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トントントン……。
規則正しい音に合わせて、束ねた長い赤毛の先が微かに揺れる。 くつくつと静かに煮える鍋からは、仕上げ前の素材そのままの香りが立ち上っている。 牛肉を煮込むおいしそうな匂いが、鼻をつっついては逃げていく。 そのくすぐったさにふと口元が緩んでしまうのを、特に抑えることもなく、鷲羽は更に鼻唄を交えた。 料理は嫌いじゃないが、特別好きとまではいかない。ものすごく得意というわけでもないし、かといって下手でもなかった。 どちらかといえば、食材の遺伝子を操作する方が得意だし、性に合っている。 地球に鷲羽の好奇心をそそるような遺伝子があるかどうかという問題以上に、料理には興味がなかったのだ。 これまでは。 「うーん、完璧♪」 配合した調味料の味をみて、満足げに頷く。これを鍋に入れて、また暫く煮詰めなければ。さっき切り終わった野菜はその後だ。 最初は馴染めなかった原始的すぎる調理器具にも、だいぶ慣れた。 普段なら棚に手が届かなくて何かと不便なキッチンだが、今は手際よくどんな作業でもこなせる。 大人の姿だって、利用できる時はどんどん使わなくちゃね。いつになく浮かれた気分で、鷲羽は思った。 (あれ……?でも利用って、私……?) 見知った景色。いつもの台所。大人の姿で料理をしている自分。心のとても大切な部分が満たされていくような心地。 でも、どうしてかしら。どうして私、料理なんかしているのかしら。 一体誰のために……。 「あっ、しまった!」 正常に動き出そうとしていた鷲羽の思考回路は、吹きこぼれた鍋にあっさりと閉じられた。 普通ならそんなこと自体が有り得ないのに、鷲羽は、不意に感じた違和感に対して気付かないふりをしたのだ。 「ふぅーっ、危ない危ない」 ご飯の支度もそこそこに、鷲羽は、今度は洗濯物を取り込んでいた。 思いがけず雨が降り出したからだ。 何だか忙しい。今日はまだ一度も研究室に入っていない。 これが終わったら、ちょっとだけ時間を作ろう。みんなが帰ってくる前に、やりかけのデータ入力だけでも終わらせたい。 よく考えると、洗濯機なんか使わなくても完璧に漂白・滅菌・脱臭できるメカくらい簡単に作れる。 どうせなら、たたんでくれる機能も付けてしまおう……。 両手でギリギリ抱えきれるくらいの量の洗濯物を手早くたたみながら、そんなことを考える。 みんなが帰ってくる前に。 つまりこの家には今、鷲羽しかいないのだ。 男性ものと女性ものと子供服。大きなシャツと、小さな靴下。 それらをそっと手に取ると、制御できない気持ちが込み上げてくる。 温かくて混沌としたものがじんわり胸にあふれ、一瞬のうちに足の指の先まで行き渡る。 大切なもののためなら何だってできると思う。そんな心とは裏腹に、無力すぎるこの身体。 それを知り尽くしているような気がするのは何故だろう。 幸せなのか、怖いのか。幸せが怖いのか。 そんな陳腐な言葉の意味さえ判らなくて、滲んだ涙は、こぼれることなく乾いて消えた。 ちょうど一家族分ほどの洗濯物は、思ったよりもすぐに片付いた。 雨は、にわか雨だったようだ。 既に外からの雨音は途絶え、代わりに鳥の囀りが聴こえていた。 「まったく、人騒がせなお客様だわね」 ぼやきながらも、雨上がりの土の匂いに誘われて庭に出る。 湿った空気が鷲羽のふくよかな頬を撫で、そのまましっとりと染み込んでいった。 宇宙では、そう頻繁に感じられることではない。 もちろん気象の変化のある星もあるが、船の中にいることが多かった鷲羽には、当たり前のように降る地球の雨が新鮮なのだ。 見上げると、雨粒に洗われて澄み切った空が、夕陽に焼かれていくところだった。 「あぁ……っ!?」 瞬間、いつもより空が近いような感覚に陥る。 平衡感覚が奪われて、一歩、後ろにふらついた。 赤と青のコントラストのせいだろうか、眩暈がする。 今にも消えようとしているその青に、呼ばれた気がした。 何だろう。