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か   ざ   ほ   ろ   し

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 その部屋は薄暗く、じめじめと湿っていた。
 たたみ二畳ほどの広さに、塗料のはげた浴槽と便器。もう長いこと使われていないらしく、表面には埃が張り付き、乾ききって所々ひび割れている。それなのに、この湿っぽさは何なのだろう。不自然に響く水の音。遠いような、近いような。ぴちゃん、ぴちゃんと規則正しく……。
 ここはどこだ。身体を起こそうとしたが、自由がきかなかった。だるく痺れた手足。朦朧とする頭が重い。ぞくぞくと寒気立つ背筋とは裏腹に、顔だけが燃えるように熱かった。

(風邪で熱が高い時は……確かこんな感じだ……)

 そうだ、風邪。
 途切れ途切れの意識の中で、思い出す。何だか風邪っぽいなとは思っていたんだ。そうしたら、みるみるうちに体調を崩した。寝ていれば治ると思ったが、ラキストを筆頭に奴らが騒ぎ立てるから、どうにも寝付けなくてちょっと外へ出たんだ。

(……で、ここはどこだっけ?)

 軋む身体を何とか起こして辺りを見回す。
 まず目に入ったのは、自分の右側……さっきぼんやりと認識した浴槽だ。それから反対左側、浴槽と同じように古びた便器。前には磨りガラスがはめられた扉。天井、取り外された電球のあと。それ以外には何もない。
 それでも、この部屋の湿気の原因はすぐに判った。誰かの手によって、浴槽に水が溜められているのだ。水面に塵や埃が浮いて、膜となっている。その浴槽の淵に、無造作に置かれている錆び付いたシャワー。その吹出し口からは水滴が垂れ、薄暗い室内に音を響かせていた。
 と、突然、殴られた直後のように頭がぐわんぐわんと揺れ、激しく痛んだ。正確には、頭の中が。
 この感覚は何なのか。そんなこと、知り過ぎているくらい知っていた。これは、心だ。人の思念が勝手に脳を抉じ開け、入り込んでくる時のあの苦痛。懐かしくもあり、そして思い出したくもなかったあの感覚。

「やぁ」

 痛みに気を取られ、気配に気付かなかった。
 いつの間にかガラス戸が開いている。そこに立っているのは見覚えのある顔、一人の少年。

「気分はどうだい?ハオ」

 しゃんと立つその姿から、育ちの良さが見て取れる。白い装束の下からすらり伸びた足はきちんと揃えられ、ハオという名を呼んだ唇は、憎き仇の名を紡いでいるとは思えぬほどに落ち着いていた。
 しかし、先程から流れ込んでくる止めどない思念。その激しい痛みから、この見るからに聡明な少年……リゼルグのたぎるような憎しみを、ハオは充分に感じ取っていた。普段なら制御できるはずの霊視。それが今は、自分のコントロール下を離れ、好き勝手に暴走しているのだ。そう、まるで昔のように。

「嬉しいよ……君とこんな風に顔を突き合わすことができるなんて」

 キィ、と耳障りな音を立ててガラス戸が閉められる。
 リゼルグは、微笑みを浮かべて一歩、ハオに近づいた。この狭い浴室の中、たった一歩でもかなりの接近になる。ハオは身構えようとして、それができないことに気付いた。両の手首は後ろ手に縛られ、足首も同じように縛られている。身体の自由がきかなかったのは、風邪による熱のせいだけではなかったのだ。
 先刻に身体を起こしていたので、ハオは今、正座のような姿勢で浴室の壁にもたれ掛かるようにして座っていた。それを見下ろすリゼルグの、眼。

「みんな必死になって君を捜してるよ?あのハオが弱くなったってさ。巷で流行ってる妙な風邪……人間の第六感を麻痺させる風邪というのは、本当だったんだね」

 瞬間的に頭が冴え渡った。
 あの時。基地の騒々しさに耐えかね、外に出て、リゼルグに会った。まるで捜していた相手に出会えたとでもいうように、彼はニコリと笑い、そして突然攻撃を仕掛けてきたのだ。当然ハオも応戦しようとオーバーソウルした……はずだったのだが。

(そうだあの時……!僕はオーバーソウルできなかった……!)

