とか東大寺とか有名どころがぎょうさんあるやんけ。そのくらいやったらわざわざ聞かんかてわかる思うねんけどなぁ?」
「…そうね」
平次の言うことはもっともだ。工藤君ももう少しマシな言い訳を思いつかなかったのかと、溜め息をつきながら合槌をうつ。
「もしかして、工藤になんかあったんとちゃうんか?なぁ、姉ちゃん、ほんまの事教えてくれへんか?」
やっぱりそうきたか…。哀は、何故自分が彼の尻拭いをしなければならないのかと、少しウンザリしながら、それでも平然とした口調で平次の質問に答える。
「本当の事って?彼はいつもどおりの生活をしているし、博士がした質問と彼が何か関係あるとは思えないわね。何処かへ旅行するなんてことも聞いていないし…」
何にしろ、彼女は彼が電話の一件の前にどんな話をしていたのか、本当に知らない。だから誤魔化す…というほど大げさなことはしなくてすむのだが…、知らないと言ったところでこの西の名探偵は自分が納得しない限りきっと諦めたりなどしないだろう。
と、その時、哀はある事を思い出した。
これはいけるかもしれない。博士がインターネットのサイト巡りにハマっていることを感謝せずにはいられなかった。そういえば最近、本当に奈良の観光関係のことを検索していた。その時お土産関係サイトのことで哀と少しだけ話をした事があった。
「そういえば…私、博士とお土産関係の話をしたことがあったわ。柿の葉寿司や奈良漬、三輪素麺以外に何かないかを探してて、和菓子のページを見つけたんだけど…ねぇ、服部君。奈良には『鹿のふん』って名前のお菓子があるんですって?」
「あ、ああ…あるけど?それがどないしたんや?」
突然妙なお菓子の名前を出されて平次はとまどった。そりゃあ…知ってるけど、急に何やねん…。訝しげに眉をひそめる。
「博士が日本の大物女優がそれにちなんだ歌を歌ってたって懐かしそうに話してたわ。ま、私はアメリカでの生活が長いからその女優のことはあまり知らないんだけど…なかなか興味深い話だったわ。お昼のバラエティー番組がこのお土産物のルーツなんですってね?」
「へ…ぇー…、よう知ってるやんけ。せやけどな、姉ちゃん、それはちょっとちゃうで」
地元(…に近いところ)のネタになり、平次は少し機嫌が良くなった。得意げになってその妙なネーミングの土産物の話をしだした。
「その大物女優が土産物にちなんだ歌を歌ったんやのうて、その逆や。当時…っちゅうか、今も番組はまだ続いてるんやけどな。あるお笑い芸人が、番組の総合司会者をからかいたいが為にわざわざ見つけてきた女優の歌があったんや。その総合司会者はその女優の大ファンでな、最初そいつの言うこと全然信じひんかってんけど、翌週に番組スタッフがホンマにその歌を見つけてきよってな、本番でその歌流したらその司会者、えらいショック受けてしもたってわけや。当時結構うけた話らしいで。まぁ、オレはそン時まだちっこかったからよう知らんねんけど。その話がその土産物の名前の由来やねん。せやからお菓子のパッケージには、そのお笑い芸人の顔とかギャグが印刷されてるんや。地元じゃ語り継がれてる話やよってに、一応知ってるねんけどな」
だんだん嬉しそうな声になってくる平次に苦笑しつつ、哀は話を黙って聞いていた。
「ちなみに曲名はな、『奈良の春日野』ってゆうねん。どんな歌かっていうとやなぁ…奈良の春日野、青芝に〜♪ 腰をおろせば鹿のフ〜ン〜♪フンフンフ〜ン黒豆よ〜♪フンフンフ〜ン黒豆よ〜♪フンフンフンフン黒豆よ〜〜〜♪…って感じの歌やねん」
「あ、そう…」
突然そんな知らない女優の知らない歌を聴かされても…とても困る……。想像力かきたてられて今後黒豆が食べられなくなるじゃない。どうしてくれるのよ?…なんて、ちょっとどうでもいいことを思ってしまい、彼女はさらに苦笑した。哀の溜め息まじりの声が聞こえたのか聞こえていないのか、益々ノリのよくなった口調で平次は解説し続ける。
「で、どんな、お菓子かというとやなぁ…」
「実寸大のチョコレートや、薄味の醤油味でコーティングされたピーナツに、チョコレート粉末をまぶしたお団子等…でしょ?」
と、平次の話を遮るように哀は答えた。
「あ、…あぁ…。よう知っとるやんけ」
「だからネットで博士と見てたのよ。由来まではそのホームページには載ってなかったけれど…。そうね…そのお話、工藤君にもしてみようかしら。土産物のお菓子の話としては興味深いけれど、彼、どんな顔するかしらね…」
…さすが関西、商魂逞しい…ていうか、受ける為なら何でもするというあたりがついていけねーよ…なんて彼独特の半目開きの顔をするだろうけれど……。そんな彼の顔を想像しながら彼女の口元に僅かな笑みが浮かんだ。
「それやったら、今度東京行く時にでも姉ちゃんに実物持ってったるわ。何やったら工藤の分も持って行ったるで?よっしゃよっしゃ、まかせときっ!次に会うん楽しみに待っとってや。工藤にもそう伝えといてな〜。ほなッ♪」
……そう言って勢いよく電話が切れた。通話の途切れた音がリズミカルに流れている受話器を彼女はまじまじと見つめてしまった。軽く吐息をつくと、哀は受話器をもとに戻す。今度東京行く時…。彼はそう言っていた。何しに?いや、そんなことより、あの様子では、本当に彼は奈良名物「鹿のふん」を大量に持って来るだろう……。
さて、あとは適当な事言って阿笠邸から逃げ帰った卑怯な探偵サンに責任をとってもらいましょうか……。哀はクスッと笑った。

「……だそうよ。どうする?江戸川君?よかったわね。念願の奈良を味わえるわよ?」
哀は少々皮肉を込め、それからちょっと面白そうに、瞳を白黒させた少年へと視線を投げかける。彼女の「江戸川君?」という呼びかけにコナンはますます頬をひきつらせた。
「あ…あのさ…灰原……。もう少しマシな話できなかったのかよ…?何だよ、その鹿のふんって。何でそんな話になってそれで終わるんだよ?」
「あら、恩人に向かって言い草ね。いいじゃない、それで話を誤魔化すことが出来たんだもの」
「そりゃあ、そうだけどよー…」
なんだか納得のいかない様子だ。深刻な話だったはずがどうして最後がこんな話に変ってるんだ?確かに彼女の言うとおり、当初の目的は果たした事にはなるけれど…。だけど何か釈然としない。
「それにコーヒータイムに丁度いいお菓子が食べられそうよ?あなたもどう?服部君、あなたの分も持って来るって言ってたし?」
「いらねーよっ!」
「あら、そう…。どんなに美味しくてもいらないってわけね?誰のおかげでこういうことになるのかしら?博士とふたり暮らしのこの私に、『あなたに』と持って来られた分まで食べろと、そういうことなのね?」
「え…い…いや…その……っ」
