LOVERS NAME

 

「困ったのう」
「困ったな」
「どうすればいいじゃろか・・」
「どうすればな・・・」


 阿笠家では、輪唱のようなふたりの声が続いていた。

 そんな二人を、ソファーに座り、黙って見つめているのは、灰原哀。
 赤茶の髪の上に白い包帯が巻かれ、痛々しい姿になっていた。

 病院での精密検査の結果は異常なし。
 ただ、大きなたんこぶと、“記憶が無い”ということを除けば、だが。


「じゃ、新一君、哀君を頼んだぞ」
「ったく。なにも、こんな日に学会に行かなくたって」
 困ったの輪唱をしていても埒があかず、二人の間で話は進んでいた。
「仕方ないんじゃ。それにワシがおるから哀君の記憶が戻るってわけでもなかろう」
「最初はあんなオロオロしてたくせに・・・」
「とっ、とにかく頼んだぞ!」

 博士が慌しく出かけると、コナンは大きな溜息をついた。
そして、問題の哀にちらりと目をやる。
 ぼんやりと座っていた哀は、コナンと目が合うと、小さくコナンの名を呼んだ。

「江戸川君」

 純粋な響きだった。
 初めて呼ばれた感覚がする。
 哀の「江戸川君」じゃなかった。


昨日までの哀の「江戸川君」には含みがあった。
 不透明な響きだった。
 だから哀に「江戸川君」と呼ばれても安心できた。
 その裏側の『工藤新一』をちゃんと呼んでくれたから。
 ちゃんと、わかってくれてたから。


「なに?」
 コナンは哀の斜向かいに腰を下ろした。
「あの・・・・」
 呼んではみたものの、記憶を失くしてる哀には、疑問が多すぎて適切な質問が出てこない。

 気が付いたら病院のベッドの上だったのだ。
 いろいろ質問をされ、検査をされ、結局なにもわからないまま、この家に来たのだ。
 教えてもらったのは自分の名前『はいばら あい』と、遠い親戚である阿笠博士と住んでいるということ。
 そして・・・・同級生の『江戸川コナン』。


 不安に揺れる哀の瞳が、本当に記憶を失ってしまったと言っている。
 けれど、変わらないのはその大人っぽさだった。
 小学1年の体の中に18歳の頭・・・それだけは変わりようが無い。

「・・・私、何歳なの?」
 シンプルな質問だった。
 しかし哀は単純に訊いたのではない。体と脳のアンバランスが不快だったのだ。
「んー・・・。7・・歳かな」
 困ったようにコナンは答える。
 それが哀には不思議だった。
 自分の名前を教えてくれる時も、博士が親戚だと言った時も、コナンは困った顔で言いにくそうに教えてくれたのだった。
 そして・・・『江戸川コナン』と自ら名乗る時が最もイヤな顔をしてたのだ。

「・・・そう」
 どうにも不可解だったが、体が7歳である以上、嘘だと言う訳にもいかず、哀は渋々納得した。
「あのさ、本当に覚えてないのか?どうして、あんな所にいたのか」
「ぜんぜん。なにも・・・」
「そっか」

 漫画の常套手段“記憶喪失”になった相手に、何を訊いても無駄なのは百も承知していたが、コナンはそれでも食い下がった。
 一番心配してることが起きているのかもしれないのだ。
 何故、哀は路地裏で倒れていたのか?後頭部の傷は明らかに打撲。では、誰に?まさか転んだなんてことはないだろう。
 『黒の組織』。
 にしては手ぬるい行動だが、それが一番妥当な線だった。

「そのバッヂで、オレを呼んだんだぜ」
 その言葉に、哀は手元にあったバッヂを見る。
「覚えてないわ」
 そうは言ったが、なんとなく、本当になんとなくだが、その手の感触に覚えがあるような気がして思い出そうと試みる。

「痛むか?」
 ジッと考え込んでしまった哀が少し気の毒になり、顔を覗き込んだ。
「ちょっと・・・。でも表面的な痛みだから心配ないわ」
「吐き気や、眩暈がしたらすぐに言え。我慢するなよ」
「うん」