 そして、その後の記憶はない。多分、リゼルグのワイヤーに捕らえられ、ここに拘束されたのだ。ここがどこであるのかはよく判らないが、大方この島に点在する廃墟と化した建造物のうちのどれかだろう。
 先にリゼルグが口にした、第六感という言葉。そういう言葉があるように、巫力も感覚器官の機能の一つとも言える。風邪を引くと聴覚や味覚が鈍ることは良くあるが、つまりはそれと同じことなのだ。この風邪のウイルスは、通常の風邪の症状に加え、巫力という感覚機能を麻痺させる。一般人にはただの風邪でも、シャーマンにとってそれは致命的なことだった。

「巫力を失ったハオなど畏るるに足らず……もちろん、X-LAWSも勢力をあげてこのチャンスを逃すまいとしてる……」
「………………」
「でも、誰にも渡すもんか」

 ハオを捉えるその二つの瞳。そのコバルトグリーンの眼が、ギラリと光る。

「君は僕が裁く……他の誰にも指の一本触れさせやしないからね」
「そんなに僕を殺したいのか?」

 ハオがそう言い終わるか終わらないかのうちに、リゼルグは素早く転がっていたシャワーを取り、そして間髪入れずコックを捻ると冷水をハオめがけて浴びせかけた。

「ぶっ……!」
「どの口が許されて僕に質問できるのかな」

 淡々とした口調で言いながら、咄嗟に顔を伏せたハオを覗き込む。リゼルグが近付いたことで、吹き出し口近くの勢いを増した水が容赦なく顔面に降り注ぎ、息をするのも儘ならない。
 リゼルグはそんなハオを鼻で嗤うと、出しっ放しのシャワーを既に水が満タンになっている浴槽の中へと投げ込んだ。飛沫がはねて、リゼルグの白装束を濡らす。

「巫力はなくても、霊視は使えるんだろ?それどころか、制御できなくて辛いだろう」

 浴槽から、行き場を失った水が溢れ始める。
 リゼルグは濡れそぼったハオの髪を乱暴に掴み上げると、その顔に鼻先を近付けて、

「感じるよね、僕の心を……おまえなんか、殺したって殺し足りないんだ……よ!!」
「ガボッ……!」

 突然声を荒げ、ハオの頭をそのまま浴槽の中へ突っ込んだのだ。

「がはっ」
「ほらほら、抵抗しないと溺れるよ?」

 すぐに引き上げてまた沈める。薄笑いを貼り付けて、その繰り返し。
 沈めては引き上げ、引き上げては沈め、ごぼごぼと声にならずもがく姿を見ては嗤いながら言葉をぶつける。
 そんなこと繰り返すうち、ついにハオの様子に異変が現れた。無抵抗になり、呻き声ひとつあげない。首も肩も腰も、だらんと力なくしな垂れている。
 リゼルグはふと動きを止め、今まで水中に突っ込んでいた頭を、今度は浴槽とは逆の方向にある便器の方へと向けた。そして、躊躇うことなく、便座と蓋のつがいめに額を力いっぱい打ち付けた。ガツン、と骨のぶつかる嫌な音。

「ウッ……ゲホゲホゴホッ!ゴホゴホ……」
「困るな、勝手に気絶されちゃあ……」

 衝撃と激痛で意識を取り戻し、同時に大量の水を吐く。そんなハオを尻目にリゼルグは、そのままもう一度さっきと同じ箇所を、乾いた便器へと叩き付けた。さっきよりもはっきりと感じる痛みに、息を絞り出すようなハオの呻き声。
 吐き戻した水と唾液を拭うこともできずにうな垂れるハオを見て、リゼルグは満足げに目を細めた。