「あのお菓子、思ったより賞味期限が短いらしいわ。だからあんまり長くも置いてはおけないのに、2軒分もあるのよね。あなたの食の嗜好の都合で、私達の食生活が乱れてしまうのは大きな問題だわ。博士が糖尿病にでもなったらどう責任とるつもりなのかしら?」
不敵な笑みを浮かべつつ、たたみかけるけるように言う彼女に、コナンは「負けた…」と思った。
「…わかりました。いります。食べます。食べさせてください…」
「いい心掛けね」
哀の微笑を横目で見ながらコナンは、女に口で勝とうだなんて思ってはいけないことを悟った。コナンの声は、蚊の鳴くように小さくなっていく。
だけど……。
『いいのか?そんな話題で話をそらされてても…。仮にも西の名探偵ともてはやされてるおまえが…。なぁ?服部ぃ〜…』
オレは情けないぜ…とばかりに額に手をあてかぶりを振り、大きく溜め息をつく。哀は彼の様子を面白そうに眺めながらクスッと笑った。
「それにしても、まさか西の名探偵さんの歌を聴く機会に恵まれるなんて思ってもみなかったわ。貴重な経験をさせてくれてどうもありがとう、東の名探偵サン?」
「おまえな…」
疲れがピークに達したような気がした。再び溜め息をつき肩を落とす。
『ま、いいか。いつものコイツの調子、戻ってきたみてーだし…』
苦笑いを浮かべながらもコナンは彼女の憎まれ口に安心感を覚えた。やはり彼女とはこうでなくちゃ調子が出ない。哀とふたり肩を並べて公園を後にする。
あともう少しのところで、公園から出る階段に行きつく。哀は両腕を後ろに軽く組み、夕焼け空を見上げた。公園の杜に沈む太陽が、今日一日最後の力で空を染め上げる。
この色は…テキーラサンライズによく似ている……。少し前まではこの色をグラスの中でしか見ることが出来なかった。何度、自分自身の自由な時間を持って夕焼けを見たいと望んできたことか…。
そういえば、たった一度だけ、海の見える小高い丘からひとりで夕焼けを眺めたことがあった。涙で滲んでよくは見えなかったけれど…。組織に内緒でお骨を分けて密かにお墓を建立したその帰りに……。
『お姉ちゃん…』
彼女の足元にあった小石がカツンと小さな音をたて転がってゆく。その音に驚いたハトが一斉に空へと飛びたつ。彼女の振り仰いだ先にあったその池の向こう側にハトは場所を変えてまた群れとなっていた。彼女は刹那、淋しげな笑みを浮かべるとまた少し俯き加減になって歩いた。
「灰原?」
瞳に少し滲むものを見たような気がしてコナンは彼女に声をかける。
「何?」
何気なさを装い、クールな表情を彼に向ける。いつもと変らぬ無表情な…。彼はうろたえた。気の所為だったのか?だったら、何を話しかけよう?予定していた問い掛けは、もう出来ない。夕紅(せきこう)が見せた幻影だったのなら、それならそれでいい。
「いや、何でもない」
「そう…」
無関心そうに哀が呟く。また沈黙が流れる。
そうこうするうちに公園の出口にさしかかった。
コナンは前方を向いたまま一段、また一段と階段を昇り、彼女に声をかける。
「階段、気をつけろよ?」
「誰に向かって言ってるのよ?私、子供じゃないわ」
冷めた瞳で彼を一瞥する。
「普段はな。でも今のお前は、難しい顔したお子様だ」
とコナンも哀を一瞥する。哀の眉間に訝しげな皺がよる。
「さっきから危なっかしいんだよ。考え事するなとは言わねえけどよ、せめて電車に乗ってからにしろ。転ぶぞ?」
「だから、子供じゃないって言ってるでしょう?」
「心ここにあらずって顔しながら言われても説得力ねえっての」
哀はコナンを軽く睨み、顔を背けた。
言外に「どうしたんだよ?」と聞かれている事はわかっている。はっきりと聞かないのは、彼の優しさだ。無理に話す必要はないと言っている。別に隠すほどの話ではない。むしろ彼になら話してみても…とさえ思う。でもだからといって、彼に今の自分の気持ちを話しても、暗い気分にさせてしまうのでは…と躊躇する自分がいた。ただでさえ、彼には自分がまた恐怖心にかられないようにと気を遣わせてしまっている。彼の重荷にだけはなりたくなかった。甘えてはいけない。彼には本来守らなければならない彼女がいる。そう自分に言い聞かせながら哀は目の前の階段を一歩一歩踏み締めながら昇る。
一方通行の道を抜け、丸井にさしかかる頃、哀はふと彼の寡黙な横顔を見つめた。守られるだけじゃない。私も彼を守りたい、いや、私こそが彼を守らなければいけないのだと思う。先日だって彼は…。
「ねぇ」
「あン?」
呼ばれてコナンも彼女の顔を見る。
「そういえば、この間あなた冷却ジェルを全部うちに置いていったでしょう?」
「あ、あぁ…」
この間と言われて一瞬いつの事かと思ったが、すぐに思い出した。彼女が風邪と心労で倒れて休んだ日の事だ。
「あなた、あの後どうしたの?」
「は?」
どうしたの、と聞かれても…どう答えればいいのか、彼の顔が引き攣る。
「……次の日、あなたも休んだんですって?しかも風邪で」
『げっ…!バレてるっ』
あの時、哀は結局3日連続で休んでいる。コナンはあの翌日休んだが一日だけで、次の日には元気に登校している。休んだ事は彼女には話していないのに…。まぁどうせきっと…
「吉田さんから聞いたわよ。まったく、自分も熱があったくせにカッコつけて何でもないフリして。それでよけい体調悪くするなんて…。お人好しもほどほどになさい」
「んな昔の事ほじくりかえして言ってんじゃねえよ。可愛くねえなぁ!」
思ったとおり歩美ちゃんから聞いちまったのか、と溜め息をつき、相変わらずの口調に憮然となる。さっきまでの彼女の哀し気な表情は何処へやら…。心配なんて、するんじゃなかったかも…。
「でも、…ありがと……」
『え?』
微かに聞こえた声にコナンは瞳を見開く。ちらりとかすめ見た哀の面持ちは…。微妙に視線を逸らせている彼女の頬に僅か朱が入っていた。彼はしげしげと哀を見つめてしまった。フッと表情を和らげる。
「さ、早く帰ろうぜ?博士が心配する」
「ええ」
信号が青になった。ふたりは、駅に向かう最後の横断歩道を渡ろうとした。
その時だ。
コナンの背に悪寒が走った。まるで冷たい鋭利な刃を突き付けられたような視線を感じたのだ。射抜くような、イヤな視線。何処かで覚えがあるような…。後ろを振り返らないよう気をつけながら哀の様子を確認する。
やはり、思ったとおりだ。彼女の顔も強張っている。
『鬘…そのままでいて正解だったかもな……』
視線の主には、哀の正体は気付かれていないハズだ。
『…って事は…ターゲットはオレ…か?』
いったいいつから張られていたんだろう。公園内や公園を出て暫くは、そんな気配は微塵もなかった。南口繁華街付近からという事は…たまたま今偶然居合わせてしまったという事か?
