「……あなたの言った通り」
コナンがまどろみかけた頃、ふと、哀が思い出したかのように呟いた。
「研究を止めるって言ったの、あれ、嘘よ」
「………………」
「ホントはずっと、続けてた。でも」
一瞬、躊躇いの眼でコナンを見る。しかし、すぐにその視線を逸らして話を続けた。
「言えなかったわ。もしこのまま解毒剤が完成しなかったらと思うと、あなたにこれ以上期待させるのが辛くて。それに、あたし自身も限界が近かった。何度も研究を止めてしまおうと思った」
解毒剤が完成に近付くたび、彼は私から離れていく。
少しずつ。でも確実に。
気が狂いそうだった。
お願いだから傍に居て……。
「それでも解毒剤は出来た。少なくとも理論上は完璧にね。……やっと……これでやっと償える。そう思ったわ。なのに……」
この罪が。赦されるなら、何だってしようと思った。
いつか穢れのないあの人と、胸を張って並ぶことが出来るように。
たとえ隣には居られなくても、綺麗になりたかった。
だけど、溶けた雪は泥にまみれて戻らない。
決して戻れない。
「出来なかった……。断ち切ることが出来なかった。あなたとあたしの、唯一の繋がりを」
APTX4869。あの薬は悪魔の毒薬?それとも……。
だって、二人を引き合わせ、今も繋ぎ止めているのは、紛れもなくあの薬なのに。
「怖かった……」
声が震える。止められない。
コナンの指が、哀に触れた。
哀の小さな身体が一瞬強張る。
大丈夫だ、と囁いて、俯いている哀の肩をコナンは優しく抱いた。
「オレ、言ったよな」
「………………」
「たとえ蘭の中からオレの存在が消える事になっても、これ以上アイツを泣かせるのは嫌なんだ、って」
哀がうなずくのを待って、コナンは続けた。
「強がりだと思ったかもしんねーけど、あれは本心だった。確かに強がってたけどな。でもあの言葉に嘘は無い。蘭の事は大切だ。今でもすごく。アイツの事、幸せにしてやりたかった」
大切な人。いつも傍に居たのに。
幸せにしたい。この手で。
ずっと、そう思っていた。
ずっとそう思い続けられたら、良かった。
「でも、それは出来ねーんだって判って……新一には戻れないんだって知って、終わりにしようと思ったんだ」
アイツならオレが居なくたって、きっといつか幸せになれる。だったらそれが一番いいじゃねーかって、思った。昔のオレなら、そんな事思わなかったはずなのにな。アイツを幸せに出来るのはオレだけだって妙な自信があってさ。それが好きって事なんだろーな。根拠も何も無いけど、絶対やれるって自信があった。お互いにそう思ってたんだと思う。だからふたりの未来を信じられたんだ。お互いのキモチが、繋がってたから。
なのに……と呟いて、不意に俯く。
「なのにオレは……そう思えなくなった」
蘭にもう限界だって言われた時、そう思えなくなってたんだ。もうずっと前からだった。いつのまにか、蘭を泣かせるだけのオレじゃアイツを幸せになんかしてやれないって、だったらオレなんか居ない方がいいって、そういう風に変わってたんだ。
そこまで言うと、コナンはふと言葉を切った。何かを堪えているみたいに、奥歯を噛み締める。
「……アイツはオレに、帰ってきてって言ってたのにな……」
哀はきゅっと唇を噛んだ。
判る。彼の気持ちは、痛いほど。
求められているのに応えられない自分。悔しさ。もどかしさ。自己嫌悪。知ってる。
だけど、自分の気持ちには決して嘘は吐けないことも。
「それなのに、オレは蘭を突き放しちまった」
悪くないわ。そう言いたかった。言おうとして、でも言葉が咽喉にひっかかった様に詰まって、哀はただコナンの横顔を見つめた。
あなたは悪くない。だって、知ってる。どんなに嘘にまみれても、最後には本当のことしか残らないのを。愛するが故に疵付け合うことがあるのを。愛は消え得るということを。
「大丈夫」
さっきはコナンが言った言葉を、今度は哀が言った。大丈夫。
「大丈夫よ……」
そして、包み込むようにそっと抱き締める。優しく。
「灰原……」
コナンも哀の背中に腕を回した。
「オレ、お前が好きだよ」
哀がコナンの胸の中で、ほんの少しだけ、頬を赤らめる。彼には気付かれないように。
「ずっと前から、好きになってた」
愛していた、と言うのは今更照れ臭くて、コナンは続けた。
「汚いけど、でも、それがホントのキモチなんだ」
あら、人を好きになれば、汚いところなんかいっぱい出てくるものよ。
哀が知ったような口調で言ったので、コナンは思わず笑った。
「ついでに言っとくとな、オレも嘘吐いたぞ」
「え?」
「顔も見たくないなんて、大嘘だかんな」
叱られて決まり悪そうにしている悪戯っ子のような顔。
可愛い。口に出すと怒られそうなので、哀は心の中で呟いた。愛しい人の言うこと、すること、仕草、表情。どうしてこんなに可愛く思えて、いとおしくなるのだろう。どうしてこんなに、守りたいと思うのだろう。離れたくないと思ってしまうのだろう。心乱されるのだろう。きっと、生きてゆくうえでの最大の謎だ。
「あたしだって、好きじゃないなんて、嘘だったわよ」
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