いつもと違う、というのは、奇妙な事だ。
 いつもと違う景色、いつもと違う空気。
 そこから覚える疎外感は、並大抵のものではない。
 何にせよ、それは言い知れぬ不安感となり、不吉な兆のように思え、そしてそれは時として現実へとなるのだ。

「どうしたんだ?」

 彼はいつものように、闇に紛れてその身を潜めていた。
 それだけなら、葉は「どうした」などとは訊かなかっただろう。
 ただひとつ、葉に疑問を抱かせたのは、あの茎子の件以来、まだ月の出てない夜は一度も来ていないという事だった。

「今日は月が出てんのに、何で来たんだ?こんな事、今まで一度もなかったじゃねぇか」

 彼は、何も言わない。
 心臓が高鳴る。
 知らせているのだ。
 良くない事が起こる、と。

「おい、どうしたんよ?母ちゃんの事なら、心配は……」
「おしまいなんだ、もう」

 痛いくらいに、身体中の血が脈打った。

「今夜が最後だ。ここに来るのは」
「………………」
「さぁ、何の話をしようか」

 納得できなかった。
 怒りすら感じた。
 何に対して、なのかは自分でもよく判らない。
 強いて言えば多分、神とかいう存在に対する怒りだったかもしれない。

「なん……でだよ……母ちゃんに見つかりそうになったからか……?」
「いいや」
「じゃあ……!」
「僕を忘れろ、葉」

 決して冷淡ではない、その言葉。
 どちらかと言えば、必死に何かを押し殺しているようでさえある。
 けれど。

「今なら、まだ間に合う。忘れるんだ、葉、僕を」
「……いやだ!」
「嫌でも、忘れるさ」
「忘れるもんか!」

 葉は泣きそうになっていた。
 忘れろ、と言われたのが辛かったからではない。
 気付いてしまったのだ。
 自分はきっと、彼を忘れていくのだろう事に。

「大きな声を出すな、葉」
「……!」
「おいで、こっちへ」

 ハッとして、葉は少し身体を起こした。
 いつもなら影もぼんやりとしか映らないのに、今夜、月明かりに照らし出された影の輪郭は、彼のその存在をはっきりと知らしめていた。
 這うように布団から抜け出して、そっと襖に手を掛ける。
 これまで、一度も起こらなかった事が、今、起ころうとしているのだ。
 吹き込む、冷たい風。

「……お……まえ……」
「……驚いたな。本当によく似てる」

 襖を開けると、彼はそこに居た。
 だが、葉は同時に、自分が居る、とも思った。
 同じ背格好。
 同じ輪郭。
 同じ口元。
 同じ瞳。
 初めて見た彼の姿は、まるで自分に生き写しだった。

『僕は、いつだって何かを失ったまま』

 望むという事は愚かな事だ。
 いつだったか、今までに聞いたたくさんの話の中で、彼は葉にそう言った事があった。
 その彼もまた、何かを求めていたのだろうか。

「人は忘れていくものさ。もしすべてを憶えているなら、とても生きてはいけないからだよ。けれど、時として人は、決して忘れられない出来事にも出会う。それが、その人の運命を左右するんだろうね」
「………………」
「これが、今僕が君にしてやれる最後の話……」

 彼の手が、葉の手に触れた。

「お別れだ。時が来るまで」
「……忘れたく……ねぇんだ……」
「無理だよ」

 はっきりと、そう言い切る。
 でも、その通りだ、と思った。

「さよなら」

 そして、その言葉通り、月のない夜に彼が現れる事は二度となかった。
 彼は消えた。
 あの、葉が必死で刻み付けたはずの孤独の匂いですら、後には残らなかった。

『時が来るまで』

 その時が来たら、多分お互いはもう完全に別の人間なのだろう。
 だから彼は、さよなら、と言った。

『月はそこにある』

 彼が去ったその夜、葉は眠らずに月ばかり見ていた。
 それから少し泣いて、どこにも無い彼の影を捜し、やがて、忘れるという事は切ない事だと、ぼんやり想っていたのだった。