視線の主とはいってもそれの正体は今のところ断言できない。だが、彼女の様子からみて、性質(たち)の悪い危険な相手であることには違いない。彼は何気なさを装いながら
「ところで、春休みの宿題はもう終わったか?」
と彼女に問い掛けた。瞳孔が開き気味に…震えている彼女。哀にはコナンの声が聞こえているのかいないのか、押し黙ったままだ。
「ん?どうした?」
彼女の顔を覗き込むようにしてコナンは哀の傍による。
「喉、痛むのか?」
真剣な目つきで声をかけてくる彼。風邪なんてひいていないのに…。哀は、何を言ってるんだと言わんばかりの瞳を彼に向けたが、コナンの微かな瞳の動きで瞬時に彼の言わんとしている事を察した。喉元に手をやりながら黙って頷く。コナンの瞳は満足げに、彼女にしかわからない微妙さで頷いた。
「おめー、マスク持ってたよな?もうラッシュ時だし、マスク着けて電車に乗れよ。風邪、ぶり返してもマズイしな」
哀は言われたとおり、マスクをポケットから取り出し着用した。彼女の顔半分が隠れる。これで少し見ただけでは女の子だとはわからない。
「で、さっきの続きだけど、もう宿題終わった?」
2年生のクラスは1年次からの持ち上がりだ。そんなわけで、悲しいかな本当に宿題というものがあった。
だが、もともと本当の小学生ではないふたりにとっては、宿題なんて考えてやる程のものではない。もうとっくに終わらせていた。そんな事彼は重々承知している。でも敢えて聞いているという事は…。
哀はかぶりを振った。
コナンは満足げに微笑むと
「よかった。じゃあついでだから一緒に終わらせちまおうぜ?」
とウィンクした。
「まったくよー、春休みだってのに働くおじさんの研究なんてメンドウな宿題出すなって思わねえ?」
と苦笑いを浮かべる。
「連休だから、出るんじゃない?」
さっきマスク着用時に変声機のダイヤルをとっさに微調整したので、コナンの声とは少し違う少年の声になっていた。OKと、彼は内心呟く。準備は整った。あとは彼女の警戒心をヤツらに悟られないようにしなければ…。
「なるほど…。ってそれ言ったら身もフタもねぇっての。そのくらい解かってるって」
顔を少し引き攣らせて笑う。
「とにかく、オジサンが今日だったら直帰で残業がないから仕事の取材はOKって言ってくれたから、おめーも来いよ。帰りは送ってもらえるしさ。電車で帰るより楽だぜ?確実に座って帰れるし」
「直帰?せっかく残業がないのに…っていうより、仕事って何?わ…お、オレ約束してないのに一緒に行ってもいいのか?」
哀はいつもの調子でしゃべりそうになったが、すぐに気付き咄嗟に少年の話し方に切り替える。
「あぁ、約束なら大丈夫だ。昨日、オジサンの方から連絡があったんだ。人数も気にしなくていい。友達と一緒においでって言ってくれたし気にすンなよ」
と笑う。
「オジサンはアパレル関係の会社に勤めてるんだ。商事会社のなんか主任やってるとか言ってたなぁ。とにかくさっさと行って済ませちまおうぜ。何かウマイもん食わしてくれるらしいし」
無邪気な笑顔を浮かべ機嫌良さそうに、哀の手を引いて歩きだした。少し強く引いた所為で、哀の身体はコナンのすぐ隣で肩を並べる格好になった。
コナンは真っ直ぐ前を見たまま小声で、しかし力のこもった声で
「オレの手を離すなよ?大丈夫だから…」
と少し早口で言った。哀は返事の代わりに彼の手を強く握り返した。コナンもそれに応えるように繋いだ手に力をこめる。
『大丈夫、大丈夫、絶対にうまくいく』
哀は呪文のように心の中で呟く。彼の機転を無にしてはならない。彼女は強く誓った。
さっきまでの彼とのやりとりで彼女は、帰路を適当に回り道して尾行を撒くつもりだという事を理解していた。
JR吉祥寺駅でコナンはイオカードを、券売機に入れ素早く目的地のボタンを押し、二人分の切符を受け取る。大人ならば直接改札を通る事が出来るのに、こういう時は子供の姿というのは不便だ。尾行されているのなら尚更だ。追跡者に行き先を予測される危険がある。なるべく購入作業を早くするしか手がない。ただ、現金を入れて買うよりは時間が短縮されるのでまだマシだ。
切符を哀に手渡すと、彼女は切符代を渡そうと財布を出そうとしたが、コナンはそれを止めた。目を見開く彼女に
「いいから。ここを早く離れる事の方が先決だ」
と彼女に頷いてみせる。コナンの言うとおりだ。哀は申し訳なく思いながらコナンの好意に甘える事にし、切符を受け取った。
改札を通ると二人は東京・新宿方面行きのホームへと移動する。帰宅ラッシュに差し掛かるこの時間帯、ホームの人数は朝のラッシュ時ほどではないとはいえ、昼とは比較にはならない。その中を縫うようにコナンは哀の手を引きながら潜り込んで行く。背後の妙な気配をその背に感じながら…。列車はもうプラットホームに入って来ていた。あとは大人たちに紛れ込んで乗り込むだけだ。この人ごみは子供が隠れるには有利ではあったが、逆に相手にとっても隠れて追尾するのに都合がいい事もまた事実であった。油断してはならない。追跡者の正体は組織の人間と断定出来ないとはいえ、その可能性もあるのだ。何としてもここは逃げ切らなければならない。尾行に気付いている事を相手に悟られてもならない。
コナンの緊張感は一気に高まる。だが、それは哀に悟られてはならない。ただでさえ、組織の影に怯えている彼女だ。自分は彼女を守ると約束した。せめて彼女を安全圏に置くまでは、恐怖感を緩和させる為にも自分がしっかりしなければ…!