 『うん』と、ふわりと笑った哀を見て、コナンはドキリとした。

・・・・・なんて顔して笑うんだよ、おめーは・・・。

 会話はとても小学1年とは思えぬ内容だったが、最後に笑った哀の顔は、コナンの初めて見る可愛らしい笑顔だった。
 知らず知らずのうちに、コナンの顔は赤くなっていた。

「どうしたの?」
 小首を傾げて、コナンを上目づかいに見る哀は更に可愛い。
「おめーって・・・・結構かわいかったんだな・・」
「え?・・」
 キョトンとした哀の表情も可愛らしい。
「あ・・・なんでもない」
 ドキマギしながら、コナンはごまかし笑いをした。

・・ま、いっか『黒の組織』なんざ。
この期に及んで推測立てたってしゃーねーし

 コナンは、初めて見る哀の表情に楽しくなってきてしまった。

「・・・私の名前」
「ん?」
「はいばら あい。ってどう書くの?」
 和んだ雰囲気に、哀は無邪気に聞いてくる。
 だが、反対にコナンは邪気な気分になる。
「え〜〜と・・・。はいばらは灰色の灰に原っぱの原だよ」
「あいは?」
 当然とばかりに聞いてくる。
「・・・・」


 哀しすぎる名前。
 それを決めたのは哀自身。


 初めて心が痛む。
 どんな気持ちで、この名前にしたのだろう。
 “愛”が可愛いと博士が言うのも振り切り、哀しい名前を選んだ気持ち。


「あいは・・・」
 コナンはテーブルの上に指で字を書いた。
「え?」
 もう一度、ゆっくり書く。
「・・・・・」
「これが、おめーの名前」

「・・・哀しい名前ね」
 全てを受け容れたつぶやき。

 それから一切、何も問わなかった。


 哀しい・・・・か。
 その字の意味がわかってしまうのは7歳じゃない。
 やっぱり、哀は哀なんだ。

 一瞬だけ錯覚を起こしていた。
 何も知らない純真な子供になったのかと・・・・錯覚だったんだ。

 誰がつけた名前なのか。
 どうしてそんな漢字を使ったのか。
 問わない哀が痛ましかった。

「オレは好きだぜ。お前の名前」
「え?」
「哀しいけど・・・・好きだよ」
 言ってあげれる言葉はこんなものしかなかった。
 もっと、安心させてあげたいのに。もっと笑って欲しいのに・・・・。

「ありがとう。・・・・・・・あなたの名前、新一なのね」
 ほんの少しだけ微笑んだ哀が言う。
「・・・・」
 博士がなにも考えず、新一、新一と呼んでいたのに気づかない哀ではない。
「コナンは・・・きっと、哀しい名前なのね」

 記憶がない筈の哀。
「・・・どうして?」
 コナンが哀しい名前だなんて、どうして哀は思うのだろう?
 その問いかけに、哀は優しい眼を向ける。
「でも、私はどちらも好きだわ」
「・・・?」
「コナン君も、新一君も」


 コナン君も、新一君も好きよ。


 消えた筈の記憶。
 それでも、こいつはわかってしまう。
 『哀しい名前』
 それだけで。たった、それだけで自分の背負った運命が、漠然とわかってしまう。

 泣きたいくらい悲しかった。
 何故?
 運命を悟ってしまったお前が・・・そんな笑顔が出来るんだ?
 そんな優しい言葉をくれるんだ?


「オレもさ・・・昨日までの可愛げのないお前も、今のお前も・・・好きだよ」
 褒め言葉になっているのか、いないのか。それでも、哀には伝わっていた。
「可愛くないコが好きなんて、変わってるわね、コナン君」
 クスクスと可笑しそうに笑う。

 いろんな笑顔のお前が、オレを呼ぶ。
 コナンと新一の名を平等に愛してくれる。
 だから・・・・はじめて、『江戸川コナン』を好きになれる。


「哀」

 ありったけの笑顔と想いを込めて、オレもお前の名を呼ぶ。
 それが答え。

 なにも、運命を問わないお前に・・・
 オレが答えをあげるよ。

「哀」

「哀」


 その答えにお前は最高の笑顔を返してくれる。


問いたくても、問えないお前に・・・
 幸福な答えを聞くのを諦めてしまっているお前に・・・
 いつまでも答えをあげ続けるよ。

 ありったけの想いを込めて・・・


「哀」。

 

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