「これで目が覚めた?」
「はっ……はぁっ……!」
「簡単に気を失ったりしないでおくれよ……言ったろ?殺しても足りないくらいだって……ちゃんと見せてくれなきゃ、恥辱に歪んだその顔を」
「んぐっ……」

 リゼルグの細い指が、息も絶え絶えなハオの唇に触れたかと思うと、それを歯ごと抉じ開ける。割れるような額の痛みと、気の遠くなるような霊視の苦痛で、既に抗う気力さえもない。
 それをいい事に、どんどん奥へと入り込む中指。ぐりぐりと口腔内を引っ掻き回しながら、徐々に奥へ、奥へと。その指の感触に、何度も吐きそうになる。

「ちゃんと聴かせてよ、苦しみもがくその声をさ」
「……っおえぇ!けっほけほ……!」

 にわかに指を喉の奥に突っ込まれ、ハオはえずいた。吐くものはなかったが、代わりに涙が滲む。

「フフ!いい様だね!おかしいよ……だって僕の指はこんなにか細いのにさ。あの最強と謳われるハオが、この指のせいでそんな顔をするんだから」

 さも面白そうに含み笑いながら言ったあと、リゼルグがぱっと手を離したので、ハオは糸の切れた操り人形のようにその場に倒れこんだ。
 なおも浴槽から溢れ続けている水で、辺り一面は水浸し。床にこすり付けられた頬から伝わるその冷たさが、ともすれば遠退きそうな意識を辛うじて繋ぎとめた。目の前の水が赤く染まり、額の裂け目から血が流れていることを知った。

「君は多くの人間から憎まれてるけど……本当はそんなこと僕にはどうでもいいんだ。君がどれほどの悪人だとか、どれほどの罪を犯したとか、そんなもの僕には関係ない」

 血を流すハオの頭を足蹴にしながら、リゼルグは吐き捨てる。

「おまえが僕の父さんと母さんを殺したから!僕の幸せの全てを奪ったから!だから僕は誓ったんだよ!残りの生涯をかけておまえを見つけ出し、必ずこの手で裁きにかけてみせると!」

 こめかみを踏みつける足に力を込め、荒々しく浴びせる言葉。
 どんなに冷静を装おうとしていても隠せない怒り。怨み。憎しみの炎。
 激昂するリゼルグに反して、ハオの意識はだんだんと明瞭になっていった。

「全て、か」

 冷たい床が、思考回路を冴えさせる。

「随分と取るに足らない全てなんだな」
「汚い口をきくな……!」
「君の両親は僕の邪魔になる可能性があった……だから殺した。充分な理由だろ?」
「貴様ァ……!!」

 人間は変わらない。
 千年前も、500年前も。
 人は人を疑い、正義を振りかざし、弱いものを排除する。そんな愚かな人間を、憎んだ日もあった。
 けれどそれが人の姿なのだ。人の世は地獄よりも醜く、人は鬼よりも醜い。
 ならば、僕はそれより強くあれ。

「おまえらってほんと、馬鹿だよなぁ」

 リゼルグが怒りに打ち震えるほど、ハオは冷静さを取り戻した。
 熱が引き始めたのだろうか、朦朧としていた頭も、今では至って正常であるように思われた。常に流れ込んでくる思念にも、さほど苦痛は感じない。徐々にではあるが、霊視のコントロールが戻ってきている。

