大人の味ってどんな味?

 夏休み半ばのある土曜日の昼下がり。今日一日で最も暑い時間だ。目を開けているのがつらいぐらい陽光が眩しい。

そんな中でも三人の子供達は元気いっぱいだ。横並びになって、つい先ほどまで楽しんでいた都内のデパートの催し物、『仮面ヤイバー アクションショー&写真展』の話題ではしゃぎながら歩道を家路へと向かっている。

その三人の子供達の後ろには、彼らの元気とは対照的に、少し疲れた様子の子供が二人並んで歩いていた。

「おい、コナン!灰原!おっせえぞ?オメーらが歩くの遅いから腹減っちまったぜ!」

と、振り向きざまに元太が喚く。

「オメーが腹減るのは今に始まった事じゃねえだろ…」

と、コナンは溜め息をついた。ゲンナリした様子の彼を横で面白そうに眺めながら、灰原と呼ばれた少女、哀はクスリと笑う。そんな彼女をコナンは一瞥し軽く睨む。

「それは言えてますね」

「そうそう、人の所為にしちゃダメだよ?元太君」

残りの二人、光彦と歩美もコナンの言い分に相槌を打つ。

「うるせー!腹減ったもんは減ったんだ!モンクあんのかよ?」

と、眉根を寄せつつ元太は空腹を主張し続ける。

「ったく、しゃーねーなぁ…」

コナンはクイッっと親指で左後方を指差す。それに続いて哀が少し微笑みがちの口調で

「軽い食事くらいなら、出来るわよ?」

彼が指差した方向のお店をチラッと見ながら言った。

そこには最近出店したばかりのパン屋があった。自分で買ったパンを店内で食べる事が出来るセルフサービス形式の店だ。

「おぉ〜っ!?美味そうじゃん!入ろうぜ入ろうぜッ」

すっかり機嫌を直した元太が我先にと店内に入って行く。それに続いて皆も店内に入って行った。

出来たてのパンを銘々好きなだけ取りトレイに乗せ、精算カウンターに持って行く。店員の

「こちらでお召し上がりですか?」

の声に全員が頷く。そして飲み物の注文を始める。

元太はコーラ、コナンと哀はいつものようにコーヒーを注文した。今日は暑いのでふたりともアイスコーヒーだ。それを見ていた光彦と歩美は少し複雑そうな顔をする。

「コナン君と哀ちゃんはいつもコーヒー飲んでるよね?」

「どうしていつも大人の飲み物ばかり飲むんですか?」

『げっ……!』

そういう答に窮するようなつっこみがくるとは思っていなかったので、コナンは慌てふためいた。哀はそんな彼を見て肩をすくめて、自分の分の精算を済ませ、先に席を取りに行った元太のところへとさっさと行ってしまった。

救いを求めようと哀の方を向いたコナンだったが、時すでに遅く、彼の視界に入ったのは、小さく見える彼女の後姿だった…。

『…ニャロォ、逃げやがったな……』

ズルイ…オレだって逃げてえよ……。そう心で呟きながら、しかたなく光彦と歩美の方へと向き直る。

「あ、いや…べつに……、理由なんてねーよ」

しかし、口調はしどろもどろ。

そういえば、自分も正真正銘の小学一年生の頃はコーヒーなんて飲んでいなかった。親からも、もう少し大きくなってから…と言われたような記憶がある。

何をどう言えばいいのかわからない。

彼らの無邪気な疑問…自分達の子供にしては思い切り不自然な行動に対する疑惑を晴らしたいのだが…。説得力のあるいい理由が思い浮かばなかった。情けないと思いつつ

「あ、オメーら、元太と同じコーラでいいよなッ?今日はオレが奢ってやっからよ」

と、お茶を濁そうとした。

これには歩美も光彦もムッとした。

「今日は歩美もコーヒー!」

彼に勝手に、しかもコーラと決められて面白くない。彼女は膨れっ面をしている。

「お、おい…っ!」

コナンは焦った。自分や哀はともかく、歩美や光彦は正真正銘の7歳児。普段だって親が飲ませないようにしているであろうコーヒーを、彼らの親が知らないところで飲むっていうのはマズイのでは…などと分別くさい事を思って困り果てた。