何か忘れている。 ここがどこなのかは判っている……なのに、何故か確信が持てない。 私はどこにいるの?みんなはどこへ行ったの? 怖いの?幸せが?幸せが終わってしまうのが? 真っ赤に焼けただれた空がぐるぐる回る。 その動きを目で追う。 不規則な動き。 規則正しい鼓動。 耳の奥で響く包丁の音。 トントントントン。 不規則な雨音と、揺れる洗濯物。 鼓動が大きくなる。 ドクン。ドクン。 閉じられていた思考回路が、再び開き始める。 それを受け入れるのも、拒むのも。 決めるのは、私なの? ああそうだ。研究室に行かなくちゃ。せっかく家事が終わったんだから。 早くしないと、みんなが帰ってきてしまう。 でも、みんなって誰よ? 「ママ!」 突然届いた、幼く甲高い子供の声。 甘えを含んだその声で、鷲羽の意識はいとも簡単に引き戻された。 声のした方を振り返る。まるでそう呼ばれることが当然であるかのように。 いや、至極当然だったのだ。少なくとも、愛しいその姿を自らの瞳に捕らえた今の彼女にとっては。 「ただいま、ママ!」 柔らかく波打つ金髪の下で、はにかんだ二つの眼。それらが慕ってやまない母を映して、濡れた翠玉のように輝いている。 そんな息子の笑顔を同じように映し返す鷲羽の碧い瞳も、とめどない感情の波に潤んでいた。 その小さな身体を、最後にこの腕で抱きしめたのはいつだっただろう。 望めばいつだってできたことだったのに、どうしてもっと早くそうしなかったの。 どうしてもっとちゃんと守ってやれなかったの。 こんなに近くに居たのにね。ごめんね。ママを許して。 たくさんの言葉が浮かんだけれど、鷲羽より先に口を開いたのは美雲だった。 「パパ!ママ、こっちにいたよ!」 その言葉で、すべてが決まってしまった。 地球にいる理由も、この家にいる意味も、大人の姿も、家事も、夕焼けも、忘れている何かも。 何もかもすべてが、詮索するにも値しない当たり前のことになっていた。 緩やかに馴染んでいく日常の幸せ。 それに抗うような胸のざわめきが、一瞬せり上がって咽喉に詰まるけれど。 「何してるんだい?そんなところで」 それさえ無意味なものにする、優しい声。当たり前のように聴こえる声。 当たり前のようにそこにある姿。当たり前のようなのに、痺れるほどの懐かしさが指先を震わせる。 でも、どんな矛盾も、今の鷲羽には響かない。 「ちょっと……気分転換してただけ」 不思議な気持ちだ。 夫と息子が散歩から帰ってきただけなのに、やっと廻り逢えたような。 その名前すら、長い間口にはしていなかったような。 そう、きっと長い長い散歩だったのだ。だから、ずっとずっと待っていた。 遠い昔に諦めたはずのこの瞬間を、本当は、待ち侘びていたような気がした。 ねぇ、海はきれいだった? そんなくだらない問いよりも、今はただ一言、言いたいだけ。 「おかえりなさい……美雲、美釀」 彼女は既に銀河アカデミーのプロフェッサーでも宇宙一の科学者でもなく、この倒錯した世界の一住人だった。 食卓代わりのいつものちゃぶ台。そこに並ぶ料理は、鷲羽が作ったものだ。 それを家族三人で囲んでの夕食は、はじけるような笑顔と会話で終始きらきらと輝いているようだった。 普段なら後片付けなんて面倒なことは、進んでやらない。というか、やる必要がなかった。 台所を仕切っている小さな主婦がいるからだ。けれど、その姿も今はどこにも見当たらない。 しかも、鷲羽は別にやる人間がいないから仕方なく皿を洗ったわけではなく、たいそう楽しげな様子でそれらをこなしていた。 それこそ料理を作っていた時と同様、鼻唄など歌いながら、だ。 「おいで美雲、お風呂に入りましょ」 「はぁい」 何の疑問もなく、そこにあるすべてを受け入れていた。 「あらっ、また背が伸びたんじゃない?」 勝手知ったる空中温泉。 立ったまま目をぎゅっと瞑っている息子の前に膝立ちをして、鷲羽はその髪を洗ってやった。 肌の色も眼の色も同じ二人だが、髪の色だけは違う。 情熱という言葉を具現化した、勇ましいたてがみのような自分の赤い髪。 