Ripplet
Lose Control another version

 

バレンタインも過ぎ去り、浮き足立った雰囲気は早々と何処かへ去ってしまった感のある街の土曜の午後、江戸川コナンと灰原哀は、阿笠博士に頼まれた用事で杯戸百貨店へ行こうとふたり並んで歩いていた。

「…ったく、人の祝いばっかしてねえで自分が祝ってもらえるようにしろっての。いいかげん早く嫁さんもらえばいいのによ」

両腕を頭の後ろに組み、面倒くさそうにぼやく彼を横目に、哀はクスッと笑う。

「まあいいんじゃない?博士の恋人は目下のところ発明そのもの。べつに悪くないと思うけど?」

これまたどうでもよさそうに話す哀にコナンも軽く溜め息をつく。

「ほとんどガラクタだけどな。しょっちゅう爆発して黒焦げになってりゃ、命幾つあっても足りねえぜ」

口は悪いが、これでも一応心配しているのだ。当の本人はいたってのんびりしたものだが…。

「ええ…と、友達の結婚祝いと友達の奥さんの出産祝い…だっけ?何がいいのかさっぱり見当もつかねえや」

「お店に行けば何とかなるわよ。まず品物を見てみないことには…」

「わあってるよっ」

少し拗ねたような顔をしているこの少年を、彼女は和んだ表情で見ていた。

この穏やかな日々が永遠に続くといい。たとえ小学生のままのこの姿でも…。いや、むしろ彼女はそれを望んでいた。仮の姿で過ごす「今」こそ哀にとっての安らぎなのだから…。忌まわしい「昔」から逃れる唯一の手段。それに…彼女にとっての「特別」でもあった。決して口にしてはいけない密やかな。

「何だよ。人の顔じっと見て」

ぶっきらぼうに問いかける声に、哀は我に返った。同時にいつもの無表情に戻る。

「…べつに」

「あっ、そ」

小憎らしい程に淡々とした口調だ。しかたのない事とはいえ、もう少し穏やかに言ってくれたっていいのに、と彼女は思う。誰かさんには決してそんな風に言わないくせに…。そこまで思って哀は苦笑した。

『何考えてるんだろう。私、こんなの似合わないのに。バカみたい』

想いを振り切るように彼女は真っ直ぐ前を向いて言った。

「ほら、もうすぐ着くわよ」

「おうっ」

コナンも気分を変えてデパートに足を向けた。

ふと何気なしに、角の喫茶店を見やる。

『ん?…あ、あれは…!』

ウォッカだ!

でも、今日は何故かジンはいない。どうやら単独行動のようだ。コナンの瞳が鋭く光り、標的を逃すまいと視線を黒服の男に照準を合わせる。

「工藤君?」

彼のただならぬ形相に哀もその視線の先を追った。

「……!」

コナンの足が一歩進む。獲物を見つけ、意気揚々となっているライオンのようにしなやかに…。顔面蒼白になった哀はあわてて彼の肩に手をかけ振り向かせた。

「やめてっ、工藤君!」

凍りつきそうな心を必死で押さえ、彼女は目の前の少年を引き止める。彼女自身の頭の中で非常警報が鳴り響く。パニック寸前だ。逃げ出したい衝動を堪え、彼を真っ直ぐ見据える。

彼の暴走を押さえなければ…

「自分が今何をしようとしてるか、わかってるの!?」

「あぁ、いつもジンと行動を共にしてるヤツが、見ろよ。今はひとりだ。危険は半分減ったって事。つまりヤツらの行動を探る貴重なチャンスってわけだ」

口の端が上がり、今にも飛び出して行きそうな彼の肩を強く押さえる。

「よしなさい」

「…って言われてハイそうですかってやめられっかよォッ!」

と哀を睨みつける。彼の目つきに小さな胸の痛みを感じながら、それを見事な仮面で覆いつくす。

「あなたっていつもそう。組織の事が絡むとすぐ頭に血が昇って浅はかな行動をとる。それでいったい何度危険な目に遭ってるの?少し頭を冷やすことね。」

「なんだと、テメ…ッ!」

「よく考えてって言ってるのよ。妙だと思わないの?いつも二人組で行動してるのに今日に限ってひとり。どう見たってプライベートで動いてるって風じゃないわ。それにジンだけならともかくウォッカだけだなんて…」

言われてみてコナンはハッとした。たしかに冷静さを欠いていた。普段なら、そんな事言われなくても自分で気づいてる。哀の言うように自分は今ムキになっている…。

それにしても何故?彼女の言うとおり、このまま何の準備もなしで行くには危険すぎる。でもこのまま見過ごしてしまっていいのか?薬のデータを手に入れる為の糸が目の前にあるのに…?