「僕の言葉なんかにいちいち腹を立てるくらいなら、さっさと殺しちまえよ」
「貴様なんかに!僕の気持ちが判ってたまるか!」
「判りたくもないね」

 それから暫くは、水の流れる音しか聴こえなかった。
 リゼルグの深い溜め息が漏れるまでは。

「……あーあ」

 眉を顰めて、うつむく。靴の先を、じっと見つめて。水の滲みている爪先が、痺れるように冷たい。

「まだ自分の立場ってものが判っていないんだ……そこまで頭が悪かったなんて……」

 低く静かに呟く声の裏で、確かに煮えたぎる激情。
 リゼルグはハオのマントの襟元を掴み、引っ張りあげた。白く細い腕のどこにそんな力が隠されているのか。半ば力の抜けているハオの身体を無理やり起こして立たせると、自分はペンデュラムにオーバーソウルした。
 意思を持ったワイヤーが、器用な動きでくるくると舞い、ハオの全身に絡みつく。足首からふくらはぎを伝って腿、腰、胸と二の腕、そして首。緩やかに巻きついた細い金属の糸が、衣服ごしに肌をむずつかせる。

「正直がっかりだよ」

 そしてリゼルグが巫力を注ぎ込んだその瞬間、今までゆったりとしていたワイヤーは突如牙を剥いて、布を裂き、肉を裂いていた。

「うああああああッ!!」

 狭い浴室に反響する叫び声。鮮血がぱっと咲いて散る。
 このままバラバラにされた方がいっそ楽かと思うほどの激痛。
 しかし、リゼルグは一旦ワイヤーを緩めると、今度はじわじわと締め始めた。

「………………っ」
「どうした?苦しいのかい?」

 首に絡まったワイヤーのせいで息が出来ない。全身を切り刻まれた痛みも相まって、ハオは今にも気を失いそうだった。いや、気を失っていたかもしれない……先程までの自分なら。

「さっきまでの驕り高ぶった態度はどうしたのかって聞いてるんだけどなぁ……まさかハオともあろう者が、これしきのことで口がきけないなんてことはないよね?」
「かっ……は……!」
「あはは、いい顔してるじゃない?君に焼かれ、悶え、惨めに死んでいった罪なき人々と同じ表情だ」

 けれど、今は違った。
 心のどこかが冴え返っている。
 視界が霞み、だんだんと世界が琥珀色を帯びても、意識だけはどこか冷静に事態を見ていた。

「だけど、彼らの苦しみはこんなものじゃない」

 罪なき人々か。罪の無いうちに死ねてよかったじゃないか。それとも、人間は生まれた時から罪を背負うように仕組まれているのか。だとしたら、罪なき人などこの世には居ない。誰に殺されたって、文句は言えないだろ。
 ワイヤーが頸部をじりじりと絞める。血の花は咲かなかったが、代わりに蜜となってこぼれ始めた。皮膚の裂け目からゆっくりと流れ落ちる、赤い蜜。
 誰かの身勝手で、愛する者を殺されたって、それがこの世界なんだから仕方ないんだよ。
 それが嫌なら、全部創り変えられるほど強くあればいい。

「んぐぅ……」
「解放されたい?なら請うてみなよ、この僕に……跪いて許しを請え……っ!!」

 不意にリゼルグの視界が奪われた。と、同時にハオの世界が色を取り戻す。
 渾身の力で、ハオはリゼルグの顔面に向かって唾を吐きかけたのだ。思わずひるんだ時にワイヤーが緩み、ハオはその場に放り出された。一気に流れ込んだ酸素でむせ返る。

「うげっほ……げほげほごほっ……!ンッ……!」
「きっさぁまぁ……!!」

 袖で面を拭うと、リゼルグは低く押し殺した声でハオを睨み付けた。それは、耐えられないほどの屈辱。
 瞬時にして眼の色が変わる。さっきまでのように、憎い相手をいたぶることで誤魔化せていたような感情ではなかった。
 頭の中を占める想いは、ただひとつ。もう、何の躊躇いもない。ないはずだ。

