虚ろ


「はぁ……はぁ……」

 気の遠くなるような痛み。
 震える自分の声。
 薄暗い部屋の中で鈍く光る血。
 大嫌いな、自分の血。
 私が人間だってことを、思い出させる。
 機械仕掛けの歯車のように生きてきたのに。

「あんた達は悪魔だよ。人間の皮をかぶった悪魔」

 私にナイフを向けて、吐き捨てた。
 その先端が赤く濡れているのは、私の腹部をえぐったから?
 それとも心が血を流しているのかしら。
 この目の前の、悲しみと憎悪にまみれた憐れな人間の心が。

「生意気なんだよ。悪魔が赤い血を流すなんてさ」

 ああ、この女は、私に制裁を与えたいのだわ。
 同じ人間として。
 人間になれなかった、私に。

「そうね……あ、悪魔の方が、まだマシだったかもね……」

 最初から、血なんて流れていなければ良かったのだ。
 流れていては、いけなかったのだ。

「死んで」

 女がそう呟いた瞬間。
 乾いた音が、聞こえた。
 耳に障る、嫌な音。
 私にもっとも近しい音。
 ナイフが、女の手から落ちて床に転がった。

「……ジン……」
「人の部屋で何してやがる」

 そう言って、私を真っ直ぐ見る。
 自らが放った銃弾に、崩れ落ちた女の身体には、見向きもしないで。

「随分な言われようだわ……彼女、あなたが殺した誰かの母親みたいよ」
「ほぅ……」
「殺された人間の名前を言ってたわね。確か……」
「興味ねぇな。どーせ、思い出しゃしねぇよ……よう、俺だ」

 携帯電話を耳にあて、薄く笑ったその顔は、悪魔か人間か。
 早々に電話を切って初めて、彼はその足元に転がる女の死体を見た。

「……さて。こいつの処理の手配は済んだ……あんまり他人の部屋を汚すような真似するんじゃねぇ」
「自分の蒔いた種じゃないの、とんだ巻き添えだわ」
「腹は平気なのか。随分な目に遭わされたな」
「痛みはあるけど出血はそうでもないわ。自分で処置できるから、道具を貸して。いくらなんでも包帯と消毒液くらいあるでしょ」
「そこの引出だ。にしても、馬鹿な奴だぜ……憎いなら俺に直接手を下しゃあいいものを」
「憎んだ相手に関わる全てが憎い……いかにも頭の悪い人間の感情よね」

 言いながら、それでも、人間というのはそういうものなのかもしれないと思う。
 けれど口には出さない。出せない。
 それは、あまりにも私とは掛け離れているものだから。

「本当にこの女のこと、思い出さないの?殺した子供のこととか」
「ああ」
「自分が殺したくせに」
「殺したんなら忘れちまうさ」
「それは、忘れたいから?」

 彼は不意に私を抱き寄せ、口付けた。

「ちょっと……死体の処理がまだ……」
「来るまでにもう少し、時間はある」

 足元で、女が死んでいる。
 そのすぐ横で、男とキスをする私。
 赤い血が流れているなんて、到底信じられない。
 絶対に、信じられない。

「……あたしは怪我してるんだけど」

 血と肉と骨で出来た身体は、空洞のように虚しい。
 それとも、虚しいのは心?
 私の心は血なんて流さない。悪魔よりも凍りついた心。
 この化け物を、一度で仕留めなかった馬鹿な女。
 私は、当然のように転がっている死体を、恨めしくさえ思っていた。

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