「何か引っ掛かるのよ。バスの時といいアニマルショーの時といい、最近何か変な感じがして…」

哀は思わず身震いする。両肘を抱え、蒼ざめた顔をコナンに向けた。彼女の感情がダイレクトに伝わる。

『…アニマルショー……か…』

コナンも全く不安がないわけではない。

『赤井…とかいったか…あの男…』

彼の探偵としてのアンテナにも引っ掛かっていた。でもそれを口にするとますます引き止められてしまう。

フッとコナンは笑みを洩らした。

「考え過ぎだって。もし仮にそうだとしてもだ、逃げてばかりじゃいつまでたってもデータなんて手に入らねーぜ?」

「……!」

薬の事を言われると、哀も弱い。彼女自身も何としてでも早く手に入れたいと思っている。そして一刻も早く解毒剤を作って、このひとの身体を元どおりにしてあげたい。

だけど、元に戻ったその後は…?

心の片隅に小さく吹き荒れる木枯らしを、彼女は見て見ぬ振りをした。だからどうだっていうのだろう。後の事まで関わる事はないのだから気にしたってしょうがないではないか。

「…バカね」

今度は哀が冷たく笑う。

「そんなに焦って追いかけて、彼らに捕まって殺されたりしたら元も子もないじゃない」

「だから死なねーよーに気をつけっから…」

「組織を甘く見ないことね!」

突き放すような強い口調にコナンはたじろいだ。

「気をつける気をつけるって言って今までどれだけ無謀な行動をとってきたと思ってるの?今度こそ生命を落とすかもしれないわ。組織にいた私が言うんだから、厭でも忠告は聞いてもらうわよ」

と、背を向けて行こうとする彼の腕を掴んで踵を返し、路地に彼を引き込んだ。

「は…離せよッ!ヤツを見失ってしまうじゃねえか!」

「イヤよ。このままあなたを行かせやしないわ。人が殺されるのはもうまっぴら!」

 さっきから頭ごなしな物言いを続けている哀にうんざりしていたコナンはとうとうキレた。

「いいかげんにしろよ、灰原」

くぐもった声に怒気が籠もる。

「いつもいつも後ろ向きなことばかり言いやがって。イライラすんだよ!」

「なッ…!」

「オメーはいいよな。元にもどろーがもどらまいが、とりたててやりたい事なんてねぇんだろ?だからそんな暢気に構えてられンじゃねえのか?!」

「……!」

弾かれたようにコナンを凝視し息を呑んだ。

 彼女の瞳にさっきまでのクールな光はない。眉間に苦悩の証が刻み込まれた。コナンは言い過ぎたと瞬時に感じたものの、溢れ出てくるもうひとつの感情を止められないでいる。

「早く蘭に本当のオレの姿を…二度と縮まないオレの身体で逢いたいんだ!会って本当の声で…工藤新一の声でオレの本音を伝えたいんだ!長い間心配かけてすまなかったと謝りたい。ずっと…ずっと一緒にいて、アイツを安心させてやりてーんだよ!生命をかけてもなァッ」

冷水を浴びせかけられたように感じた哀の手から力が抜ける。コナンの腕も離れた。

蘭、毛利蘭。彼、工藤新一の想い人

その名前を聞いた瞬間、哀の内部で何かが崩れ落ちた。彼女はそれでも歯を食いしばった。口唇から洩れてきそうな一言を寸前で堪える。でも…

「…暢気だなんて酷いこと…言うのね、工藤君……」

彼女の抑揚のない低く静かな声にコナンは我に返った。自分が今何を言ったか…後悔すると同時に彼女から目を叛けた。彼女を傷つけてしまった…罪悪感を持ちながらも、それでも素直に謝ることも出来ず、彼女に背を向けた。

意地になってる。それはわかっているけれど…。

ふと喫茶店に目をやると、ウォッカは中で待ち合わせの相手と出会ったところのようだった。テーブルから離れレジに向かっている。それを見た途端、コナンの心はまた弾け飛んだ。

