ひとりぼっちのキミに。
 

 
「工藤が倒れたぁ!?」
 
 平次の反応は予想以上だった。耳を突き抜ける様な絶叫に、哀は思わず携帯を落としそうになる。
 
「……ただのカゼよ。大袈裟ね」
「ホンマにアイツはもぉ……」
 
 打って変わって、疲れ果てた声。惚れた弱味とはこういうものか……。
 
「また何か無理しよったんか……アイツ、何でも溜め込むからな……」
「あら、よく知ってるじゃない」
 
 からかうなっ、と拗ねた様に呟くのが聞こえた。多分、携帯片手に真っ赤になっているのだろうと容易に想像が付く。
 何だか可笑しい。哀は思った。誰かを好きでいることは、とても滑稽で、そして素敵だ。
 
「しかしビックリしたで。工藤に電話したら灰原が出るんやもん、こんな時間に二人で何しとんや思たわ」
 
 それは、そうかもしれない。愛しの彼の携帯に他の女が出たら、誰だって一瞬疑ってかかるだろう。
 
「面白いことを言うわね。何もあるわけないでしょう」
「そやかて、昔とはちゃうわけやん?工藤も、もうコドモの身体やないんやから」
「あたしはまだコドモだけど?」
「問題あらへんやろ。逆やったら知らんけど。アイツが変な気ぃ起こしたら……」
 
 有り得ないわね、と哀は溜息混じりに呟いた。
 
「あなたからラブコールが来る時間帯に、わざわざあたしを呼ばないわよ」
「っ!?そ、そんなんちゃうわっ!」
「もっと信じてあげなさい。好きな人に信じて貰えないのは、辛いわ」
「信じとるわっ。でもなー、信じるんと不安になるんとはまた別なんやっ」
「あら、ノロケね」
「んなっ……」
 
 そんな遣り取りを暫し面白がっていた哀だったが、ふと声のトーンを落として、
 
「心配?」
 
 と、訊いた。
 不思議な口調だ。どこか思い詰めたような、寂しげな、それ。
 
「……知らん」
 
 どうして彼女がそんな言い方をするのか、それは平次もよく判っている事だった。
 彼女は苦しいのだ。伝えられない想い。伝えてはいけない気持ち。
 ――あたしじゃ、彼を救うことなんて、決して出来やしないのに――。
 
「……そぉか……アイツ寝込んでるんかぁ……」
「何?」
「別に……何でもあらへん」
 
 自分の考えは、ひどく勝手な事の様に思えた。言うべきではない。咄嗟にそう思う。
 しかし、その事を口にしたのは、哀の方だった。
 
「来たい?」
「な……」
「すぐにでも飛んで来たいクセに」
「………………」
 
 思わず黙り込む。嫌味を言っている様には聞こえない。
 
「……来て、あげてくれない?」
「……へ?」
 
 その言い方は『恐る恐る』という表現が似合っていた。
 途切れた言葉。張り詰めた一瞬の沈黙。切なさ。
 
「カゼじゃないわ……一度意識は取り戻したから心配は無いと思う。今は眠っているけど……精神的にまいってるのよ、あの人。当然よね……これなら、江戸川コナンの時の方がまだマシだったわ」
「何やて?どーゆう事なんや?」
「午後……8時くらいかしら、彼から電話があったの。教えてくれ、って……オレはどこに居るんだろう、って……あたし何も言えなくて、とにかく彼の家に行ってみたんだけど、既に倒れてて……」
 
 淡々とした喋り方の裏で、必死に動揺を隠している。今、彼を一番心配しているのは、自分ではなくて哀なのかもしれない。悔しさに似た妙なもどかしさが、平次の中に浮かんで消えた。哀は続ける。
 
「工藤新一には戻ったものの、以前の生活は未だ戻って来ない。下手には動けないから、ろくに外出も出来ない。あたしだっていつもいつも傍に居られるわけじゃないし、彼はずっとひとりだったのよ。広い家でひとりきり……」
 
 突然、哀の言葉が詰まった。
 
「……灰原?」
「……あたしじゃないの……あたしじゃ駄目なのよ……」
 
 震える声。
 
「お願い……あの人の傍に居てあげて……」
 
 掠れて言葉にならない語尾が、平次の胸を締め付ける。
 その後は、激しい息遣いだけが携帯の向こうで続いていた。
 
「灰原……」
「……え?」
「お前でも泣くこと、あるんやな」
「……泣いてないわよ」
 
 ぐすっと鼻をすすりながら、それでもいつもの調子で返す哀に、平次は思わず微笑んだ。
 
「心配すんなや……どこでも行ったる。たとえ地球の裏側やろーが、どこでも行ったるから」
「……愛されてるわね、工藤君」
 
 羨ましいわ、と呟いた哀の言葉は、新一に向けられていたのか、それとも平次に向けられたものだったのだろうか。
 
「待ってろや」
 
 そう言って、平次は電話を切った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ん……」
 
 陽射しが眩しい。何か、夢を見ていた。つい今までその内容を覚えていた気がするのに、思い出せない。
 もうとっくに昼を過ぎていた。ぼんやりする頭でベッドから起き出し、リビングへ入ったが、居るはずの哀の姿は見えなかった。
 