「殺す……!!!」

 全巫力をもってして、目の前の仇を討つ。

「スピリット・オブ・ファイア」

 しかし。
 リゼルグがマステマ・ドルキームを発動するより疾く、ハオの黒雛がリゼルグを捕らえていた。

「………………!」
「だから馬鹿だって言ったんだよ」

 嘲笑うような瞳で、上目がちに見遣る。
 見上げられているのに、見下されているような威圧。
 形勢逆転だ。

「巫力が戻っていたのか……!くそっ!」
「あれだけ激しく汗をかかされたら、風邪も治る」

 悔しげに顔を歪めるリゼルグ。冗談めかした言葉が、余計カンに障った。が、だからといって今はどうすることも出来ない。何しろスピリット・オブ・ファイアを纏ったハオに、手足ごと握り潰されているのだ。少しでも動けば、骨がバラバラになる。

「命なんてのはさ、おまえらが考えるよりもっと簡単なものだよ」
「な……!!」
「生き物が殺しあうのだって、本来は極めて純粋な行動であったはず」

 命は力を前にして等しく無力なもの。だから強さを求める。だから殺しあう。食べるため、身を守るため、生きるために。

「それを歪めたのは、愚かな人間の欲望さ」

 ハオの瞳が、燃えるようにぎらつく。
 先ほどまで弱っていたとは思えないほどの力。

「殺したければ殺せばよかったんだ。知っての通り、僕は今までに幾人もの人間を殺したが、少しでも自分の命がそれより重いなんて思ったことはない。もっとも……」
「ぐ……!」
「今となっては、殺されるのは君の方かな?」

 命の価値、などと言う者がいる。でもそれは違うのだ。それは間違いであって、命自体に価値なんて付けられない。
 命に重みを感じさせるものがあるとすれば、それは魂の重さ。魂は複雑。だけど、命はそう、簡単なのだ。
 それを奪うことは容易い。今だって、ハオが少し巫力を強めれば、たちまちひとつの命の火が吹き消される。
 もはやこれまでか。リゼルグがそう思いかけたその時。

「……ま、いいや」

 ふと、何かに気付いたように、ハオは突然そのオーバーソウルを解いた。
 どすんと尻餅をついて、リゼルグが呻く。

「何だか気分が削がれたよ……僕にここまでの仕打ちをしてくれたお礼をしようかと思ったけど、それは今度に取っておくとしよう」
「何を……!?」
「君が僕の後を追いかけて来るのを待ってるからね」

 そう言うと、戸惑いを隠せないリゼルグを残して、ハオは浴室を後にした。
 身体中のあちこちが痛むが、歩けないほどではない。頬にへばりついていた濡れ髪を払いながら、外へ出る。
 傾きかけた太陽が眩しい。少し強く吹く風が、傷口に染みた。

「覗きとは、いい趣味だな」

 語りかけた物影から出てきたのは、

「葉」

 血を分けた兄弟。双子の弟。
 少しだけ決まりが悪そうに、けれど険しい顔付きで、ゆっくりとハオの眼前に姿を現した。

「おまえに言われる筋合いはねぇけどな」
「どこから見ていた」
「………………」
「ふぅん……そこからか」
「……おまえからは不思議なくらい殺気も何も感じなかった。でもリゼルグがおまえを殺すなら……それは何としても止めなきゃなんねぇと思ってたんよ」
「何故だい?」

 白々しい問い。
 判っているのに。葉の心、願い。判っているから、壊したくなる。弱いくせに自分の願いが叶うだなんて信じているのは、反吐が出る。
 なのに、葉の答えはごくごく素直なものだった。

「あの時はまだ巫力が戻ってなかっただろ。おめぇ、リゼルグが本気になったら殺られてたぞ」
「いいじゃないか。僕を殺したところで、どうせあいつの心は埋まらない……なら好きなようにすれば良かったのにさ」
「おまえ……」
「僕なら、また転生すればいいだけだしな」

 まるで、勇者が死んだらまたリセットすればいいだけだとでも言うような口ぶりだ。
 あっけらかんとしてみせる兄に、葉は眉間にしわを寄せ、押し殺した声で呟いた。
 叫びたいのを堪えるような声。