「何ですか?不満なんですか?」

光彦の目が据わっている……。コナンはすっかりたじろぐ。

『何なんだよ〜〜〜』

二人の視線は明らかに飲み物以外の事で怒っている。それが何だかわからないが、妙にウラを勘繰っているらしい事だけは痛いほど伝わった。

「また、ふたりだけの世界を作る気ですね?コナン君?」

ジト目のまま光彦は低い声で言う。横で歩美も頷きながら彼の目と同じ瞳でコナンを睨む。

コナンはひっくり返りそうになった。とうとう心の中に収まらず

「何なんだよ、いったい〜〜〜ッ!」

と、声が少しだけ荒くなった。だが、二人の視線は相変わらずだ。彼は頭を抱えながら

「だから、そんなんじゃねえよ。子供にはコーヒーなんてまだ早すぎ……」

「コナン君だって子供じゃないですかァ!」

「コナン君だって子供でしょッ!」

コナンの言葉を途中で遮り、二人は同時に叫んだ。

確かに二人が言うようにコナンも哀も見た目は彼らと同い年だ。イタイところをつかれ、コナンはほとほと弱り果てた。

『…勘弁してくれよぉ〜……』

光彦がとどめを刺す勢いでコナンに迫る。

「それともコナン君は、その味を灰原さんとふたりだけで楽しみたい理由でもあるんですか?」

……負けた。コナンはそう思った。

今、このふたりをどう宥めすかしても、他の飲み物に変えるよう説得するのは無理だと悟った彼は、半分ヤケになりながら、軽く首を横に振って言った。

「あ〜〜〜っ、もぉっ!わかったよッ!オメーらもコーヒーにすりゃあいいんだろッ!」

と、渋々アイスコーヒーをオーダーした。

 

丸テーブルに五人、席についたのを見てコナンは他に気づかれないように息をつく。

もう、疲れた。彼の全身はそう語っていた。当然、哀だけはそれに気づいている。クスッと笑うとコナンに話しかけた。

「結局あのふたりに負けたみたいね?」

可笑しそうに言う彼女を、コナンは拗ねた瞳で睨む。

「そんな怖い顔しないで。あなたらしくていいわねって言ってるのよ?」

「…ったく……」

呟くように言いながら彼はカップにストローを刺し、アイスコーヒーを飲もうと口にくわえ、何気なしに光彦と歩美の方を見た。その瞬間、コナンはガタッっと立ち上がり、早口でまくしたてるように