東京行きのこの快速電車の車輌は、出入り口階段から近かった為か立つスペースも少ないほど混んでいた。隠れている分には良いが、尾行者の容姿を確認するには難しい。
次の停車駅である荻窪で一度降りて車輌を変える事にした。それにこの混雑は、子供の身では息苦しいしそれなりの演技をしていれば…いや、息苦しいのは本当なのでまったくの演技ではないし比較的空いている車輌に移っても不審に思われる事はないだろう。
電車が停車した。荻窪だ。ここは地下鉄営団丸の内線の乗り換え駅でもある。乗客が一斉にホームへと降りる。その波に押し出されるようにふたりは降車した。進行方向に歩いた。発車ベルが鳴り終える直前でもう一度電車に乗り込む。そこも混んではいたが、さっきよりは幾分かましだった。ドアが閉まり、滑るように列車は動き出した。コナンは安心したかのように一息つく。
「やっと、息が出来たって感じだな」
と哀を見やる。
「そりゃあ、さっきのところは改札に近いドアのあるところだったし、仕方がないよ…」
と哀も応える。
「まぁな。別の車輌に移って正解か。とは言っても、座れねえにはかわりない…か…」
と辺りを見回してガッカリする。
ドサクサに紛れて乗客をチェックするのも勿論忘れない。素早く確認した後は、ひたすら哀の方を向いて、小学生らしい適当な雑談を交わしていた。尤も哀は、彼に言葉少なげに反応するだけだが、それでも相槌だけはしっかりうっていた。
尾行者は、確かにいる。
怪し気な人物は、ふたり。コナンたちとは車輌の端から端ほどの距離をあけて立っていた。
ひとりはブラウンのレザーキャップを目深に被った三十代くらいの男だ。細面の顔でキツネのような目つきをしている。もうひとりの男は四十代くらいだろうか、髪はオールバックにしていて口ひげを蓄えている。グレーのスプリングコートをラフに羽織っている。少し色のついた眼鏡をかけていて特徴は掴みにくかったが、コナンはこのふたりから発せられるイヤな視線を僅かにではあるが確かに感じ取っていた。その視線は鋭く冷徹だ。
この混雑した中をともすれば見落としがちになる子供をここまで跡をつけて来るのはやはり尾行に慣れているからか。ただ、相手に追尾中の視線を僅かとはいえ感知されるという事は、そんなに追跡能力に長けているというわけではなさそうだとコナンは判断した。
彼は瞬時に逃避行経路を決定した。次の降車予定駅まであと3分たらず。コナンは彼女と雑談を装い、計画を簡潔にそっと告げた。運よくコナンたちのすぐ傍には地方から来たらしい旅行者のグループがいて、彼らが声高におしゃべりをしていた為、比較的打ち合わせしやすかった。哀は、コナンの案にしっかりと頷いた。
「おまえは、今度小学2年になる男の子だ。大丈夫だな?」
やむを得ないなと、哀はそれに対してフクザツに笑みを浮かべてうんと言った。表情が顔に張り付くような感覚に哀は懸命に耐える。コナンのお陰で気持ちは除々に落ち着きを取り戻しつつあるが、やはり一瞬でも気を緩めると体中が震えそうになる。走行中の列車が徐行し始めた。もうすぐ駅に到着する。
車掌が駅への到着をアナウンスで告げる。間もなく列車が止まり、中野に着いた。
コナンは再び哀と手を繋ぎ、電車から降りた。また人波の中に紛れ歩く。階段を降り右折、少し歩いてまた階段を昇る。地下鉄営団東西線に乗り換える為だ。この路線には乗り換え駅として、「高田馬場」「飯田橋」「九段下」「大手町」が含まれる。いざという時の行き先変更には充分な機会がある。
ふたりは「日本橋」で降りた。まだ追っ手の気配がする。不自然に思われないように「中野−日本橋」間は同じ車輌の中で様子を見ていたのだから、尾行が続けられていても仕方がない。コナンと哀はそのまま人込みの中に入って行き、右往左往しつつ人の波に飲まれていく。やがてふたりはある建物の地階に入った。
所謂(いわゆる)デパ地下だ。
日本でも有数の百貨店、松越百貨店。夕刻の食料品売り場とあって活気に満ち溢れている。会社帰りのOLや上の階で買い物を済ませた主婦たちで溢れかえっている。中には母親に連れられ迷子にならないよう必死に付いて行ってる子供達の姿もある。ここは、尾行を撒くのでなくても歩くのはホネだ。何人かとぶつかりながらもコナンは哀の手を離さないようにしっかり繋いで次の目的まで歩を進めている。
やがて、閉まる直前のエレベータの中へ
「すみませ〜ん」
とエレベータ前のフロアサービススタッフに声をかけて中に滑り込んで行く。
ふたりが入ると、先ほどのフロアサービススタッフがエレベータのドアが閉じ切るまでお辞儀をした。中のエレベータスタッフの女性が各階の案内をしつつエレベータの操作をする。
「二階、婦人ファッション・紳士ファッション・バッグ&ラゲージのフロアでございます」
スタッフの案内と同時にエレベータのドアが開く。目の前に、高級ブランドの婦人用衣服がガラス張りのショーウィンドー越しにディスプレイされているのが見える。
ふたりはこの階で何人かの大人に紛れて降りた。その売り場の中へ一瞬入り、瞬く間に隣のまた別の売り場を横切り化粧室に向かった。そしてふたりはその奥にある化粧室の中へと入る。哀の手を引きつつコナンは、ちょっと待ってろと哀をその場で一旦立ち止まらせた。彼は素早くトイレの奥を確認する。都合のいい事に誰もいない。すぐに哀の元に引き返し中に連れて入った。JRの列車内で哀に「今は男の子のフリをしている」事を再確認のように言っていたのは、この為だった。コナンとしても本当は非常に心苦しかったが、そんな事を言っている場合ではなかった。
「さぁ、早く上着を交換するんだ。髪型もそこの鏡を見ながらすれば変えられるだろ」