『しまった!見失っちまう!』

焦ってその場を立ち去ろうとするコナンに哀はハッと我に返り、叫んだ。

「ダメ!工藤君、行かないで!」

クドウクン、イカナイデ

 その瞬間、コナンは再び腕の自由を失った。哀が彼を自分の方へ半ば強引に向かせたのだ。

『えっ?』

 コナンは今、自分に何が起こったのか、すぐには理解出来ないでいた。

 目の前には彼女の顔が…瞼を閉じた彼女の顔半分が、そして…そして、自分の唇には…温かい…優しい感触が……

『な…っ!』

やっと状況がわかった。慌てて彼女を突き放す。

「な、何すんだッ…よ…」

最後までは怒鳴れなかった。

「は…灰…原?」

彼女は、哀は泣いていた。瞳にいっぱい涙を溜めて…。耐え切れぬ想いを止めることなく次から次へと頬に涙を伝わせていた。

 哀は、困惑の色を浮かべている少年の見開かれた真っ直ぐな瞳に俯いてしまった。

「…きなのよ…」

掠れた声で彼女は呟く。コナンは聞いてはいけない事を聞いていると思いながら、意に反して聞き返してしまった。

「え?」

覚悟を決め、哀は顔をあげた。

 今度はハッキリ口にする。

「あなたのことが好きなのよ…!」

コナンは、いや、工藤新一は後ろから思いきり殴られたような衝撃を受けた。

「は…灰原…おまえ…」

今の言葉…まさか、灰原が?オレを?

「う…ウソ…だろ?」

そう思いたかった。

 自分は到底その気持ちに応えることが出来ない。いつものように、思わせ振りなセリフの後のお決まり文句「なーんてね」という言葉を期待した。

(時々そーやってオレをからかうんだよな)

なあ、灰原、頼むから…。

 しかし、それはすぐに裏切られた。

「嘘じゃないわ、工藤君。あなたを愛してしまったの……」

 彼女の真摯で静かな、それでいて悲しげな口調にコナンの頭の中は真っ白になった。もう、何も言葉が出て来ない。後に続く彼女の言葉をただ聞くしか為す術がなかった。

「最初は薬の影響を受けた特例としてしか見ていなかった。そして、私が作った未完成の薬の所為であなたの人生をメチャクチャにした事への罪悪感。なんとか責任をとらないと…。これ以上あなたに危害が及ばないように私が守っていかないと…。そんな使命感のようなものだけだった。…でも、みんなと生活していくうちに…あなたと普通の小学生の暮らしをしているうちに…わかっちゃったのよ」

涙を浮かべたままの瞳で彼を見つめる。コナンは息苦しくなってきた。

「わかった…って…?」

コナンの声が渇いていく。そうだと知らずに、自分はさっき彼女に酷いことを言った。おまけに謝りもしていない。いたたまれなさを感じ、哀のことをまともに見ることが出来ない。

「あなたを守りたいこの気持ち…罪滅ぼしの為だけじゃない……。私自身があなたを失いたくないと思っていることが…!」

また哀の頬に、溢れてきた雫がとめどなく伝う。

「こんなこと、思っちゃいけないことぐらい、わかってる。でもあなたを失うぐらいなら私は子供の体のままでも構わない!もう…これ以上…耐えられないの。生命が奪われていくのを見たくないの!」

彼女はコナンのウィンドブレーカーの胸元を両手でキュッと握りしめもたれかかり、彼の肩に顔を埋めた。涙声で言葉を続ける。

「…私の所為で…あなたまで…!イヤよ…。お願い…だから…ムチャはしないで!…お願い!」

顔をあげ必死で彼に訴えかける。

「…は…いば…ら、…オ、オレは…!」

 声がうまく出ない。鼓動は高鳴り、血の気が引いていく。どう言えばいいのか、コナンにはわからなくなっていた。そんな彼を哀は悲しげに、そして少し可哀相に思いながら見つめていた。

 彼の気持ち、わかっていながら私、彼を困らせている…。

彼女は小さく吐息をついた。

「わかってるわ。もう何も言わないで。あなたはあの娘を愛してる。彼女もあなたを…」

コナンはすまなそうに瞼を閉じた。

「安心して。気持ちを伝えたからって応えて欲しいとか、そんなこと思ってやしないから」

「灰原…」

「…そんな顔しないで。惨めになるじゃない」

 それでも彼の表情は沈んだままだ。哀の両手がコナンの両頬をそっと包み込む。彼の瞼が薄く開いた。その澄んだ深蒼の瞳を覗き込みながら、彼女は幼い子供に言い聞かせるように穏やかに言った。