「ちょっと待て!おい、オメーら…ッ!」

と、光彦と歩美を制した。ふたりは飲む寸前で手を止めた。

そう、ふたりともアイスコーヒーをブラックのまま飲もうとしていたのだ。

普段、コナンや哀がそうしているのを見ていた所為か、何故コナンが慌てているのかが光彦や歩美には不思議だった。

「光彦、歩美ちゃん、それ飲むの、ちょっとだけ待ってろ」

言うが早いか、彼はカウンター脇のテーブルに向かった。

「何だー?あいつ…」

元太はポカーンと口を開けている。

「何だかすごく慌ててましたね」

「ヘンなのー…」

光彦も歩美も訝しげにコナンの方を見ている。そんな三人を尻目に哀はひとりコーヒーを飲んでいた。

ガムシロップとフレッシュを両手に、コナンが戻ってきた。

「光彦、歩美ちゃん。コーヒーにこのガムシロとフレッシュ、入れて飲んだ方がいーぜ?」

歩美が顔をしかめ、不服そうに言った。

「えー?でも、いつもコナン君も哀ちゃんもそんなの入れてないじゃない」

「歩美ちゃん、悪い事は言わないから素直に入れて飲んだ方が…」

「イヤよ!」

間髪いれずに彼女は反発した。光彦もそれに加勢する。

「そうですよ、ズルイです!またふたりだけで大人の味を味わう気ですね?」

「おい、さっきから何だよ?その『ふたりだけ』ってのは。妙な勘繰りすんじゃねえよ!オレたちそんな関係じゃねえって!!」

「そーやって、ムキになるところが怪しいですよ?」

「だから〜っ…!」

口の中のパンをようやく飲み込んだ元太が身を乗り出してきた。

「オレたちには大人の味を味わわせたくねーってか?ずりぃ〜ぞ?コナン、また抜け駆けかよ?」

…ワンテンポずれたツッコミだが、この際どうでもいい。…こともないが少し助かった感のあるコナンは光彦の問いを無視し元太に向き直る。

「何でそーなるんだよ?…ってゆーか、元太!おまえはコーラだろっ。端からシロップとフレッシュは関係ねーだろがっ」

「んじゃ、オメーのを飲ませろよッ」

と、コナンが止める間もなく元太は素早く彼のアイスコーヒーを横取りし、ガブガブ飲み始めた。瞬間、

「ブヘェ〜〜〜〜ッ!」

と叫び、飲みかけのコーヒーをカップの中にもどしてしまった!

コナンの顔色がサーッっと蒼ざめる。さっきまで冷静でいた哀もこれには流石に目を見開き、そしてコナンに同情した。

「きったねえなぁ〜ッ!」

とコナンが悲鳴に近い叫び声をあげる。

まだ一口も飲んでいないのに……。しかし元太の耳にはそんな声は聞こえていないらしい。

「まっずぅ〜〜〜。こんなの人間の飲み物じゃねえよ。コナンも灰原もよくこんな不味いもん飲めるよな?オメーらの味覚おかしすぎるぜ」

「人のを勝手に飲んでおいて、そりゃーねーだろッ!」

この騒ぎにあっけにとられていた光彦と歩美だが、元太の不味いと言ったのが本当かどうか確かめる為に、ふたりもブラックのままとりあえず飲んでみた。

……彼の感想は本当だった。

「にっが〜〜〜い!」

「ほんと、焦げた様に苦いです。ふたりともよくこんなの飲めますね?」

光彦の声が段々としょげかえってくる。

「大人の味への道は、ぼくたちにはとても険しいです。…なんだか悔しいです……」

すっかり元気のなくなったふたり。

コナンはしょうがないなと少し微笑み、光彦の肩を軽く叩いた。

「だから言っただろ?ガムシロとフレッシュ入れろって。…ったく……」

そう言いながらフレッシュの容器をパチンと開けて光彦に手渡し、優しく言った。

「それぞれ好きな量を自分で入れて味を調整したら、そのコーヒーまだ飲めっから」

「…すみません」

「…ごめんなさい」

やっと素直に入れる気になったらしい。ふたりは素直に謝るとガムシロップとフレッシュを入れ始めた。

「じゃあ、オレ、買いなおしてくるから…」

立ち上がると彼はまたカウンターへ向かった。

 

コナンがコーヒーを買って戻って来た頃には歩美も光彦も機嫌がよくなっていた。歩美にいたっては始終笑顔だ。

「ホント、コナン君の言うとおり、入れたらすっごく美味しくなったよ」

光彦もそれに相槌うつ。

「そうですね。まろやかなコクがなんとも言えません。コナン君もたまにはどうですか?美味しいですよ?」

「いや、オレはこのままでいいよ」

「え〜?!甘くて美味しいのに〜。かしてっ、コナン君」

と、強引に彼のカップを取り上げた。

「あ、あ〜〜〜!いいってばっ、ちょ…ちょっと、おいっ……!」

「いいじゃないの、たまには」

と、哀はカップを取り戻そうとするコナンを制した。

「灰原ッ?!」

「せっかく彼女があなたに美味しいものをって言ってくれてるんだから。断ったら彼女が可哀想でしょ?」

「あのなッ!おまえ、ひとごとだと思って適当な事言ってンじゃねえよ!」

半分泣きそうな声になっている。かなり嫌そうだ。しかし彼女は、いつでも自分は女の子の味方だと言わんばかりにそ知らぬ顔でいる。彼の泣き言を微笑をもって適当にあしらっていた。