誰もいない化粧室というのは結構声が響く。隣の女性用化粧室に聞こえないよう気をつけながら哀に衣装換えを促す。コナンもパーカーを脱ぎ、それを裏返して哀に渡す。リバーシブルパーカーなので、傍目には違う服のように見えるはず。コナンは哀から手渡されたデニムジャケットを羽織る。そして哀に貸していた帽子を裏返して被った。この帽子もリバーシブルだ。その頃には哀も髪型をうまく変え終えていた。お互いの外見チェックを素早く済ませると黙って頷き合い、その場を後にした。
男性用化粧室を出て少し急いで歩き、また適当に大人たちの中に紛れ、その人たちの歩調にあわせつつ歩いた。コナンは目だけを動かし店内を見渡す。今歩いているところが女性の服や雑貨の売り場エリアの為、さすがに女性客や女性客の連れの子供達しかいなかった。
ふたりはそのまま真っ直ぐ進み、階段を下りて行った。この百貨店は呉服屋が前身で、創業三百年経っている老舗だ。高級志向が強い特色を持っている所為か、客層は上品な人が多い。妙な人間がうろつくとかなり目立つ。この経路はふたりを追っている追跡者にとっては非常に歩きづらい場所である。案内担当が常駐しているスペース近辺の階段だ。そこから再び地階まで急いで降りた。
店内ご案内所、お買い上げ品預かり所、お手回り品整理台があるエリアに出た。すぐ傍は銀座線最寄出入り口だった。人波に入り再び地下道を歩く。そのまま営団銀座線の日本橋駅に入り、渋谷方面に向かう地下鉄に乗った。
追っ手の気配は、もう消えていた。しかし、最終目的地に着くまでは油断ならない。いつ何処でまたヤツらと遭遇するかわからない。コナンはしっかりと哀の手を握り、彼女の様子を見た。とりあえず尾行を撒けた安心からか、疲れの色が見える。
「大丈夫か?」
「ええ、あなたこそ、大丈夫?」
「誰に聞いてンだ?」
コナンは彼女にイタズラっぽく笑いかける。彼の笑顔に彼女も表情を和らげる。
やがて地下鉄は銀座に着いた。
「降りるぞ?」
彼は哀をに促す。降りた後そのまま日比谷線に乗り換えて日比谷駅で降りる。少し距離があるが、有楽町線の有楽町駅まで歩いてまた地下鉄に乗り込む。そして一駅目の桜田門駅で降りた。
出口から階段を昇り、コナンは哀をつれて昇りきった階段を曲がった。そして目的地に辿り着いた。追っ手の気配はもうない。完全に撒く事に成功したようである。
コナンは彼女を連れてその建物へと向かって行く。哀は呆れたような声で呟いた。
「商事会社…ねぇ…?」
「ウソは言ってねえよ」
哀の声にニヤリと返す。
「ちなみにここの会社名、『桜田商事』っていうんだぜ?」
「もうイイから…」
「その顔は信じてないって顔だな?」
「…信じるも何もここって……」
抑揚のない声で哀はその建物を見上げた。
そこは、東京都公安委員会の管理下にある、東京都警察の本部、警視庁庁舎だった。
「警察じゃないの」
「あぁ、そうだよ」
「そうだよって…」
ますます呆れ顔になっていく哀だった。わけがわからないと、肩を竦めながら、両の手の平を上に向ける。
「警視庁のこの庁舎の事を、皇居の桜田門前に位置する事から、警察関係者の隠語で『桜田商事』って呼ばれてるんだ。ちなみに、所轄署との関係性から『本社』とか『本庁』とも呼ばれてる」
コナンはそう言うとまた彼女の手を引き、そして庁舎の中に入った。
「あ、灰原。もうカツラとマスクはずしていいぜ?これから高木刑事のところに行くから、その格好じゃ、言い訳に苦労するしな」
とウィンクした。
「なるほど?あなたが言ってたオジサンって高木刑事の事だったのね?」
マスクをはずしながら哀本来の声でそう言った。コナンは小首を傾げ少しおどけた表情で肯定する。
「お兄さん…って言いたかったけど、あの場はその方がいいかなぁ…なんてな。あ、高木刑事にはこれはナイショな?」
「さぁ、どうしようかしら?」
「あのなぁ…」
「冗談よ」
「ま、とにかく会話内容をチェックされても大丈夫なようにああ言っただけだし」
「なるほど?アパレル系の商事会社だと、取引先にデパートがあってもおかしくないし…で、追っ手の容姿をチェックして、デパートとフロアを選んだってわけね。そうすれば、尾行に気付いてる事を悟られずに追っ手を撒ける…。変装は、万一の時の為の保険ってところかしら?」
「そういう事」
そう言ってコナンは微笑した。
「さ、早く行こうぜ」
ふたりはエレベータに乗り込むと、高木刑事のいる捜査一課のあるフロアへ向かった。彼の在席は、先ほど庁舎内に入ってすぐ受付に確認してもらい用件を伝えてもらった。それで彼に呼ばれて捜査一課まで行く事になったのだ。
高木刑事に会うとコナンは事の一部始終を彼に話した。そして自分達を阿笠博士の家まで送ってもらうように頼んだのだ。追っ手は松越百貨店内で完全に撒いたし、後は警察の車の中だと尾行される心配もないだろうという理由だ。高木刑事は二つ返事で快諾してくれた。
先日、米花市内のマンションで起きた護田秀男容疑者による「出月映子撲殺殺人事件」の時に高木刑事が目暮警部に内緒でコナンに伝えた事―毛利探偵が事件解決に関与した事件調書が警視庁内で盗難にあった(但し差出人不明の封書で後日送り返されてきた)事で何者かが毛利小五郎を調べているらしい事が気になる。毛利探偵に身辺警護の必要性を目暮警部と検討中だったが、今回コナンたちがつけられた事で警護の件は決定されるだろう。
組織の事はまだ警察には伝えていないものの、とりあえずどういうカタチでも毛利家に警察の護衛がつくのなら安心していいだろう。
車の用意が出来、コナンと哀は高木刑事の車に乗った。コナン達が送ってもらう高木刑事の車の助手席には佐藤刑事が乗り、後方につく車には千葉刑事ともうひとりの刑事が乗った。千葉刑事の車は高木刑事の車に不審な車がつけてこないかを確認し、阿笠邸に着いた時にも不審者にマークされていないかどうかを確認するという任務についている。