「あなたを必要としている人達を思い出して欲しかっただけ。ひとりで無謀な事しないで。工藤君、私が言いたかったことは、それだけ…」

哀の手が彼から離れた。それから彼女はついさっきまで彼が追っていた視線の先を、コナンに気づかれないよう、そっと見やる。

 もう大丈夫、あの不吉な男の影は何処にもない。

 ほうっとひと息ついてから、もう一度彼を見た。伏し目がちの彼の双眸。長い睫の間から漏れてくる切ない淡い光。

 もう限界だ。やっとの思いで蓋をした想いが、また溢れてきそうになる。あの娘から彼を奪いたくなってしまう…!もうこれ以上一緒にいるのは苦しくて息ができない。

冬の昼下がりの柔らかな日差しが、ビルの谷間にいるふたりの間で乱反射する。彼の瞳に映る彼女の前髪がほんの一瞬小さく揺れた。

俯き加減のまま、彼女は微かな笑みを浮かべ掠れた声で彼に告げる。

「…私、もう帰るわ。悪いけど博士の用事、ひとりで済ませてくれる?」

そう言ったきり、哀は彼と目をあわせるのを恐れているかのように、顔をあげようとはしなかった。

コナンは、何も答えなかった。いや、たぶん口がきけなくなってると言ったほうが近いかもしれない。ほんの僅か、口唇が動いただけだった。

「…それじゃ…」

「あ、あぁ…」

声を詰まらせたコナンに背を向け、疲れた足取りで彼女は歩きだした。二度と振り返りもしないで…。

コナンはただ茫然とその後ろ姿を見送ることしか出来なかった。

複雑な想いを小さな胸に抱えたまま、段々視界から遠ざかる彼女の後ろ姿を姿が見えなくなるまでずっと見送っていた…。

 

やがて彼は重い足取りでデパートへ向かった。何でこんな事になってしまったのだろう…。答えの出ない答えを求めながら唇を噛み締める。それでも時間だけは無情に過ぎてゆき、彼はいつの間にか目的地の杯戸百貨店に辿り着いていた。

1階正面玄関からデパートに入る。暗い瞳を隠すかのように彼は少々俯き加減で歩いていた。そのままエレベーターに乗り込み博士の用事の為にギフトセンターのある6階のボタンを押す。エレベーターの扉が開き売り場に着くとコナンは瞬く間に表情を変えた。

何があっても今は子供のフリをしなければならない。悩んだ顔のままでは迷子扱いされ補導されてしまう。ギフトセンターに着いて、彼はさっきの事は考えないように気持ちを切り替え、博士の用事の事だけを考えて商品の陳列棚を見上げていた。だが、子供だけでは大人は不審がるに違いない。案の定コナンの姿を見かけた女性販売員が小首を傾げて近づいてきた。

「あら?ボウヤ、ひとりなの?お父さんかお母さんはいないの?」

硬直しそうになるのを堪えながらコナンは子供らしい声で答える。

「今日はボクひとりだよ。本当はおじいちゃんが来るはずだったんだけど病気で来られなくなっちゃったからボクが変わりに、おじいちゃんのお友達の結婚祝いとお友達のお嫁さんの出産祝いを探しに来たんだ。送り先やおじいちゃんの住所はココだよ」

と紙を販売員に差し出す。それを受け取った販売員は苦笑いを浮かべながらもようやく納得した顔をした。

「そうだったの。ひとりでお使い偉いわね。じゃあ、お品選びは私もお手伝いしましょうか?」

「ありがとう、お姉さん…」

ほんの僅かに感じた胸の痛みを押し隠し、子供らしい笑顔を浮かべる。

何を選べばいいのか途方にくれていたので助かったといえば助かったのだが…脳裏には、さっき自分の前で涙を零した哀が蘇り、胸がチクリと痛んだ。子供扱いされるのはいい加減慣れたとはいえ、それは哀のお陰なんだと今更ながら身にしみた。品物を販売員と選んでいても彼の心はそれに集中出来ないでいた。

