寒い……。
コートもマフラーも手袋もまるで無意味。突き刺さるような風に、哀は思わず上着の襟を顎まで引っ張りあげた。
12月。おまけに23日。遊びの帰りの寄り道。街はところどころ灯りがともり、すれ違う人々は皆、どことなく浮かれている様に見える。商店街では、サンタの扮装をした人が何やら宣伝をしていた。
「関係無いわよね……あたしには」
哀とて、クリスマスを意識しないわけではない。が、ああやって大騒ぎするのには、どうしても馴染めないのだ。毎年、24日25日とそれなりに過ごしてきた。ある年は研究チームの数人で飲み、またある年は姉とささやかに祝ったりもした。家族で過ごした記憶は、無い。
「……今年は、どうなるのか……」
案の定、歩美達がパーティをしようと提案してきたが……。
『灰原さん、おいでよ明日!』
『そうね……どうしようかしら』
『えー、来て来て!だってコナン君来ないって言うし、灰原さんまで来なかったら寂しいよー……』
『……ごめんなさい、あたしも駄目……予定、入ってたの、忘れてたわ』
哀がそう答えた時の、歩美のあの顔が目に焼き付いている。不意に後悔が押し寄せた。
(なんて自分勝手なの……)
さっきからマフラーの毛糸の先が首筋をチクチクと刺している。どうしようもなく苛々して、哀は真っ直ぐ、誰も居ない正面を睨み付けた。
「さっきの事だけど、オメー、アイツらの誘い断んのか?」
今から数分前……別れ際に、コナンが訊いてきた。
「……そうだけど」
「てっきり行くんだと思ってたぜ」
「そう、でも行かないのよ」
「おまえ、結構アイツらと仲良いのに……」
「あら、推理が外れて残念ね、名探偵さん」
「なんで行かねんだよ?」
「関係ないでしょ」
言ってしまって、「あ、厭だ」と思う。
冷たい、乾いた声。どうしてこんな態度、取ってしまうのだろう。
素直にホントの事を言えたら……言えたら、何か変わるだろうか?
「……まあ、関係ねぇけど」
違う。違うの。
胸が、ぎゅっと疼いた。
何も言えなくなって、押し黙る。
「………………なぁ、知ってっか?」
「え?」
暫しの沈黙に耐え切れなくなったのか、コナンが口を開いた。
「願いが叶うツリー」
「何、それ?」
「米花町の外れ……ホラ、駅とは反対側の方、あっちにな、ちょっとした丘みてーのがあって……そこにあるツリーの前で何か願い事をすると、叶うんだってよ」
「どこにでも1つや2つ、転がってそうな話ね」
哀は興味無しと言った感じで、話を終わらせようとしたが、
「待てよ。でもそれがな、毎年そんなトコにツリーを飾るヤツなんていないし、実際に見た人もいなくて、どっから出た噂なのかも判らない……幻のツリーって呼ばれてるのさ」
「……あら、それは随分……ロマンティックな伝説だわ」
ここまで聞くと、いい加減うんざりしてくる。こういう話は、あまり好きではなかった。
「まあそうバカにすんなって」
「……どうしてそんな話するの?」
「へ?」
「……それじゃ」
「あ……ああ、またな」
振り返ってもコナンの後ろ姿が見えなくなって、哀は立ち止まった。
凍った風が爪を立てて頬を撫でた。
『なんで行かねんだよ?』
眼が乾く。
「……あなたが来ないからよ……」
掠れた声で、哀は呟いた。
「……何なんだよ、一体?」
「何って……」
そんな事言われたって、答える事などできる筈がなかった。
自分の意志とは別に、足が動いてしまったのだから……。そう、これは決して、私の意志ではないのよ。
「ワケ判んねーヤツだな。素っ気無くしたのはオメーだろ」
「………………」
「引き留めたからには用があるんじゃねーのか?何とか言えよ…」
「……怒ってる……の?」
その問いに面食らって、コナンが顔を上げた。
反対に、哀は俯いてしまう。
「いやっ、別に……怒ってなんかいねーけど」
「………………」
「いや……やっぱちょっと怒ってるけど…だ、だってオメーがワケ判んねー事ばっか……」
「判らない?」
「へ?」
「いいわ、ねぇ、今からちょっと付き合ってくれる?」
そう言うと、哀は勝手に歩き始めた。
「お、おい!どこ行くんだよ!?」
放っておくわけにもいかず、哀を追いかけながらコナンは、やっぱりワケの判らん奴だ、と心の中で溜息をついたのだった。
夜になり、空気は一段と冷え込んでいた。
吐く息が白くて、目の前が霞む。
小高い丘から上を見上げると、空がいつもより少し低く感じた。
冬の空は綺麗だ。月も星も、惜しみなく輝いている。何も隠す事などなく、ありのままの姿で。
「あんな馬鹿げた話、とっくに忘れてると思ったぜ」
コナンが、少し皮肉を込めて言った。
「………………」
「――ったく、こんなトコまで来ちまってよ……もう夜じゃねーか。博士も心配して、」
「だって」
哀が、コナンの言葉を遮る。
「明日の事、考えてたら……」
苦しくて。
「帰って眠りに就くのが厭で、このまま起きていれば明日は来ないんじゃないかって……」
あなたは、明日私がひとりで居る時、彼女と楽しく過ごしてるのね。
「別に、口実は何でも良かったのよ。そうよ……」
あなたを行かせたくない。けれど、そしてそれ以上に……。
不意に、雲が晴れた。
「あ……」
哀が小さく声をあげた。
「え?」
「見て、工藤君……」
と、視線を送った先には……、
「ツリーよ……」
背の低い、小さな木が、一本だけ立っていた。
「月……月が真後ろに重なってるんだわ……」
それだけ言うと、哀はまばたきをするのも忘れて、その小さな「ツリー」に魅入いったまま呆然としていた。
葉と葉の隙間から、星と月の明かりが差し込んで、キラキラ輝いている。葉が揺れると光も揺れた。
「……すげぇ」
コナンも哀の隣で暫らく動けずにいたが、やがて、言った。
「願えよ、何か」
哀が、ハッとしたようにコナンの顔を見る。コナンも哀を見ていた。口元に優しく笑みを浮かべている。
「幻のツリーだぜ」
そう言われても、哀はコナンの眼を見つめたまま動く事ができなかった。
願い事――そんなもの、無い。
望むことはやめた。とっくの昔に。願いなんて、遠い過去に置いてきた。
たったひとつ、あるとすれば……それは。
けれど、言えるわけない。
だって、と思って哀は地面を踏みしめる。冬の土の冷たさが、足元から伝わって身体中に沁みていった。
だって……もし言ってしまって、その笑顔が目の前で凍りついたりしたら……?