それとは対象的に、上品ながらも荘厳な輝きを放つ息子の金色の髪。 父親譲りのその色が、鷲羽には誇らしく思えた。 ふと気付くと、泡にまみれたその頭が必要以上に迫っている。 「ほらぁ、そんなに怖がらないの!だらしないわねェ」 「だって……」 叱られてもなお、怯えたように鷲羽の身体にしがみつこうとする手。 自分を求めるその仕草に、つい甘やかして抱きしめてやりたくなるのを堪えて、鷲羽は少し身を引いた。 シャンプーをしている時にすがってこられては、やりにくくて仕方ない。 「目を閉じてると、真っ暗なんだもん」 「じゃあ開けていなさい」 「嫌だ、しみるもん」 息子の答えに呆れながら、不意によぎる思い。 怖いと言いながらも頑なに目を瞑り続ける美雲の姿が、何かを連想させる。 でも、それが何なのか判らない。 暗いのが怖いなら、目を開ければいいのに。 目を瞑っているから暗くて、怖いのよ。 でも、シャンプーがしみるから開けられないのね。 しみると痛くて、涙が出るものね。 だから、目を瞑ってる。 本当にそれでいいと、思っているの? 突然、庭先で見た光景がフラッシュバックした。青から赤へと変わる空。 あの赤はまるで、自分の髪のよう。ならば青は、何だった? (……一体、何だって言うの!) 曇りかけた心を晴らすように、鷲羽は息子の金色の髪めがけて、ばしゃっと一気にお湯をかけた。 ――もとい、かけすぎてしまった。 我に返るのが少しばかり遅かったようだ。 気付いた時には、滝のように落ちてくる水の中で、美雲が抵抗する間もなく溺れていた。 「美雲はまだ小さいんだから……加減しないと」 打って変わって厳しい口調の美釀に、返す言葉もない。 さっきまでは息子をしつけていたはずなのに、今は自分が叱られている。 風呂上がりのままガウンを一枚羽織っただけの格好で、鷲羽はうなだれた。 あの後、火がついたように泣き出した美雲を慌てて着替えさせ、自分は満足に身体も拭かないまま思い付く限りの方法で宥めたのだ。 「子供を腫れ物のように扱うのは僕も反対だどね。気の緩みが思わぬ事故に繋がらないとも言えないだろう」 「おっしゃるとおりで……」 「それでも湯船ではしゃいで溺れたのなら自業自得かもしれない。でも、洗い場で母親がお湯をかけすぎたなんて、前代未聞だ」 「面目ない……」 「パパ、そんなに怒らないで」 今はもう落ち着きを取り戻した美雲が、恐る恐る父親の顔色を窺った。 冷えた身体を抱えながら珍しくしょげ返っている鷲羽を見て、どうやらいたたまれなくなったらしい。 「ママ悪くないよ。だって、わざとじゃないんだ。怒ったら可哀想だよ。泣いちゃうよ」 「美雲……」 その言葉で、危うく泣きそうになる。 なんて優しい子に育ってくれたのかしら!……そんな親バカな感嘆も、半分は本気だ。 ずっと気掛かりだった。あの子は元気だろうか。しっかりご飯を食べて、健康で、笑顔で、毎日幸せに生きているだろうか。 今は、どうしてそんなことを気にしていたのかも思い出せない。 だって、この子はこんなに傍に居る。幸せかどうかなんて、一目瞭然だ。 鷲羽は美雲が安心するように、できるだけ穏やかな笑みを浮かべて言った。 「心配しなくていいよ。大丈夫だから、もう寝なさいね」 「でもママ……」 「パパとママはお話してるだけ。喧嘩してるんじゃないのよ」 「ほんと……?」 「本当だとも」 すかさず、美釀も口を挟む。 わざとらしいまでに真面目な顔をしてみせたのが、逆に冗談ぽく見えたのだろう。美雲はホッとした様子で、 「じゃあ、おやすみなさい!」 「おやすみ、美雲」 二人の声が綺麗にハモった。 思わず目を合わせ、照れたように逸らす。 声が重なっただけなのに、何だかどきどきするのは、美雲が寝たら二人きりになることが想像されたからだろうか。 そんな母親の気持ちなどもちろん知らない美雲は、にっこり笑って寝室へと消えた。 「……さてと。反省しましたか、鷲羽さん?」 「はい」 「じゃ、よろしい」 あっさりと言われて、顔をあげる。いつもの温かい微笑みに安堵した。 