『……灰原…!』

心の中で彼女に呼びかけてみたものの、彼女のいない今を思い知るだけで、彼は自分の愚かさに苦笑するしかなかった。

それでも何とか品物選びが終わり、配送手続きも代金の支払いもすべて終えた。

販売員はコナンに配送控えとレシートと釣銭を渡し終えると彼の頭を撫で、ポケットから飴を出して差し出した。 

「ボウヤ、これはひとりでお使いをしたご褒美ね。あとでゆっくり食べてね」

と優しく微笑んだ。

「わぁっ、ありがとう、お姉さん」

コナンは嬉しそうに笑ってそれを受け取った。

「おじいちゃんによろしくね。どうもありがとうございました」

販売員は笑みを浮かべ、お辞儀をする。コナンは彼女に笑顔で手をふりながらギフトセンターを立ち去った。

彼女に背を向けた彼の眉間に僅かながら苦悶の表情が浮かぶ。飴を貰ったのは悪い気はしないが、いい気もしなかった。

『やっぱこんな姿じゃ、ガキ扱いされてもしゃーねえよな…』

わかってはいるけれどつい口元が歪む。こんなの、慣れているはずなのに何故だか今日は心細い。

『何故だか…?』

彼の瞳が揺れ、小さくかぶりをふった。

『…アイツが…アイツがいねえと、オレ……!』

動揺している自分の気持ちを認めたくなくて唇を噛み締め、目を細めた。

このデパートへ来たもうひとつの目的、蘭への贈り物をこれから選びに行かなければならないのに…。気持ちを引き締めよう…とは思うものの、どうしても集中出来ない自分がいる。

これではいけない、と蘭の笑顔を思い浮かべるが、それはすぐに先ほどの哀の表情に変わる。どんなに蘭を想っていても、すぐに哀の泣いている姿が目に浮かぶ。やるせない気持ちをどうにかしたかったが、どうやら無駄な抵抗のようだった。

 『日を、改める…か……。たしか来週の土曜、蘭のやつ、園子と映画と買い物で渋谷と代官山に行くとか言ってたよな。……来週にしよ

そう思いなおして ( きびす ) を返し、コナンはデパートをあとにした。

 

阿笠博士の家に戻る為、コナンは地下鉄に乗り込んだ。幸いその車両は空いていて、椅子に座る事が出来た。彼の座った場所は座席の端だから横は手すりにもたれる事が出来た。腕を手すりに軽くかける。

『……疲れた…』

コナンの瞳が哀しげに揺れる。哀の叫びが何度も心に蘇る。

蘭の笑顔と涙、哀の感情を抑えた聡明な表情と彼女の涙。それぞれの姿が彼の心の中で交差し、胸が張り裂けそうだった。

どんなに目を背けても先ほどの哀が忘れられない。鼻腔にツンときたようなものを感じ、彼の眉間がよった。

何度も何度も彼女の想いが彼の中で駆け巡る。

目を開けても閉じても、忘れられない感触がある…!

 

彼女に腕を掴まれバランスを崩し哀の方に引き寄せられそして…!自分の目の前に彼女の顔が見える。瞼を閉じた彼女の顔半分が見える。

 

彼は自らの両肘を抱えたその手が震えるのを感じながら、乱れそうになる呼吸を懸命に堪える。胸の痛みに息が止まりそうだった。なのに…そんな事はお構いなしに彼の身に小一時間程前の出来事がリアルな感触を伴って蘇る。

 

唇に温かく優しい感触が与えられている…!それは今まで感じたことのない感覚で…甘く痺れる。目の前が白く霞んでゆく……!!

 

彼女の悲痛なキスの前後のシーンが、まるでスローモーションのように彼の中に思い浮かぶ。望んだ口づけではなかったのに…自分でも不思議なくらいそれは不愉快ではなく、寧ろ映画のワンシーンのように甘く切なくて……。

無意識のうち自分の唇に人差し指を軽く触れさせている事に気がつき、コナンは我に返った。

…何でだよ…ッ…!!

まるで浮気をしたみたいなバツの悪さを感じるものの、自分の頬が赤らんでいる事実はどうしようもなく…認めざるをえなかった。

あまりにも突然な…フイをつかれてのキス…。他に好きな ( ) がいるのに……!本来ならもっと憤慨してもいいはずなのに、何故?何故自分は彼女を憎みきれない?

 

唇に温かく優しい感触……甘い疼き…。しっとりと優しく触れる一瞬の温もり……

 

まただ…!』

また、あの感触を思い出す…!

胸が熱い。痛い。苦しい…!!

だけど…癒されているような心地すら感じた自分。うっかりと瞼を閉じてしまいそうなほどに……。そんな自分が、蘭の事が好きなハズなのに、蘭を待たせているのに、何をやっているんだ自分は…と自分の心の弱さが許せない。灰原哀が、でなく工藤新一である自分自身が…!だから、あの時つい彼女に怒鳴りかけてしまった。

「な…何すんだッ…よ…」

と……。八つ当たり以外の何物でもない。自分の卑怯さに反吐が出る思いがして眉根をしかめた。

どんなに言い訳の言葉を並べても、自分はあの時ほんの一瞬とはいえ、彼女からのその行為を優しさを『望んで』しまったのだ……!