そうやって彼が哀と話す間少し目を離したスキに、あっという間に歩美特製のカフェ・オ・レが出来上がってしまった。

「はい、コナン君」

愛らしい天使のような笑顔で歩美はコナンにカフェ・オ・レを渡した。

すっかり白濁したアイスコーヒーを目の前に、コナンは力なく笑った。

『まだ一口も飲んでねぇってのによ……』

チラリと哀のカップを見やる。

「何?」

「おまえのは…?」

「私はもうとっくに飲み終えた後だから…」

哀はカップに残った氷をカラカラ鳴らしながら肩をすくめ微笑した。

「あ、そ…」

力なく肩を落とす彼に元太が半目開きの目で問いかける。

「おい、コナン、飲まねえのかよ?」

少々非難めいた目だ。

「せっかく美味しく入れてあげたのに…」

訴えかけるような視線を向ける歩美。

「歩美ちゃんの親切を無にするなんて、男じゃないですよ?コナン君」

ほんの少し嫉妬の入り混じった目が据わっている光彦。

「そうね、女心を傷つけるのは感心しないわね、江戸川君?」

トドメの一言だった。孤立無援だ。もう覚悟を決めるしかないようである。

「わーったよッ!飲むよ!飲みゃーいーんだろっ!!」

ストローが刺さったままのフタを取ると、コナンはギュッと瞼を閉じ勢いよく飲みほそうとした。…が、想像を遥かに超えた甘味が口内を占拠した。

強烈だ、強烈に甘い!

彼の全身が固まった…。とても一気飲み出来るような代物ではない。

「お…おめーら……」

乾いた声が彼の喉もとから漏れる。何杯シロップを入れたのか聞こうとしたが、やめた。聞いてしまえばきっと吐いてしまう…そんな気がしたのだ。

「な…何でもない……」

掠れ声が小さく消え入る。彼らの耳には届いていなかった。

「ね?美味しかったでしょ?コナン君?」

無邪気な笑顔でそう尋ねる歩美。まだ小学一年生である彼女にとって、これが本当に美味しく感じているであろう事は理解っていたのでコナンは引き攣りそうになる口元を必死で堪えながら、笑顔を浮かべて

「う…うん。す…げぇ、美味しいよ…」

笑顔、笑顔、自分にそう言い聞かせながら彼は答えた。

「よかったぁ〜。じゃあまた今度入れてあげるねッ」

歩美は、まるで新妻が初めて作った料理を夫に褒めてもらったかのように安心した笑みを浮かべた。少し良心の呵責をおぼえながら、コナンは歩美にホントの事がバレなかった事に安堵した。元太と光彦の視線をチクチク感じながら

「あ、ありがと…」

と礼を言う。

だが、内心彼は思った。

『…絶対、コイツらの前でコーヒーを飲むのはやめよう』

固く心に誓った。二度とこういう嘘はつけないし、つきたくない…。つく自信も…ない。 .

 

+

 

お店を出て三人と別れた後、哀はコナンを博士の家に誘った。勿論その誘いを断るコナンではない。博士の家に行けば、口直しが出来る。リビングの扉を開ければ、いつもサイフォンから薫り高いアロマが温かく漂ってくるから…。今の彼には焦がれてやまないものらしい。たとえ淹れたてのものでなくてもいいからすぐにでも飲みたい。そんな心境だった。もっとも、哀はそれが理解っているから彼を阿笠邸に呼んだのだが……。