家までのコースは、ちょうど今、春の交通安全週間期間中という事もあって都内のあちらこちらに張られているシートベルト検問・飲酒検問等の場所を含んでいた。
薄暗い車内で、コナンは時々哀の様子を見る。顔色が悪い。緊張状態が長く続いている所為で疲れが出ているのだろう。コナンはもう一度彼女の手を握った。その手は微かに震えていて、指先はひんやりと冷たかった。いたわるように握った手にそっと力をこめる。哀は少し驚いたようにコナンを見る。彼の心配そうな表情に彼女は切なげに瞳を曇らせた。
「大丈夫」
掠れ気味の声で、コナンは彼女を安心させようともう一度笑みを浮かべた。哀は微かに頷くと窓の外をじっと眺めた。警察の車に乗ってさらにその車にも護衛がついていても、やはり不安は拭えないのか。彼女の心中をコナンは痛々しく思った。
やがて阿笠邸につくと、高木刑事は車の中に残り、佐藤刑事が家の中までふたりを送り届けた。
探偵事務所までコナンを送るという佐藤刑事に、彼は、今日は博士の家に泊まるからと辞退した。毛利家には博士から連絡するという事で、毛利探偵には今日の事はまだ言わないようにと頼んだ。蘭に余計な心配や不安を与えたくなかったのだ。警察としても、まだ毛利家の護衛は内々で決めたばかりで正式にその連絡をするのは明日という事もあり、コナンの頼みを甘受した。

警察が帰った直後、哀が急に崩れ落ちるように倒れた。
「灰原っ!」
慌ててコナンは彼女の身体を支える。彼の腕に当たった衝撃で彼女は我に返った。ビクッと身体が震え、彼から離れようとしてまたよろけた。再び彼女を支えながら
「無理すんな」
と、博士の助けを借りながら、とりあえずリビングのソファに彼女の身体を横たえた。彼女の脚を少し持ち上げクッションをその下に置き、もう一度その上に彼女の脚を下ろす。頭を低くし、自分で衣服を弛めるように言い、コナンは彼女の身体を毛布でくるんだ。見たところ貧血のようだった。
「博士、部屋をもう少し温めてくれ」
「わ、わかった…」
博士は言われたとおりエアコンで室温調整をした。
「湯を沸かしてくるし、おまえはそこで少し休んでろ」
と、哀に言い残すとリビング中央の円形カウンターキッチンに行った。

暫くして、コナンは砂糖を溶かしたお湯の入ったマグカップを持って彼女のところに戻って来た。
「気分はどうだ?」
「おかげさまで、少しマシになったわ」
「そうか…、じゃあ、これ、少し飲めよ。起き上がれるか?」
「ええ…」
哀は上体を少し起こした。だが、まだフラつくようだった。コナンはそっと彼女を支えた。
「ごめんなさい…。迷惑かけたわね……」
「病人がくだらねぇ事気にしてンじゃねえよ。ほら…」
とマグカップを口元にやると哀に飲ませようとした。
「…自分で飲めるわ」
「その震える手でか?」
「余計なお世話よ」
そう言って彼からマグカップを受け取って飲もうとしたが、手に力が入らず、危うく中の白湯を零しそうになった。
「ほら、みろ!やっぱ無理じゃねえか。つまらねえ意地張るな。ほら、ゆっくり飲めよ?」
悔しそうに自分を睨みつける哀を軽く受け流し、コナンはカップに手を添えて彼女がそれを飲むのを手伝った。
砂糖入りの白湯を飲み終えた彼女をもう一度ゆっくりとソファに寝かしつける。コナンは空になったカップをテーブルに置くと、彼女の方に向き直る。
「…ねえ」
「ん?」
聞こえるか聞こえないかの小さな彼女の声に小首を傾げ、彼女を静かに見る。
「やっぱり、今日は帰ったほうがいいんじゃないの?彼女のところへ…。警護がつくのはもう少し後なんでしょ?」
「まぁ、警察もお役所だからな。なんだかんだと手続きに時間かかるんじゃねえの?」
と気のない返事をする。
「そういう事じゃなくて…」
「とりあえず今日は、高木刑事と千葉刑事が周辺調査を兼ねて交代で見張っているらしいから。もっともこの事はおっちゃんにはまだ言ってなくて、今日の結果をふまえて『事』を説明するらしいぜ。調書の件もまだ捜査中だし…内部書類がよりによって本庁内で盗難にあったんだからな。外に情報がもれないようにってピリピリしてるし…。オレも余計な事は言わないようにって目暮警部から言われたからな。ま、とにかく、おっちゃん達に内緒とはいえ実質的に警護されてるんだから、心配するこたぁねえよ…」
何だか様子が変だ。哀は探るようにコナンを見つめる。
「オレも、今日は疲れたし、蘭にいろいろ聞かれた時についうっかり、…なんて事がないとは言い切れねえしな。アイツ、会話ン中に何気なく罠張るの、案外うめぇからな」
と力なく笑う。
そう、以前にもそれで自分の正体がバレかけた事があった。流石、探偵の娘…というより、あれは弁の立つ母親に似ているなと内心思った。とにかく、組織を潰すためには蘭には自分と自分に関わる事件の秘密は隠しとおさなければならない。
それに、今は…。
チラリと哀を掠め見る。少し赤みが戻って来たものの、まだ顔色は悪い。
何者かは決めかねるが、妙な連中に付き纏われた時の恐怖。たぶん、今回狙われたのは…
『オレ…だな』
今日は彼女の髪は隠れていたし、正体がバレたなんて事はありえないはずだ。目をつけられたとすると、それは、きっと……。

―私たちの他に、彼らの目の前で幼児化した人間がいたとしたら?節操なく例の薬を使っていたらありえない話じゃないわ―

―あなたは犯人の目論みを、いとも容易く見破り共犯者まで割り出した。実に堂々と…。そんなスーパー小学生、興味持たれてもおかしくないわ―

―あなたの周辺に、気のよさそうな新顔が現れたら、気をつけることね―

以前そう語った彼女の緊迫した声が蘇る。疑惑はいろいろと、ある。
組織は、確実に動き出している。自分達の息の根を止めようと、そしてゆくゆくは自分達に関わった人間をすべて…!!