「そうじゃねぇだろ」

 涙を流すのを拒むような瞳でハオを見る。
 そんな弟の視線に貫かれながらハオは、その眼が自分によく似ていると、思う。

「そんな……傷だらけでよ……おまえは……」
「今更、欲望なんかで僕の何を疵付けられる」

 葉の言葉を制して、ハオは突っぱねるように吐き捨てた。
 その眼は似ているけれど、違うのだ。
 願えば願うほどに疵付く瞳。思えば思うほどに疵付く心。それでも全てを受け入れようとする。そんな、葉の魂。

「もう用はないんだろ?さっさと行けよ、殺すぞ」
「ハオ……おまえがリゼルグを殺さないのは……」

 ぴくん、と瞼が痙攣した。

「彼の両親を殺したことに僕が負い目を感じているから……か、なかなか可愛いことを考えるじゃないか。え、葉?」
「………………」
「残念だが、違うね」

 理不尽に奪われる命。
 だけどそれは、ちっとも理不尽じゃない。
 少なくとも奪う者にとってそこに理由は必ず存在するし、それが下らない理由かどうかを決めるのは、他でもない奪う者自身。
 それに気付かなきゃ、いつまでたっても同じことの繰り返し。
 それだけのことだ。

「そんなものは欺瞞だ」

 だから気付かなねばならない。
 丁寧に理由付けされた言葉なんて、必要ない。
 怒りに身を委せ、何度でもその手で過ちを犯せばいい。
 そしてやっと絶望に気付いた時、堂々廻りの闇から解き放たれる。

「そうだろ」
「ああ……そうかもしれんな……」

 話しながら、身体がだるくなってきた。また熱が上がって来たのかもしれない。
 ハオは少し呼吸を整えてから、くるりと葉に背を向けた。
 その背中が何故だか妙にちっぽけに見えて、葉は言葉を飲み込んだ。

「じゃあな」
「おう。っておい!」
「何だよ」
「そんな手負いの身で歩いて帰るつもりか!?つーかおまえ、アタマ割れてんぞ!」
「あぁ、それはもう血が止まってるから……それより厄介なのは腿だねぇ。さすがに出血が多くて……ほら」
「痛い痛い!傷口見せんな!!」
「ははは、ちょっと歩きにくいかな」
「歩くなっつーの!!」

 思わず掴んでしまった、その腕。
 葉の爪が傷付いた皮膚に食い込んだので、ハオは少しだけ不快そうな顔をした。
 触れられたきずが、ぴりぴり痛い。

「うるさいな……そんなの僕の勝手だろう」
「いやいや、危ねぇだろ!ただでさえおまえが巫力なくなってるって噂が広まって、おまえを狙う奴らがウロウロしてんだぞ!」
「そんなこと言っても……まだちゃんとオーバーソウルできないから飛べないし……治癒も……」
「ん?」
「まぁでも確かに危険か……仕方ない、暫くどこかに身を隠すか……」
「おいおいおい……おまえ何かぶつぶつ言ってっけど、もしかして……」

 嫌な予感がする。面倒事が起こりそうな時の予感だ。
 しかも、そういうのに限って判っているのに避けられない事ばかりだから始末におえないのだ。

「また巫力、なくなってるんか?」

 恐る恐るの葉の問いに、ハオは少し間をおいてから、

「………………うん」

 と首を縦に振った。

「何で……!だってさっきは……!?」
「どうやらあれは一時的な回復だったみたいだね。今はまたぶり返して……」
「うわ!何だよおまえ、こんな熱あったんか!」
「いてっ!」

 額に手を当てられて、咄嗟に声を上げる。
 そういえば額の怪我をさっき見たばかりだったのだっけ。葉が申し訳なさそうに、悪ぃ、と謝った。

「すまん、うっかり忘れてたんよ……だいぶ痛むか?」
「いや……」

 でも本当は、手は傷口には触れていなかったのだ。
 ただ、葉の手が思いのほか冷たくて。それが、思いのほか気持ち良くて。
 それで思わず、身を引いてしまった。ぴりぴり、ぴりぴり痛むのは、一体どこのきずだろう?
 熱に浮かされた傷痕。消えない心の紅斑。