よろよろしている彼を横目に彼女は苦笑しつつドアを開けようとしたが、ドアノブに抵抗感があった。鍵が閉まっている。

彼女はポシェットから鍵を取り出しドアを開けた。

『なんだ、博士は留守かよ…』

口にこそ出さないが、彼の顔には失望の色が表れている。

『まあいっか、ここだったら確実に飲めるし……』

コナンは気を取り直して哀に懇願する。

「は…はいばらぁ〜、ゴービー…ブラック……淹れでぐれよ…」

今にも果てそうな、しかも干乾びきった声。激甘カフェ・オ・レに相当参ったようである。酷い声だ。何を言っているのか聞き取り辛い。

「コービー・ブライアント?サッカー少年のあなたが珍しいわね。NBAの話題だなんて…」

「あ・の・なぁ……コーヒーを、ブラックで淹れてって、頼んだんだよ!」

今度は一音一音区切るかのようにゆっくりと言った。

「ちょっと聞き違えただけじゃない」

「どんな耳してんだよ…。どーでもいいけど、マジ助けて欲しい気分だぜ。すっげ〜甘いのがまだ口ン中に……あ〜〜〜気持ち悪ィ〜〜〜〜〜」

口元に手をやりながら顔をしかめ不快さを耐えている彼に、彼女は半ば呆れ気味に視線を投げかける。

「……大袈裟ね…」

溜め息混じりの彼女の声に、コナンはカチンときた。

唯一、気持ちを理解してくれる人だと頼りに思っていたのに…。

「…おい」

急に低くなった彼の声。彼女は訝しげに彼を見る。

「何よ?」  

彼女を睨みつけたその瞬間、いきなり彼は彼女の顔を自分の方に向け、素早く哀の口唇にキスをした。

ほんの一瞬の出来事だった。

彼女は驚いて彼から離れる。

「なっ…何するのよッ!」

予想だにしていなかった彼の行動に、彼女の心拍数は撥ね上がり頬が蒸気している。耳まで紅く染まっていた。

「うっせ!」

プイッと顔を叛ける彼になおも彼女は声を張り上げる。

「やめてよね!甘いじゃない!!」  

「だ〜からさっきから甘いっつってんだろーがッ!」  

…なるほど……だけど……。深い溜め息とともに哀は肩を竦め両手を広げながら首を横に振った。

「相当甘かったのね。そんなところにまで味が付くほどイヤイヤ飲むなら、途中でやめておけばよかったのに。全部飲んじゃうなんて、お人好しもそこまでいくとバカを通り越しているわね」

人がいいのは今に始まった事じゃないとはいえ、呆れかえりながら彼女はリビング中央の円形カウンターキッチンの中に入る。

「…んなこと言ったって、アイツらの目見てたらしょーがねえなって…思うだろが……!」

最後の方はもそもそと小さな声になっていくコナンであった。

何だかんだ言ってても彼らの事が可愛いのだろう。それは哀にとっても同じだ。しょうがないわねと微笑しながら棚の中にあるインスタントコーヒーを取り出すと蓋を開けた。粉末をグラスに適量入れ、ポットのお湯を少し注ぎ入れる。冷凍庫から適量の氷をそのグラスの中に入れてマドラーを添えた。

「ま、いいけど?」

コナンの元に戻り彼にそれを手渡した。

「とりあえずそれで口直しでもしたら?今から豆を挽くから、美味しいコーヒーはあと少しくらい待てるわよね?」

「ああ、サンキュ」

微かに笑みを浮かべながら哀からグラスを受け取った。

 

数分経ち、コポコポと音が立ち始め、サイフォンからコクのある深い香りが部屋中に漂い始める。それだけでもうくつろいだ気分になれる。

マグカップふたつにドリップしたてのコーヒーを注ぐと、哀は小さなトレイにそれを乗せ、コナンのところに戻って来た。ベージュ地にブルーの縁のシンプルなマグカップを彼に手渡す。