そう、いつもの美釀だ。 だけど、いつもって、いつからだろう。 いつからその笑顔はそこにあるのだろう。 急に寒さが身に染みて、鷲羽は身震いをした。 「……っくしゅ!」 「ああほら、もう一回身体を温めないと……」 「え゙?」 にわかに腕を引っ張られ、鷲羽はバランスを崩して倒れ込んだ。一瞬、上下左右の感覚を失う。 そして自分の位置を認識した時には、抱きしめられていた。 「みっみか……」 言いかけた鷲羽の唇を、そっとふさぐ。 このまま身を委せてしまえたら。 朦朧とする意識を繋ぎとめるのは、あの青い色。 遠くで叫んでいる、悲しげな色。 「美釀……あたし……」 「大丈夫、目を閉じて」 目を閉じれば、夢が見られる。 たとえ現実がどんなものであっても、目を閉じてさえいれば、いつだってあなたが居た。 美雲は私の腕の中で、散歩に行くなら3人で、海なんか見えなくても幸せだった。 だけど、それは目覚めれば終わる夢。 目を開けてしまえば、もう二度とは還れない。 美釀の温かい胸も、大きな手も。美雲の愛しい笑顔も、ママと呼ぶ声も。 全部、消えてなくなりそうで。 「美釀。あたし、怖かったの」 だって、美雲が初めて「ママ」と呼んだのは私じゃない。 あの子が掴まり立ちをした瞬間も、一人で歩き始めたその姿も、私は何も知らない。 好きな食べ物は何かも、得意な遊びは何なのかも、何を見て笑い、何に疵付くのかも。 本当は何も知らなかった。それに気付くのが怖くて、ずっと目を瞑っていた。 けれど、それよりも怖いのは。 「このまま、目が覚めないまま、この世界に囚われてしまうこと……」 明け方の空の色のように薄く澄んだ青が、脳裏に拡がった。 「だってあたしは、あなたや美雲の本当のぬくもりを知ってるのに」 「鷲羽……」 「なのにこんな夢の世界に居続けるということは、それを忘れるということだわ」 美釀も美雲も、ちゃんと幸せだった。 あんな別れ方をしてしまった家族だけれど、それは充分すぎるくらい知っていた。 そして私も、と鷲羽は思う。私も今、現実で、幸せなのだ。 「楽しかった……いつか見た夢が、叶ったみたいだった」 また、声がした。今度は、色よりもはっきりとした言葉で。 母の名を呼ぶその声。守るべき者の元へ誘うように。 「おやすみなさい、美釀」 美釀の瞳が、寂しそうに微笑んだ。これも自分自身が見せる幻なのだろうか。判らない。 世界が、だんだんと形を失っていく。 不確かに揺らめく夢に戻っていく。 さよなら、美釀。 さよなら、美雲。 だけどこれはお別れじゃない。 目を開けたって、何も消えやしないもの。 さあ、そろそろ起きなくちゃ――。 「鷲羽!!」 真っ先に飛び込んできたのは、青だった。 明け方の空のような、青い髪の色。 「りょうこ……うぐっ!」 「鷲羽ざぁぁぁぁん!ごめんなざぁ〜〜〜いっっ!!」 「み、美星殿……重い……」 ほとんど間髪入れずに金髪を振り乱した美星が乗っかってきて、その重さに自分が子供の姿だということを確認する。 圧迫された胸の痛みに紛れて、ズキンとひとつ鼓動が打った。 その音に美星が気付かないことを、鷲羽は密かに願った。 「ったく心配させやがってぇ!オメー、気を失ったまま丸一日寝てたんだぞ!?その変なメカをこいつが暴走させたせいでっ」 「あぁん痛ぁ〜いっ」 「痛ぁ〜いじゃねぇっ!」 「うっうっ、すみませぇ〜〜〜ん」 美星を小突き回す魎呼を見ながら、だんだんと記憶も蘇り、鷲羽は大体の状況を飲み込めた。 魎呼が言った「変なメカ」とは、もちろん鷲羽が作ったものだ。 センサーに触れた生命体の記憶や思考などあらゆるデータを瞬時にトレスして、それに応じた映像を造りだし、生命体の脳に直接送り込む。 早い話が、思い通りの夢を見られる機械なのである。 夢というのは、銀河アカデミーの科学力を持ってしても、まだまだ謎の部分が多い研究対象だ。 研究半分、趣味半分で、人工的に夢を作り出す装置を作ったのだが……。 つまりそのメカがあればどんな夢でも好きに見られるのか!?と邪な欲望に駆られた魎呼がメカを持ち出した。 