* 胎 蔵 界 *
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

                     むせ返るほどの花びらの雨。


                     見ているだけで、窒息しそうだった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「……すげぇ」

 桜。
 幾千もの枝に咲き乱れるその花を見て、まず思い浮かべたこと。
 この花は、桜によく似ている。

「こんなとこにも、咲くんだな……」
「桜じゃないよ」

 花の中から声がした。
 既に聞き慣れたその声に、驚くということはもうあまり無い。

「ここには、桜は咲かないんだ」

 目を凝らして、嵐のごとく舞い狂う花びらの隙を見る。そこに垣間見える、その姿。
 人が言うほどには、二人が似ているとは思えない。それは髪の長さが違う所為もしれないし、口調が違う所為かもしれない。何もかもそっくりなのに目付きだけは似ていないと、誰かが噂した。しかし一番似ている部分こそ、その瞳なんじゃないかと思うのだ。
 桜、と口に出した覚えもないのに、「桜じゃない」とはっきり告げた唇は、不自然どころかまるで、当然のようだった。

「……じゃあ何の樹なんだ、これ」
「さあね」
「何だそりゃ。自信たっぷりに否定しといて知らんのかよ」
「知ってるよ、500年前にも見たからな。でも、名前なんてものはいちいち覚えないさ」

 本当にどうでもよさそうな素振りで言い捨てる。
 名とは、ものを縛る呪。自然までもその呪によって縛り付ける人の行いを、愚かだと思っての言葉だろうか。それとも単に、覚えるのが面倒だっただけのことかもしれない。何しろ、2度もこの世を生きて、今既に3度目。千年もの時を見て来た男なのだから。

「……。そんじゃ、その……これは憶えてるか」

 だから、何を言うにしても、一瞬の躊躇いが生まれる。
 一体この男には、どれほどの言葉が届くのか。ひとつの言葉が、どれほどの意味を持ち得るのか。
 そんな躊躇い。そうして、どんどん遠く離れてしまう。判っている。
 そしてまた、口篭りながらも結局言ってしまうのだ。

「オイラ達が……産まれた時のこと」
「何だい?えらく唐突だな」
「ちょっと、思い出したんよ。あん時、もしオイラが先に産まれてたら、オイラは今ここにおらんのだろうしな」
「葉」

 花びらが舞い続けて、月の光がちらちら揺れる。
 マントの首元に積もった花弁。その一枚を摘み、降りしきる花びらと月光の中に翳した。

「もしも、なんて事は考えるな。既に起こったこともこれから起こり得ることも、すべては必然だ」
「それって、運命みたいなもんか?」
「違うな……必然は結果さ。誰かが心で何かを思い、そして行動する……その結果が必然となる。運命は変わらないが、必然は心によって変わり得る。心が恐れ、悲しみ、悩んでいれば、それ相応の結果が出るんだ。あの時、麻倉が何を企んでいたとしても、結局は僕を……赤子を殺すことを躊躇った。例えおまえが先に産まれていたとしても、結果は同じだっただろう」

 ふぅっと息を吐き出すと、摘んでいた花びらはいとも容易くその指を離れ、群れに戻って見えなくなった。

「必然、か……それって何か、縁に似てるな」
「ん?珍しく気の利いたことを言うね」
「はは……昔、じいちゃんに聞いたことがあるんよ。すべてのもんはみんな縁により生まれて、縁により滅びるって」

 それは、たぶん葉明が幼い葉に仏の教えを話し聞かせてやった日の記憶。
 もちろん年端もいかぬ葉には仏の智慧など難しく、とてもじゃないが殆ど理解も出来なかったし、今でも全ては判らない。納得のいくところもあれば、腑に落ちないところもある。
 しかし、強い言葉というものは、たとえその身が幼くとも心のどこかに残るもの。

「花は咲く縁が集まって咲くし、葉は散る縁が集まって散る……ひとりで咲いて、ひとりで散るんじゃないって……。その時は、何やら難しくてよく判らんかったけどよ」
「そりゃそうだ」
「その縁ってやつが、必然とか……心とかを決めていくんかもな」

 話しながら、葉もだんだんと思い出してくる。
 あの日、祖父が難しい仏の教えを聞かせたのは、修行や教育のためではない。だから葉がはっきりと理解してなくても、怒鳴りもしなかったし、お仕置きもなかった。あの話は、いつもひとりぼっちの孫への優しさの現れだった。今なら、祖父が何を言わんとして葉にその話をしたのか、少し判るような気がする。