風が木々の間を通りぬけるたび、木の葉が揺れて、隙間からこぼれる月光も瞬く。
「……あたし――あたしの願いは……」
吐く息が白く、視界を霞ませる。吐く息が、白いから。
「どんな時も……いつか…すべてが終わっても…」
頭の中の、危険信号。言っちゃ駄目。後には戻れなくなる……。でも、もう遅すぎるわ。
「隣に、あなたが居ること……」
それは、思ったより、素直に言えた。顔が熱くなることもなかったし、言葉が詰まる事もなかった。
ただ、胸の動悸だけは、息苦しくなるくらい速かった。
「……ずっと、あなたが傍に居ることよ……」
あなたを明日へ行かせたくない。
でも、それ以上に今をあなたと一緒に居たくて。
だから、引き留めた。ちゃんと、私のココロで、そう想ったから。
「……灰原……おまえ……」
「まだ、ワケ判らないかしら?」
そう言って、哀はちょっと微笑んだ。その顔がどうしようもなく寂しくて、コナンは笑い返せずに、
「バーロ……何でなんだよ……」
「え?」
「何でそんな顔する必要がある?」
「………………」
「オレは、オメーは居なくなるんだと思ってた」
コナンは、草の上に腰を下ろした。
「きっとオレの前から……此処から居なくなると思ってた」
ぼんやりと、夜の闇を見つめる。
「それが怖かった……」
苦しげな声で、しかし落ちついた口調で。
「ずっと怖かったんだ……」
それは、どういう事なの?
訊けずに、哀は呟いた。
「そうね、居なくなるかもしれないわね」
「………………」
「だけど、居なくならないかもしれないわ」
ストン、とコナンの横に座って、悪戯っぽく笑う。
「だって幻の願いが叶うツリーの前で、お願いしたもの」
眼を丸くしているコナンを尻目に、哀は続けた。
「あたしは、自分は消えなきゃならない運命のような気もするわ……」
「………………」
「だけど、奇跡って起こるものでしょ」
あんまりサラリと言うものだから、コナンも苦笑して、
「そう簡単に奇跡が起こるかよ」
と、返す。しかし、そんな事くらいで黙る彼女ではない。
「あら、起こるわよ。だって明日はクリスマスイヴだもの」
そう言って、哀はコナンの顔を覗き込んだ。
どちらともなく、唇を触れ合わせる。
「奇跡が起こってもいいと、思わない?」
「ああ……いいかもな、たまには」
「たまには?」
「何度でも」
もう一度キスして、顔を離し、それから再び寄せ合った。
「明日が来なきゃいいなんて、思うなよ」
不意に、コナンが言った。先程の話をむしかえされて、哀は少々途惑う。
「え……」
「だって、明日はおまえと過ごしたいから」
そんな事を言われて、もっと途惑ってしまった。
自分の想いを告げた時はなんともなかったのに、今度は頬が紅潮するのが判る。
「なっ……だ、だって……彼女はどーするの……」
「いや、違うんだ、歩美達の誘い断ったのはな……っ」
そこで言葉を切ったかと思うと、コナンは派手にクシャミをした。
「……ちょっとこのとーり、カゼ気味なもんで……っくしゅ!」
鼻声で言い終わらない内に、またクシャミが出る。哀は思わず、声をあげて笑ってしまった。
「……やっぱ、明日は大人しくしてるか……移したら悪いし」
「あら、移ったって構わないけど」
くすくす笑いながら、
「それに、もう手遅れなんじゃないの?」
一瞬、ポカンとするコナンだったが、すぐに意味が判って真っ赤になった。
「良いじゃない、人に移すと早く治るって言うわよ」
「んなの迷信だろ――……」
「だから……良いのよ、口実は何だって」
夜空には、星が惜しみなく輝いている。
何度も唇を寄せる二人に、月光がやさしく降りそそいでいた。 |
|