気付いた鷲羽がすぐに奪還に向かったのだが、相手はスイッチの入った魎呼。大人しく返すはずもない。 ドタバタと追いかけっこをするうちに、計ったようなタイミングで美星が乱入し、お約束のようにメカが暴走。 いや、正確に言うと、今回は暴走はしていない。ただちょっと、鷲羽の脳天を直撃しただけだ。 何にせよ、その衝撃で装置のセンサーが反応し、鷲羽は気絶した状態のまま自らの発明品の餌食となったのだった……。 「……ん?待てよ?ってことは、魎呼!半分はあんたの責任じゃないの!」 「ゔっ!しまったバレたか!」 「自分のしたこと棚に上げて人のせいにするなんて、この子は〜〜〜!」 「あっ、あっ、いやんママ許して……いっだー!!痛い痛いいたたたた!!」 「魎呼さん!悪いことをしたら謝らなくちゃいけませんよ!そうすればきっと許してもらえますから!」 「美星!てめぇは黙ってろ!おいコラ!わしゅう!いい加減に……うっぎゃああああ!」 魎呼の悲鳴を聞きつけて、他のメンバーもぞろぞろと集まってくる。 どちらかというと魎呼を心配してというよりは、鷲羽が目を覚ましたらしいと気付いて、だが。 しかし、来てみれば部屋にはピンピンした鷲羽と、彼女の腕に捕えられて尻を叩かれまくっている魎呼。 そして二人の横で泣きながらおろおろと的外れなことばかり言っている美星の姿。 呆気に取られ、誰も何も言えないまま突っ立っていた。 「わ、鷲羽ちゃん……元気そうで何より」 ぼそりと呟いた天地の声に、ふと手を緩める鷲羽。その隙を突いて、魎呼が逃げる。 その背中をふん掴まえて再び手中におさめることは容易かったが、鷲羽の意識は別のところにあった。 さっきまでの夢の中。その中でも、確かにこの家に居た。けれど、それは柾木家じゃない。 あそこには、この風景がなかった。 心配そうな砂沙美と、それを宥めるように立っている阿重霞。 感情に正直で、ひたすら素直な美星。 振り回されているように見えてその実、一番みんなを安心させてくれる存在の天地。 そして目を開けて一番に見えた、魎呼の泣きそうな顔。 「天地ィ〜〜〜、助けとくれよぉ鷲羽がいじめるんだよぉ」 「魎呼……お前また何かしたのか?」 今、天地にすがりながらぐすぐす嘘泣きをしている魎呼を見て、鷲羽はフッと笑った。 まぁ、お仕置きはこれくらいで許しといてやるか。 だって、あの夢から引き戻してくれたのは、お前なんだから。 ともすれば永遠に出られなくなりそうなあの夢の中で、ちらついて離れなかった青い色。 必死に私を求める声。行かないで、ママ。そう言っているような。 「魎呼ちゃん!」 不意に名前を呼ばれ、魎呼は身構えながら振り返る。 しかし、耳に入ってきたのは、意外なほど優しい言葉だった。 「ありがと」 何ものからも守ってくれるような、そのくせ守ってやりたくなるような鷲羽の笑顔。 その微笑みの奥にある真剣な眼差しに、一瞬魅入られる。 だがそれも長くは続かないのが、鷲羽の鷲羽たるゆえんであると言えるかもしれない。 ハッとさせられたと思ったら次にはもう表情を崩し、快活な口調で言い放った。 「んもーびっくりしちゃったわよォ、魎呼ちゃんったらこの世の終わりみたいな顔してるんだもの!」 「なっ……」 「でも嬉しいわ、そんっなに心配してくれてたなんてっ。ママ目を開けて!ママ死んじゃイヤッ!ママ愛してるっ!」 「てめ……」 「どぁーいじょーぶだって!この鷲羽ちゃんがそう簡単に死ぬわけなかろ?何たって天才なんだからぁーっはっはっはっはっ!」 「いい加減にしろっこの野郎!!」 「ぶぎゅっ!?」 ……その瞬間、その場にいた誰もが、時が止まったような錯覚を覚えていたという。 魎呼がぶん投げた鷲羽のメカを顔面に受け、完全に夢の世界へと旅立った美星、ただ一人を除いて……。 「魎呼――――――っっ!!!」 今日も柾木家には、怒りと嘆きと悲しみが入り混じったような叫び声がこだましていた。
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