昔、描いてたイメージ。
さくらんぼみたいな唇。
甘い花の香り。
深い夜のとばり。
白いはねの天使達、ふわり。
ほんの少し、寂しさ。
とても幸福なもの。
please, freeze
街灯は消えて、黒い空に星は見えない。月もなく、頭上を覆う一面の雲は、まるで夜の砂漠。
吐いた息の白い粒が、闇に溶けて消えていった。命が消える瞬間も、こんな風だろうか。
こんな風に静かで、果敢無くて……孤独。
凍てつくような空気が、ロミオの全身を包む。しかし、そんな寒さも、今はさほど気にならなかった。
というより、感覚が麻痺していたのかもしれない。アルフレド。朝陽に照らされながら、彼の細い身体を抱き締めた。
どんなに留めようとしても、その身体はどんどん冷たくなっていく。
(何もできなかった……)
どうしようもなかった。あんなに傍に居たのに。
あの時、ロミオのなかで何かが凍り付いてしまったのだ。
(今、何時だろう……)
あれから何をしていたのか、はっきりと思い出せない。カセラ先生のところへ行かなきゃ、と思って、それから……。
ロミオは記憶を辿ろうとしたが、同じところをぐるぐると回るだけで、気が付けば足まで同じ所ばかりを歩いていた。
行くあてもない事に気付き、明かりの消えた街灯のひとつに寄り掛かってみる。すぐに背中がひんやりとした。
凍った街灯の金属的な冷たさ。アルフレドの身体の冷たさ。一体何が違うというのか。
ロミオはそのまま、ずるずると地べたに座り込んだ。
「眠い……」
思わず、口に出して呟く。本当にもう、疲れきっていた。色んな事が一度にありすぎて。
目まぐるしくて、まだ夢を見ているみたいだった。もしかしたら全部、夢だったんじゃないだろうか。
そう、全部……全部ってどこからどこまでだろう。このまま眠って、次に目覚めた時は、どんな景色がこの眼に映るのだろう。
おかみさんの怒った顔、いつものように煙突掃除をして、時折黒い兄弟の誰かと目を合わせたり……。
それとも、ひょっとして……ソニョーノ村の自分の家……母さんとおばあちゃん、弟達に元気な父さん……。
ふと、目の前に誰かが立っている事に気付いた。少年、ロミオよりもっと小さい、子供のようだ。
けれど、ロミオの意識は朦朧としたままだった。あまりの眠気とひどい寒さで、しっかりと目を開く事もできない。
幼い少年は、ロミオに向かって呟いた。
「可哀相に」
「……誰?」
その、透明な声。
どこかで聞いたことがある。ロミオは思った。が、しかし思い出せない。
「これでもう、君はひとりぼっちだね」
「ぼくが……ひとりぼっち?」
「そうだよ」
それは違う。ぼくには仲間だって居るし、親方も街の人もぼくに良くしてくれる。故郷には家族だって……。
そうロミオは言ったつもりだったが、果たして言葉になっていたかどうか。何しろ半分、夢現の状態なのだ。
しかしそれでも、彼には伝わっていたようだった。
「そうやって慰めてるつもりなの?それとも、逃げてるのかな」
「逃げてる?」
「そう。逃げてるんだよ、卑怯なロミオ」
「僕は……逃げてなんかいない」
「だったら何でこんなとこに居るのさ。仕事もほっぽり出して、みんなに心配掛けて。強がるなよ」
「何だよ……誰なんだよ君は……」
「ほら、そうやってぼくの事も知らないふりをする」
さすがにむっとして、ロミオは目を凝らした。暗闇にぼんやり浮かんだ彼の姿が、次第にはっきりしてくる。
生意気な顔。少しくせのある栗色の髪。そして、その黒く真っ直ぐな瞳を見た瞬間、ロミオの頭は冴え渡っていた。
彼は……この子供は……。
「ぼくは、君なのに」
そう言って嗤うと、少年は急に走りだし、すぐ傍の角を曲がってロミオの視界から消えた。
「まっ、待て……!」
まだ幾らかふらつく足で、慌てて後を追う。
しかし、角を曲がってはみたものの、子供の姿はもう影も形もなかった。
ただ、冷たい冬の風だけが、細い泣き声を残して吹き抜けていく。
ぼくが、逃げてるって?それが悪いっていうのか?