「はい」

「どうも…」

満足げな笑みを零す彼に彼女も優しく微笑み返しながら、自分のマグカップを手に彼の隣に座った。彼女のはベージュ地に赤い縁のものだ。

一口飲み、彼は一息つく。

「…やっと人間に戻った気分だぜ」

おどけた表情で哀に微笑みかけるコナンに彼女も悪戯っぽく笑みを返す。

「生還、おめでとう」

「ああ、サンキュ。祝い、何かくれるか?」

「そうね、あなた次第で考えてもいいわ」

「つまり、なしってことだな?」

「さぁ…?」

「相変わらず可愛くねえな」

「そんな事、あなたが一番よく知っているでしょう?」

「…たまには反論しろよ」

「それも、あなた次第」

「何だ、そりゃ?」

他愛のない戯言を口にしながら顔を見合わせたふたりは不敵な笑みを浮かべる。

「やっぱここでこうやって飲むコーヒーが一番美味いな…」

「…そうね」

こんな心地よい時間、いつまでも続くといい。そんな願いを込めながら彼女は頷く。琥珀色の水面を見つめる彼女の横顔は穏やかなものだった。

『いつもそんな顔してるといいんだけどな…』

常に組織の陰に怯え、罪の意識に苛まれ悲観的な考えを払拭出来ずにいる彼女…。そこから這い上がろうと必死に立ち上がり腕を伸ばす彼女の助けになりたいと思っていた彼は、滅多に見ることのないその表情をじっと見つめていた。

可愛くないと、ついいつも言ってしまうが本当は……。

「何?」

コナンの視線を感じて哀は彼の方へ向き直った。

「え?あ、いや、その……」

彼女の声に現実に引き戻された彼は、思っていた事をそのまま言うわけにもいかずドギマギする。

「いつも思うんだけど…、おまえってコーヒー淹れるの上手いよな」

本当にそう思っている。感謝の気持ちを込めて言った。

「そんなお世辞言わなくても、それくらいいつでも淹れてあげるわよ」

「オレ、おまえにお世辞なんか言った事あったっけ?」

「そういえば、あなたってそういうの苦手なタイプだったわね」

「理解ってンじゃねえか」

ニヤリと笑う。と、その時ふとしたはずみで傾いた自分の手元に目線をやる。

何かが見えたような気がしたのだ。中身が零れないように気をつけながらカップの裏底を見た。

何かが彫られている。

ギクリとして哀は彼と目が合わないよう体ごと向きをかえた。

『気づかれたかしら…』

『…ん?“S”……?』

そこにはユーロスタイル文字のアルファベットが刻み込まれていた。“S”…ある事に思いあたり、彼は身を屈め、彼女のマグカップの裏底を見た。

そこにも同じ字体で“S”と刻まれている。色違いの縁取りだが同じデザインのマグカップ。そして同じ字体のアルファベット“S”……。

『…これって……もしかして、“新一”と“志保”……?』

ふたりの本名の頭文字。彼女が彼の隣で頬を赤く染めている理由……。

『…そうか…考えた事もなかったけど、オレたちの本名の……名前のイニシャルって同じだったんだ』

それがわかった途端、コナンの顔も赤くなった。

『お揃いのマグカップかよ……!』

それにしても、裏底に彫るなんて…。

『ま、こいつらしいよな…』

人差し指で頬を掻きながらコナンは、そっぽを向いたままの彼女に

「あ…ありがとな……灰原」

と、はにかみながら笑顔で礼を言った。

「べ、べつにペアとかじゃないんだから……勘違いだけはしないでね」

ますます赤面しながら、彼女は彼に背を向ける。

「ふ〜ん?」

「そ、そうよ。博士のもあるわ」

「イニシャル入りの?」

「え、ええ。縁の色は博士のビートルと同じ黄色よ」

「信号機かよ?」

「楽しいでしょ?」

「……で?その信号機の一部は何処にあンだよ?」

たしかカウンター内のラックにはそんなものなかったなぁ、と思いながら意地悪く聞いてみる。

「ま、まだお店に届いてないわよ!」

「は?」

「手違いがあって博士のだけ仕上がりが遅れているそうよ。だ、だから今、家にあるのはそれだけ。とにかく、ペアなんかじゃないわ」

力説する彼女が何だか可愛らしく思えた。コナンはクスクスと笑いながら

「でも今だけはペアカップ…だろ?ま、いいじゃねえか。短い間だけどよ、…よろしくな」

と片目を瞑った。

「違うって言ってるでしょう?わからない人ね!」

「ハイハイ」

こうしてふたりのハタから見れば楽しんでいる様にしか見えない言い合いは、博士が帰宅するまでループしていたのであった。

BACK