グッと拳を握り締める。それだけは、それだけはさせてはならない。その為にも…。それに、哀が緊迫した状況に置かれる日もそう遠くないような、そんな悪い予感がする。それも高い確率で…。でも、そんな話、今の哀には言えるわけがない。今日の事でもこんなに憔悴しきっているのに…。助けを素直に求める事の出来ない彼女。意地を張って求めないのではない。パニックに陥って出来なくなるのだ。そんな脆い彼女を放っておくわけにはいかない。守れるのは自分だけだ。
蘭の事も気になるが、彼女の方はまだ切迫した状況というわけではない。それに警察が、しかも、どういうわけか、今日、警部達がこっそり話しているのを全部は聞き取れなかったが、耳にした情報によると公安が動く事になり、それにSPがどうのと言っていた。どうやらそこから警護の人間が出るらしい。ならば、安心だ。
それにしても、公安が動くというのは只事ではない。コナンの知らないところで何か大きな事件が起きているという事か?
哀の話によれば、組織の人間の中には各界の大物・著名人も結構含まれているらしい。という事は、警察内部にも組織の人間がいるという可能性はないのか?もしそうだとすれば…。
『まずいな…。灰原の姿を見られた可能性がある。しかもあそこへ行ったのは今日が初めてじゃない!それだけ確率は高いって事だ』
やっぱり暫く、彼女の傍にいた方がいい。何にしても今が春休み中だというのは助かった。登下校中の危険や学校での友達が巻き込まれる事はないのだから。
「何を考えてるの?」
哀に声をかけられハッとする。
「え?あ、いや、明日の朝メシ、何を作ろうかなーって。おめーは休んでた方がいいからな。メシぐらいオレにだって作れるから安心しな。これでも前は自炊をマジメにやってたんだからよ」
「博士も自炊してたって言ってたけど?ジャガイモの暖簾(のれん)とか、とても上手よ?」
「あのなぁ…。オレはそれなりに自信あるんだぜ?これでも」
「聞こえとるよ」
後ろから阿笠博士が決まり悪そうにやってきた。
「ハハッ、悪ぃーな、博士っ。ここにいる間、オレもメシ作るからそれで勘弁してくれよ」
とコナンはさして悪びれもせずに言った。
「まぁ、気にせんでええわい。本当の事じゃからな。とにかく、今日はふたりともゆっくり休むんじゃぞ?わしは、まだ研究があるし…。地下室におるから何かあったら呼ぶんじゃぞ?」
「わかった」
「哀君も、無理はせん事じゃ」
「ええ、ありがとう」
博士は優しい笑みを残すと地下の研究室に行った。
博士の後姿が見えなくなるのを待って、哀は口を開いた。
「とにかく、明日は彼女のところに戻りなさい。私なら大丈夫だから。自分の身ぐらい自分で守れるし、博士の事だって私だけで大丈夫。あなたが守るべきは、探偵事務所の彼女なのよ?」
「んなの、おめーが気にする事じゃねえだろ」
「気にするわよ!元々は私が作った薬が無断使用されてこうなったのよ?まったくの無関係でいられるはずないじゃない!」
そこまで言ってから、哀は皮肉な笑みを浮かべてまた言葉を続ける。
「そうね、あなたは、薬の事があるから…だから、よね?それがなければ、私の事を心配する理由なんて、ないんだもの」
そこまで言って、彼女はビクッとした。
「……本気か?」
コナンの目に厳しい光が灯る。拳が震えている。いつだったか、この瞳と同じ瞳を見た事がある。そうだ、初めてAPTX4869の事を彼に告白した日…。あの時の彼自身の瞳。一生忘れる事のない、憤恚(ふんい)の炎。
「本気でそんな事、思っているのか?」
静かな口調だが、明らかに怒っている。哀は目をそらせた。
「でも、事実よ」
「何が事実なのか、オレが納得出来るように説明してみろよ」
彼女は何も答えなかった。いや、答えられなかったのだ。瞳が不安げに揺れている。コナンがそれを見逃すはずはなかった。彼女を見る自分の心がしくしくと痛むのを感じながら、彼女の苦悶に歪んだ顔を見つめていた。今の自分が漏らした失言を後悔しているのがよくわかる。
『…何であんな事、言ってしまったのだろう…。彼がそんな人じゃない事ぐらい、わかっているのに…私、とうとうおかしくなってしまったのかもしれないわね…』
涙が出てきそうになった。ダメだ。彼に見られるわけにはいかない。彼の前で泣いていいのは私じゃない。哀はそう思いながらも目頭が熱くなるのを感じながらどうにも耐えられなくなり、毛布で顔を覆ってしまった。
さっきの彼女の言葉が本心じゃない事ぐらい、コナンにはわかっていた。公園で話した時、自分達の決意後の…彼女の穏やかな晴天のような表情。あれが嘘なわけがない。
やはり、尾行されたの時の恐怖の所為で精神的に追い詰められ、疲弊してしまっているのだ。追い詰められ、さらに自分で自分に追い討ちをかけてしまう。痛みを痛みで相殺させようとする無意識の心の動きといったところだろうか…。父親の書斎でそういった文献を読んだ事があるので知識としては知っていたが、自分には経験がないから、それがちゃんと理解出来ない。それが歯痒くてならない。気持ちのメカニズムはよく解からないが、そうせずにはいられないほど、過酷な過去を背負っているのだろう。
自分が知らない彼女の心の傷…。何とか楽になって欲しいと思って今日は出掛けたのに、どうしてこんな事になるんだと、コナンは運命を呪った。そしてかぶりを振る。運命は自分で切り開くもの。いつだってそう信じて来たじゃないか。弱気になってどうする。自分自身に叱咤し、もう一度彼女を見る。