「……灰原?」
 
 キッチンにでも居るのだろうか。それとも、帰ってしまったのか。
 突然、言い知れない不安が押し寄せて、新一はしゃがみ込んだ。
 まただ。昨日もこれに襲われた。自分の存在も、なにもかもが危うい。全てが不安定で、今にも崩れ落ちそうな。
 そんな感じ。
 昨日哀がこれを、精神的な発作と言ったのを思い出す。
 ああ、そうだ、灰原。灰原はどこだ。誰か。誰か助けてくれ……オレの名前を。誰か。
 誰でもいいから、呼んでくれ……。
 
「よ、工藤。おはようさん」
 
 突然、声が降ってきた。驚いて顔を上げると、
 
「!!?なんっ……おま……服部……!!」
「し〜〜〜〜〜〜っ!騒いだらアカンてっ」
「あ……」
 
 平次が指差した先のソファには、哀が寝息を立てて眠っていた。
 
「朝方まで起きとったんやで。お前を心配してな。起こしたら悪いよって、話は後や」
 
 新一はしぶしぶそれに従い、今まで自分が寝ていた部屋に平次を入れた。
 
「……で?何でお前がいるんだよ……」
 
 不機嫌は戸惑いの裏返し。
 平次は力任せに新一を抱き寄せるた。
 
「!!……ちょっ……何す……」
 
 言いかけた彼の唇を塞ぐ。新一は驚きに身体を強張らせたが、抵抗はしなかった。
 平次が何か言おうとした時、離れまいと唇を押し付けたのは、新一の方だったのだ。
 
「ドあほ……オレがおるやろ……?心身まいってまうまで悩むなや……自分の存在確かめたかったら、オレんとこ来い……嫌っちゅうくらい実感さしたる」
 
 長いキスが途切れ、互いの吐息がこぼれた時に、平次が小さな声で呟いた。
 上手く伝えられない。それでも、言いたかった。自分がどれほど彼を想っているか。
 ひとりだなんて、思わせたくない。思わないで――。
 
「なぁ、オレ、お前のこと好きやで」
「判ってる」
「……っ、判ってるて……!自分でゆうなやっ」
「なんで?」
「は……」
「だって感じるもん。オレって愛されてんなーって。自信ってゆーの?」
「………………」
 
 この図々しさ。ホンマに倒れた人間か?
 平次は苦笑を浮かべて、しかしホッと安堵した。いつもの工藤や。
 
「おめーは?」
「へ?」
「感じてる?愛されてる実感」
 
 なんちゅー挑発的な眼ぇするんや、こいつは。
 終いにゃ襲うぞコラ、などと思いながら、平次は赤くなる顔を必死に抑えて、

「……ったりまえや」
 
 とだけ言ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――ったく、余計な事しやがって……」
「あら、お蔭で回復したじゃない」
「うるせー、んなコトねぇよ」
 
 新一はふてくされて否定する。が、しかし実際、哀が取り乱すなんてどんなにひどい状態なのかと平次は思ったのに、今現在、本人は至って元気。それが他の何ものでもない平次の影響であることは、誰の目にも明らかだったが、嬉しさの半面、自分にはもっと弱音を吐いていいのにと強がる新一を見て少々不満に思ったりする平次である。
 
「ほな、オレ帰るわ」
「あら、ゆっくりしていって良いわよ」
「いやぁ、そうしたいんやけど……月曜テストやねん。オレは別にどーでもええねんけど、オカンにしばかれるよって」
「高校生ってカンジね」
「ほんじゃ、そーゆうコトで」
「……じゃーな」
 
 一言、そう言い残して、新一はさっさと奥へ引っ込んだ。
 
「素っ気無いやっちゃ」
「別れたくないのよ」
 
 その通りだろう。それは平次も判っていることだったが、哀がさも可笑しそうに言うので、「なるほどな」と答えて笑った。
 
「呼んでもろて良かったわ」
「そう?そう言って貰えると助かるわね」
 
 ふいに哀がニコリと微笑んだ。安堵の表情。
 
「あたしに出来ることは、何でもしたいから。あの人が少しでも救われるなら、あたしは何でもする」
 
 まったく、こいつには敵えへん。平次は少し悔しく思い、そして、そんな哀を素敵だと思った。
 
(こないな可愛い女、工藤には勿体ないわ)
 
 哀が聞いたら、ほんと嫌な人ね、と眉をしかめるに違いない。
 けれど、これは平次の本音だった。こんなにひたむきに人を愛せたら、どんなに素晴らしいだろう。
 
「ほな、またな」
 
 そう言って行きかけた時、さっき一度閉まったドアが、突然開いた。
 
「……また来いよ」
 
 という声と共に、缶コーヒーが飛んでくる。
 本当に、素直じゃない。哀も呆れ顔で、向こうに声の主が居るだろうドアを見つめている。
 上手くコーヒーをキャッチすると、平次は笑って言った。
 
「……今度はお前が来いや!」
 
 バーロォ、だれが行くかよ、おめーがオレに会いに来い。ドアにもたれかかるようにして、新一が呟く。次の瞬間、
 
「ちょっと、そんなとこに立たれちゃ、邪魔よ」
 
 と言うのと同時にドアが開いて、新一の後頭部を直撃した。
 
「ってーなっ!知ってんなら、んな勢いよく開けんなよ!」
「あら、赤い顔しちゃって」
「……っ、これは……なんでもねーよっ」
「“これは”?あたしは冗談で言っただけよ?別に赤くなんかないけど?」
「てめ……」
 
 今度は本当に赤くなる。何だかんだ言って、愛し合ってるのよね。
 次の日曜日、新一はきっと大阪へ行くだろうと確信して、哀は苦笑を浮かべたのだった。

 


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