不意に彼の言葉が蘇った。
『強がるなよ』
誰も居ない路地に、ロミオはひとり、呆然と立ち尽くしていた。
「ロミオ!!」
どのくらいそうやって立ったままで居たのだろう。急に名前を呼ばれて、ロミオは我に返った。
「……親方」
「お前……今まで何をしてたんだ!?」
肩で息をしている。ロミオを探し回っていたのだろう。こんな冬の夜に。けれど、今のロミオには、そんな事どうでもよかった。
誰が何を思おうと、どこで何をしようと。この寒さの中、薄っぺらな上着と履き古した靴だけの自分が、たとえどうなろうと。
ロッシはじっと突っ立ったままのロミオを呆れたように見遣って、それでも何かあったという事は感じ取ったのだろう、昂ぶる気持ちをいくらか落ち着けて言った。
「まったく……!とにかく、うちへ帰ろう。話はそれから……」
それなのに、何がロミオをそこまで拒絶させたのか。
もう、誰のどんな気持ちも無意味だった。
「触るなっ!!」
ロミオは、ロッシの手を振り払って叫んだ。
「お、おい……」
「放っといてよ!ぼくの事なんかっ……。どうせならこのまま、居なくなっちゃえば良かったんだ!親方だってほんとはそう思ってるんだろ!ぼくなんか、要らないって!」
途端、乾いた音がして、左の頬に痺れるような痛みが走る。
はっと顔を上げたロミオの目に映ったのは、ロッシの険しい顔だった。
けれど、その瞳に、いつだったかロミオが買われてまだ間もない頃に見せたような軽蔑の色は、無い。
「いくらお前でも、そんな態度は許さんぞ。俺がどれだけ心配したと思ってる」
その言葉が、不意に胸に響く。ロミオは眉をしかめて俯いた。思わず頬にやった自分の手が、予想以上にひんやりと冷たい。
ロッシが力を加減していたので、頬の痛みはすぐに引いたし、腫れる気配も無さそうだった。
「エッダだってメシを作って待ってるんだぞ。表っ向きは、何でもない風を決め込んでいるがな」
親方は怒っているわけじゃない。ただ、自分の身を案じてくれていたのだ。そんな事、ロミオだって判っている。
「心配かけてごめんなさい」、そう一言、言えばいつものように笑ってくれるのだと。
しかしロミオは、地面を睨み付けたまま、動こうとはしなかった。
「……ロミオ?」
視界が、だんだん霞んでいく。
鼻の奥が熱くて、息が出来ない。のどに何かが詰まっているみたいで。
何も、考えられなくなっていく。
堪えようとすればするほど、ロミオの目は涙でいっぱいになった。
俯いていた所為だろう、それは頬を伝う事なく、そのまま雫となって地面に落ちた。
「なっ、何だ?泣くほど痛かったのか!?そんなに強く叩いたつもりは……」
涙は、後から後からぽろぽろとこぼれていく。
アルフレドが見たら、何て言うだろう。泣いてばっかりのぼくを、叱るだろうか。励ますだろうか。
それとも何も言わず、泣かせてくれるだろうか。
笑っちゃうよ、アルフレド。ぼくが君の支えだなんて。
ぼくはちっとも強くないし、こんな風に泣いてばかり。元気を出す方法だって君に教わったのに、今はそれも思い出せやしない。
それでまた、君を頼ってるんだ。ねぇアルフレド、こんなぼくを見ても、君はぼくの事を好きでいてくれたのかな。
「支えだ」なんて、言ってくれた?もう答えを聞く事もできないよ。
そうだ、聞く事もできない……。
その身体の冷たさを、あの時確かに肌で感じたもの。強張っていく、君の身体を……。
もう、居ない。
もう居ないんだ。
アルフレド。
声にならない鳴咽が、込み上げてくる。
どうして。どうして。どうして。ぼくは君が居なきゃ駄目だったのに。もう、誰の言葉も聞こえない。
誰のどんな気持ちも、意味が無くなってしまった。ぼくはもう、ひとりぼっちだ。
握り締めた両手こぶしに、今にも血が滲みそうになった時、ロミオの身体は、突然温かいものに包まれた。
「……何があったかは知らん」
小さな身体を抱き締める、ロッシの温かい腕。
「だがな、泣く時は思いっ切り泣いちまった方がいい。理由は訊かねぇが、お前が言ってスッキリするんなら、言っちまえ。なに、父ちゃんに言うんだと思ってな」
少しぶっきらぼうで。
でも優しい、その言葉。
嘘の無い。
けれど。
「お前はまだガキなんだぞ。ひとりで強がるな」
堪えていたものが、ずっと見て見ぬふりをしてきたものが、堰を切ったように、ロミオのなかから溢れ出す。
ロミオは、声を上げて泣いた。洩れる鳴咽を隠そうともせず、幼い子供みたいに泣き続けた。
実際、ロミオは幼かった。たったひとりですべてを抱え込むには、幼過ぎたのだ。
けれど、もう遅い。少年の心は、凍り付いてしまった。たったひとりで、必死に耳を塞いで。
走っていく、真っ直ぐな瞳の少年。彼の嗤い声が、頭の中に響いた。涙が、ロミオの冷たく凍えた頬を伝う。
どうにもならない心。どうにもならない命。だったらせめて、イメージの中で殺して。
幼い少年の祈りを閉じ込めたまま、そっと風葬にして。
そうすれば、もしかしたら、この氷も溶けるかもしれない。
暗闇に吐いた、白い息みたいに。
真冬のミラノ。その静かな寒さは、ロッシと、彼にしがみついて泣きじゃくるロミオの上に、しんしんと積もっていった。
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