「それに、オイラたちが今ここでこうしてるのだって、縁には違いない」

 ゆるく笑って、葉はハオの方へ向き直った。
 因縁。雨も風も花も葉も、それから人も。全てのものは関わり合い移り変わっていく。
 とどまり続けるものはなく、そして、ひとりで存在するものも何もない。

「ハオ……」

 気付けば、救われるのに。
 揺らぐ心の、まだ奥に。

「あん時……オイラとおまえが産まれた時」

 咲く花を見ても、散る花を見ても、辿り着けなかった。
 何度時を繰り返しても。幾度朝と夜とを追い掛けても。
 それはまるで、夢から醒める夢。

「母ちゃんの腹ん中で、おまえはオイラを守ったよな」

 そればかりが続く、永遠の、よう。

「……へぇ」

 口の端を歪めて、ハオが笑った。

「まさか葉からそんな言葉を聞く日が来るとは、思わなかったよ」
「あの夜……先に産まれるのはオイラのはずだった」

 少し皮肉なその言い方に気を取られることもなく、葉は言葉を続ける。
 余裕があるわけではなかった。けれど、ゆっくりと。
 一言一言、それが確実に、相手に伝わるように。

「おまえの言うように、それでも、じいちゃんはオイラを殺せなかったかもしれん。でも、それはあの時には判らんかったことだ」
「………………」
「もしかしたら、オイラは殺されてたのかもしれん」

 葉は淡々と語り、ハオは黙ってそれに耳を傾ける。
 伏し目がちに見つめるどこか定まらない視線が、花びらと共に夜に漂っていた。

「でも、そうはならんかった。そうならんことが必然だったからだとしても、それは結果だ。オイラが殺されるかもしれんから、その可能性があったから」

 欲しかったものは。
 手に入れたかったものは。
 失くしたものだったのか、易くは得られぬものだったのか。
 何度も生まれ変わってまで、こんな荒みきった人の世で。

「おまえは、オイラを庇ってくれたんだろ」

 本当は何を、守りたかった?

「……は」

 そんなことを今更になっても考えている。
 人間というこの身体。この魂の入れ物。
 なんと愚かしく、可笑しいものか。

「はは、ははははは……」
「何だよ?ウケるとこか?」
「あぁそうだな、すまんすまん」

 宥めるように謝ったが、葉は不意に笑われて少しムッとした様子だ。だが、そんなことをいちいち気にかけるハオではない。
 すぐに威圧的な態度を取り戻し、強い口調で言い放つ。

「葉、既に起こったことを恐れるなよ。それが心の迷いっていうのさ。既に起こったことを恐れ、まだ起こっていないことをも恐れる……人間の悪い癖だ」

 その口元は笑みさえ浮かべているが、瞳は笑ってはいなかった。
 たくさんのものを、見過ぎた瞳。
 誰かと同じ。自分と同じ。かつて、何度も見た。だから、恐れることはない。
 ――おまえは、何にも見えちゃいねぇ。

「それにしてもよく覚えてたなぁ、あんなちっちぇえ赤ん坊だったおまえが」
「それはおまえだって同じだろうが」
「同じではないさ、僕はただの赤ん坊じゃなかったんだから。なのに、おまえが覚えてたとは……ちょっと褒めてやりたい気分かな」

 まるで、他愛もない会話。
 降りしきる花びらと、月の光。吸い込まれそうな、夜の空。
 あの夜は、どんな風だっただろうか。月は出ていたか。星は出ていたか。花は咲いていたのか。空の色は。人々は。

「でも、的外れもいいとこなんだけどね」

 冴え冴えとした、空気。

「考えてもみろよ。おまえが先に産まれたとして、葉明が躊躇うことなくおまえを殺していたら?」
「まぁ、それでもじいちゃんは躊躇ったと、オイラも思うがな」
「躊躇った末に殺したら?ただの赤子のおまえは、抵抗も出来ずに死ぬ。そして僕は半身を失うどころか、僕自身の身さえ危険に晒すことになる……既に己の迷いを断ち切り孫一人を手に掛けた者が、もう一度躊躇うなんてことがあると思うかい?」