「とにかく、一眠りすれば完治するだろ」

 そう言うとハオは適当な木陰を選び、おもむろに腰を下ろして、なんと寝息を立て始めた。
 あんな風に気を張ってみせていてもよほど疲労していたのだろう。高熱のところにあんな仕打ちを受けたのだから、当然といえば当然だ。むしろ、今まで動き回っていたのが奇跡だとも言える。それほどにハオの強靭な肉体と精神力には計り知れないものがあった。
 しかし今の葉の気持ちとしては、そんなことに感心するよりも、後先考えぬ兄の無分別ぶりに呆れる方が先に立っていたのだった。

「だからって……ここで寝るか普通……」

 まだ近くにリゼルグが居るかもしれないというのに。それでなくても誰が来るか判らないのに。
 仕方なく、葉は昏々と眠るハオの傍に座った。改めてその姿をまじまじと見る。
 何だか寝顔だけはやたらあどけない。でも双子だということは、自分の寝顔もこんな感じなのだろうか。そう考えると、ちょっと気恥ずかしい。
 マントから見え隠れする無数の打ち身や擦り傷……あちこち切り裂かれた布と皮膚と肉。未だ滲み出る血。乾ききらない、長い髪。巫力さえ戻れば、傷はすぐに癒せるだろう。何気なく自分の手のひらに目を遣ると、さっきハオの腕を掴んだ時に付いたらしい赤い血が残っていた。

「……傷には、触れるのにな」

 触れない場所がある。
 引かない熱は、心に斑点を残す。紅く、拡がって痛む。
 判っていても触れない。触れない。触れない。
 手を伸ばすほどに疵付いていくけど。

「しゃーねぇ。少なくとも目を覚ますまでは居てやるさ」

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▼反転アトガキ▼

オモテに置こうとしたら妹に怒られたので、ここに来ました。
私の初リゼハオ(のつもり)小説。
ウラに置くまでもなかったような気もしますが……一応念のためということで。
ハオには、ほんとはもっとあんなことやこんなことされて欲しかったんですけど、
恥ずかしくって書けませんでしたテヘ!脳内で補完しておいてください。
しかし、とにかくハオがいたぶられてる話が書きたかっただけなのに、
何だかまた薄暗い展開になってます。私の悪い癖ですよー。
あ、第六感を麻痺させる風邪っていうのは、モチ嘘設定です。マンキン界にそんなのないです。
でもそうでもしないと、ハオは最強すぎてボロボロになってくれませんから。
本文には出しませんでしたが、シャーマンファイトはこの風邪のため一時中断中。
十祭司たちがワクチン配りまわってるという設定があったりします。だから葉やリゼは無事なの。
ハオは後回しにされたか、どっかほっつき歩いててもらえなかったんでしょう。AHOですね!
因みに最初は、ハオがマルコにズタボロにされる鬼畜小説にする予定でした(!)
でも書いてみたら、予想以上にマルコがキモくなったので止めました。
んで、キレイドコロのリゼルグちゅわんになったというわけです。
リゼルグはハオを親の仇と憎んでますが、多分その憎しみって、
今まで彼が生きてくるのに必要なエネルギーになってたと思うんですね。
ハオはハオで、自分も幼い頃、理不尽に母を殺され、同じように仇討ちをした。
そして今は、自分が誰かの親を殺している。そこにある種の葛藤というか、
まぁ自分でやっといて何だけど、リゼの心情とかつての自分を重ねているというか。
そういうリゼとハオの複雑な心境をもっと書き込みたかったのですが、
何せ二人とも曖昧な物言いしかせず、動いてくれませんでした……イッツア☆中途☆ハンパ!
最後は見かねた葉さんが出てきてまとめてくれましたよ。バンザイ。
って、全然まとまってねぇよ!!
お粗末さまでシタ。

▲反転ココマデ▲