もう、誤魔化しきれない。これ以上卑怯者にはなりたくなかった。

『オレは…誰が好きなんだ…?…蘭……蘭だよな?そうだ、蘭なんだ。ガキの頃からずっと、それは何も変わっちゃいねえ……!!迷う事はないんだ、迷う事は……!』

自分の気持ちが揺れ動いてるというその現実に、彼は激しく動揺していた。

蘭に待ってて欲しいと伝えた自分。その気持ちは嘘ではない。だが、灰原を傷つけたくない。彼女を守ってやれるのはオレだけだ、オレが灰原を守る。その気持ちも本気だった。

ふたりとも大切なんだ…

そう納得したように軽く首を縦に振るが、ふいに彼の心に影がよぎった。

『…ふたりとも…?そんな…!?そんなバカな……!?』

今、自分の中に現れたスッキリしない妙な感覚に愕然とした。

それでは、ふたりとも好きだということなのか?

彼の手が小刻みに震える。ショックだった。自分は真剣な女の子に対していい加減な男ではないつもりでいたから…。なのに、それは思い違いだったということか?

『オレの事、想ってくれて…帰りを信じて待ってくれているんだぜ?蘭は…!そんなアイツを裏切ってる事になっちまうんじゃねえのか?』

蘭の泣き顔が蘇る。もうアイツの泣き顔は見たくねえと心に誓ったはずではなかったか?なのに、もうひとりの涙が彼の心を揺さぶる。

何とかしてやっからよ…と

『約束したのはオレだ。アイツが幸せに暮らせるためなら何だって助けてやりたい』

なのにあんな風に泣かせてしまった…。

『まさか、アイツがオレを大事に想っていてくれただなんて…』

何故今まで気づかなかったのだろう。己の鈍感さに嫌気がさす。でも、彼女は知っている。自分が蘭を好きな事。

『だから…きっとアイツはオレの背中を押してくれるだろう』

…でも、それは彼女に対してあまりにも自分勝手だ。コナンは胸の中央あたりに拳をあて、痛みに耐えるような顔をして俯き加減に深く吐息を吐く。

『蘭…灰原……ッ!』

白い ( もや ) の向こうにいつか見た灰原哀の本当の姿…宮野志保の後ろ姿が見える。その彼女に背を向けて蘭の元に戻る工藤新一。蘭の笑顔が見える。

『あぁ、その笑顔が見たかったんだ』

自分も柔らかく微笑む。だけど、どこかその微笑が引き攣っていて…。何かに引き寄せられるみたいに感じ後ろを向く。宮野の姿が見えない…!

『何処へ行くんだ?おまえは幸せなのか?幸せを見つけたのか?おまえの笑顔を見たい。見せてくれ、安心したいんだ……!!灰原……ッ!』

そこまで思ってまた我に返る。

『何考えてんだオレは…』

思わず苦笑する

『…そんな資格、オレにはねえだろーが…。だけど…、蘭の元へ戻って、それから…それから…オレは……?』

たぶん、探偵をしているだろう。大バカ推理ノ介とかなんとか、呆れはてられながら…。なんとか自分の仕事を軌道のせてうまくやっているのだろう。たぶん、蘭と結婚しているかもしれない…。

だけど?

ふといいしれぬ不安にかられた。

『アイツと離れてオレは…オレはオレでいられるのか?…わからない…わかんねぇよ……!』

前髪を掻き分けるように手を当てる。

『どうしたらいいんだ…よ…ッ!!』

泣きたい気持ちをどうにか堪えたその時、車内放送で車掌の無機質な声が流れた。

「間もなく米花町〜米花町〜、米花総合病院と帝丹郵便局へお越しのお客様は次でお降りください〜」

その声で現実に引き戻されたコナンはハッとして顔を上げ、そして弱々しく苦笑した。

『アイツに逃げるなって言ったのは、オレだったよな…』

しっかりしろと自分に言い聞かせ一瞬ギュッと目を閉じ、そっと瞼を開け軽くかぶりを振る。迷ってはいけないと自分の内に叱咤の声を向けながら彼は地下鉄を降り人波に身を任せて歩き、自動改札を抜けた。

「さて、博士ン家に行かなきゃ…な」

そう呟くと、雑踏に背を向け、覚悟を決めたかのように一歩一歩踏みしめ歩き始めた。

 

 

 

 

Continued on theLose Control 2”

Written by 水奈月星寿

2004.1.5.Mon

BACK