 身体ごと葉の方を向いて、一歩、歩み寄る。
 さすがの葉も、少したじろいだ。恐怖を感じるわけでは、ない。
 ただ、どうしようもなく不安に駆られるのだ。
 目の前の、悲しみの大きさに。絶望の深さに。

「簡単なことだよ、葉。判るだろ?僕はおまえを庇ったんじゃない」
「………………」

 ぐっ、と近付く顔。
 息づかいも判るほど。

「僕は僕を守っただけだ。それが必然であるからね」

 ともすれば負けそうになる。けれど。

「判らんな」

 葉は、後ずさりかけた足を、踏み留めた。
 判らない。判らなくてもいい。受けとめることができれば。
 そうすれば、変われる。
 それだけは、判る。

「もしあの時こうだったら、とか……もしこうなってしまったら、とか……。もしもってのを考えずに済んだら、そりゃあ楽だろう」
「………………」
「でも、考えちまうんだ」

 既に起こったことを恐れ、まだ起こっていないことをも恐れる。それはとても、人間臭い感情。

「現に、今おまえも考えてるしな」
「んん?それは葉に合わせてやっただけだろ」
「ウェッヘヘ……別にそれでもいいさ」

 いつもの調子でぬけぬけと切り返したハオの言葉に、葉は笑った。
 やはり、そう簡単にしたり顔はさせてくれそうにない。

「もしもっていうのはきっと、心に大切なもんがあるから考えてしまうんよ。それが物でも、人でもな」

 過去への後悔。未来への不安。
 知っている。抱いても、どうしようもない想いだということ。
 どうにかなる。何とかなる。だけど、それだけでは守れない。

「それを迷いって呼ぶのも構わん。別に迷ったっていいじゃねぇか。誰にだって大事なもんがあるだろ」

 だから、どうにかして守ろうとするのだ。

「だから、それが自分の一番大事な部分だと思い込んで周りが見えなくなっちまう時もある。大切に思えば思うほど、それがまるで自分自身のように思えるからな。それで後悔もするし、恐れもする。もしもとか、もしかしたらってのを考えちまうわけだ」
「でも本当に大切なのは、揺るがない心だ」
「そうだな、でもおまえはそれを持ってるんか?」

 葉の言葉に、ハオが初めて表情を歪める。
 その顔は苛立ちを抑えているようにも見えたし、怒りを鎮めようとしているようにも見えた。
 それから、泣きたいのを堪えているようにも。
 誰だってそうだ。足掻いて、もがいて、何とかしたい。大切なものを、守る為に。
 たった、それだけのこと。

「少なくともオイラとおまえが産まれる時は、おまえは“もしも”を考えた。そんで、自分から先に産まれることを選んだ」
「……だったら何だ?おまえは僕に厭味を言うためにこんな話をしたのか?」
「何だよ、意地悪だな。おまえもうとっくに判ってんだろ?オイラ、それを思い出した時、嬉しかったんよ」
「だからそれが何なんだと訊いてるんだろ」

 相手の思う内は読めても、戸惑う。
 たくさんのものを見過ぎて、見えなくなった。
 今更、触れない。

「ありがとな、ハオ」

 全てを受け入れようとする、その心には。

「……まったく、おまえには敵わない」
「おお?天下のハオ様にそんなこと言われるとは、オイラもなかなかのもんだな!」
「呆れてるんだ」

 すっかり毒気を抜かれたのか、ハオはぺたんとその場に座り込んだ。
 そして深々と溜め息をつく。それは、失望や嘆きといった類ではなく、どこか安心した時につく息のようだった。
 この男にこんな顔をさせるのは、確かに葉ぐらいのものかもしれない。

「まぁ、いいや」

 心は移ろい易く、月のよう。咲く花と散る花は、絶えず。どんなに揺るぎない心を求めても、それは変わりゆく。
 守りたかったもの。手に入れたかったもの。信じたかったもの。きっと変わってゆく、と。
 それなのに、一人じゃない、と思うことさえ未だ叶わない。だから、一人で居る。
 目の前の暖かい膝にも、気付けずに。だけど。

「その言葉、ありがたく受け取っておくよ」

 いつか、見えるかもしれない。
 咲いた花が散るように。月がかたちを留めぬように。
 花びらの雨の中で、葉が、頷いた。

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