「そんなにスッポリ被っちまったら、喉痛めちまうぜ?」
と、頭部分にかかっている毛布をそっとよけてやる。
「ごめんなさい…」
「ったく、もう少し自分を大事にしろよ」
「…さっきの事…悪かったわ」
「二度とあんなバカな事言うんじゃねえぞ。ま、おめーだって本当はちゃんとわかってるんだろうし。大丈夫だ。前にも言ったけどよ、オレが何とかしてやっから」
額にかかる彼女の赤茶色の髪をそっと撫でる。彼女に安らぎの時が一日でも早く来ればいいと願いながら…。
「…どうしても……」
彼女の呟く声が震えている。
「ん?」
コナンの声が柔らかい。その声に包まれるような心地に引き摺られそうになりながら、彼女はその心地よさに甘えてはならないと自分に言い聞かせる。
「なんでもないわ…」
まただ。いつも彼女は自分の持ってる力以上の力を出して立ち上がろうとする。助けを求める事が罪だとでも思っているのだろうか。自分にはその資格がないとか、そんなふうにまた自分を責めているのだろうか…。
「オレは…オレは、おめーには絶対に幸せになって欲しいんだよ。自虐的にならずにさ、もっと自分に優しくなってもいいんじゃねえか?」
そう話し出した彼の瞳に、何故か悲しげな色が浮かぶ。
「それに、誰よりもそう願っているのは…おまえのお姉さんだとオレは思うんだ」
言うか言うまいか、今の今まで迷っていた。何もこんな日に言わなくてもいいのではとも考えた。だけど、彼女をしっかりとこの地に引き止める事が出来るのはもう、宮野明美さん…彼女のお姉さんしかいないのではないかと、そう思ったのだ。
哀はハッとして彼を見つめた。彼の瞳が今こんなに悲しいのは…
『…そうだったわ……このひと…』
だけど…。哀の双眸に鋭いものが走った。コナンはぽつりぽつりと、そして何かに耐えるように声を絞り出す。
「『あなたに姉の何が解かるっていうの?』…って、おまえ言いたいんだろ?」
言おうとした事を先に言われてしまい、哀は言葉を飲んだ。悔しさを噛み締めながら…。
「…そうだな、それにオレにはこんな事言う資格はないのかもしれない」
空(くう)を仰ぎながら瞠目する。その視線の先にあるものは何なのか…。
「誰かに利用されていた事…、そして命が狙われている事にも気付いたのに…。助けたかったのに…、間に合わなかった……」
「悪いのは、彼らよ。あなたじゃないわ」
哀はコナンにその次に言おうとしたであろう事を言って欲しくなくて、思わずそう言って続きを遮ってしまった。
コナンの見開かれた瞳が、哀に向けられる。哀は静かに頷いた。コナンは力なく息をふぅっと吐くと、俯き両手を組み合わせ震えるその手を見た。すぅーっと目が細くなる。
「オレは、絶対、アイツらを許さない。何としてでも手がかりを掴んでぶっ潰してやる。だから…」
哀は頷きながら
「私も彼らの事は一生許さないわ。あなたと同じよ」
そう言ってから、真摯な瞳を彼に向ける。今、やっと、知りたかった事を聞く事ができると思った。彼女の唇が開かれた。
「ねぇ、聞きたい事があるの」
「え?」
「姉は…お姉ちゃんは、最期に何て言ったの?」
沈黙が空間を走り抜ける。コナンは暫く彼女を見つめた後、彼女の姉の冥福を祈るように静かに瞼を閉じ、そして丁寧に…大切に紐解くように記憶をその唇で再現した。
「『もう…利用されるのは…ごめんだから……。頼んだわよ、小さな…探偵さん…』それが、お姉さんの最期の言葉、…願いだった」
そう言って静かに瞼を開ける。
「そう…」
哀は天井を見つめたままぽつっと呟く。コナンはさらにこう付け加える。
「そして……オレに最期の頼みを…鍵をオレに手渡したんだ。その鍵は、銀行から奪ったお金が隠されているコインロッカーの鍵だった。命に代えてまで守った本物の鍵…。あの鍵は単なる隠し場所の鍵なんかじゃなかったと思う」
相変わらず天井を見たままの哀を真剣に見ながらまた続ける。
「彼女の一番守りたい大切なものが入っていたんだと思う。それって、お姉さん本来の良心・優しさと、そして、おまえへの思いだったんじゃないかな…」
哀の両の眼が見開かれ、コナンを驚いたように見つめた。彼は悲しげな笑みを浮かべたままこう結んだ。
「オレは、その依頼を…彼女の真実の願いを、確かに受けた。今でもしっかりと…。だから灰原、おまえには生きて欲しい。幸せになって欲しいんだ」
「工藤君…」
彼女の聡明な瞳が熱く潤む。コナンは穏やかに微笑みながら黙って頷いた。
「その為なら、オレはどんな事だっておまえに協力する。だから……約束だ、灰原…!」
彼女の前にそっと小指を差し出した。哀も躊躇いながらも、小指を差し出す。
今、ふたりの小指が絡みあった。子供の頃に還ったようにその手を軽く上下に振る。ゆびきりでその約束を誓い合った。ふたり、照れくさそうに笑いあう。
「お姉ちゃんの最期を看取ってくれたのが、工藤君、あなたでよかった……」
吐息混じりに笑みを浮かべると、もう一度彼の方を見た。
「ありがとう…」
全身全霊で感謝の意を込めそう言った彼女の瞳が柔らかくほころぶ。

それは、灰原哀と出逢い、コナン―工藤新一が見た中で一番美しい彼女の笑顔だった。

 

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