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Sünder
男は固まってしまった。 開いた窓。風になびくカーテン。 表情一つ変えず、細い桟をしっかりと踏みしめ立っている女の子。 幼い顔立ちに似合わない聡明さが、まるで舞い降りた天使のような印象を与えている。 ふっ、とその姿が消えた。 天使は空へ飛び立ったのではない。窓の桟から飛び降りたのだ。 そのことを理解した瞬間、男の身体から血の気が引いた。 ここが3階だったこと、それから彼女の正体を、順番に思い出す。 慌てて窓から身を乗り出すと、ここから地面までの間に、ひとつの着地点があった。 幅30cm程度の塀だ。そこに彼女は難なく降り立ち、その向こう側に消えていった。 「……またあいつか!」 改めて、今自分がいる、そして先ほどまで彼女がいたであろう部屋を見回す。 実験中のラットのケージが見るも無残にひっくりかえり、おが屑やら何やらがあちこちに散乱していた。 当然、ラットは逃走。この部屋のどこかには居るのだろうが、そういう問題ではない。 こいうことは、もう珍しくもなんともなかった。 ある時は警報機に触れて施設全域を停電にしてみたり、ある時は薬品の並んだ棚に激突して片っ端から割ってみたり。 それでいて彼女自身には何の怪我もないのだから、関係者はほっとするような逆に憎々しいような、複雑な思いをするのだ。 しかも、彼女を現行犯で捕まえることは、今まで誰も成し遂げたことがない。 逃げ足が速いことや、6歳とは思えない頭の良さも理由の一つだが、一番の理由はその瞳だった。 純白と穢れの両方を混沌とさせた深い瞳で見つめられると、誰もが一瞬その一切の動きを封じられてしまう。 「あの子は天使か、それでなきゃ悪魔の子だよ」 皆が口をそろえて言う言葉だ。 ラボのトラブルメイカー宮野志保は、今日もその名を轟かせていた。 塀を越えると、一面の草原だった。 草原はずっと平坦なわけではなくて、だんだんと小高くなってゆき、最後は空と繋がっている。 志保は、空と平行に走った。走って走って、何かを追うわけでも、何かから追われるわけでもなく。 そしてそのまま、草の中に倒れこんだ。 温かい緑と、冷たい土の匂い。 名も知らぬ花が咲いている。 志保は色んなことを知っていたが、この小さな白い花の名前は知らなかった。 (お姉ちゃんなら、知ってるかも) ぼんやりと思う。 姉はいつだって大人で、たくさんのことを知っていて、でも知らなくていいことばっかりなのよと笑っていた。 (……今度はお姉ちゃんと一緒に来よう) 風が気持ちいい。 地面にうつぶせたまま、眼を閉じる。 空は見ない。空には、届かなくていい。 遠く、だけどいつもそこにあれば、それでいい。 いつの間にか、眠っていたらしかった。 「……寝てるのか?」 夢現に声を聞いた気がして、夢の中で答える。 そうよ。眠いの、放っておいて。 どこまで言葉になっていたのかは、判らない。 「おかしーぜ、寝てる奴が寝てるって返事するなんて。それって寝てないってことだろ」 生意気な口調。頭にくる。 眠いって言ってるのに、何なの? また私を叱りに来た誰かなの? 悪魔とか天使とか、言ってるの知ってるのよ。 だって、私は悪い子なんでしょう。 別に、なんだっていいの。 私がほんとは何だったか、なんて、忘れちゃったわ……。 「こんなところで何してんだよ?なぁってば!」 「……うるさい……」 身体を揺り動かされて、やっと志保は目を開く気になった。 まだ焦点の合わない視界で、それでも彼が自分を叱りに来るような誰かではないことは判る。 そこにあるのは、志保よりまだ少し子供の、男の子の姿だった。 「……なぁに?あなた……」 まだ陽が高い。 そう長いこと眠っていたわけではないことを知った。 「タンテイ」 ニカッと笑うその笑顔は、まるで今そこにある太陽のようだ。 「探偵?」 「そうさ!どんな事件もカイケツできる、名タンテイだぜ」 「バカね、あなたみたいな子供が名探偵なわけないじゃない」 「何言ってんだよ!今まさに犯人をツイセキ中なんだぞ?」 「犯人って?」 「オレの父さん!!」 親子で探偵ゴッコ。 そんな言葉が志保の頭に浮かんだ。 「父さんは捕まえても捕まえても、すぐにどっか逃げちゃうからな。えーと、シュクメイのライバルなんだ」 得意そうな彼の顔が、無性に志保のカンに障った。 「バッカみたい。じゃあさっさと探しに行きなさいよ」 「バカバカってうっせーよ!」 「あら、知らないのなら教えてあげるわ。探偵は宿命のライバルと、必ず最後の戦いをするのよ。ずっと追いかけっこしてるわけじゃないの」 「最後の戦い……?」 「その戦いの結末を知りたい?」 素直に息を呑む彼に、余計意地悪な気持ちになる。 志保は大人も黙らせるその瞳で彼の目を見据えると、声を低くして言った。 「結末は、死よ」 「シ?」 「死ぬのよ。どちらかが、それでなきゃ二人ともね」 「……それ知ってる。死ぬっていうのは、血が出たりして……動かなくなることだ」 「ええ、そう」 「それで、誰かが叫んだり、泣いたり……」 「笑う人もいるわ」 「それって、犯人のことか?」 間髪入れずに聞き返す。 自分より小さなこの子供が、志保の予想よりも死というものを理解していたことに、志保は少しだけ感心した。 「犯人は誰かを死なせて笑うけど、楽しくて笑ってるんじゃないんだ」 「へぇ?」 「悲しくならないように笑ってるんだ。絶対、そうなんだ」 自分で導き出した答えか、父親の受け売りか。 どちらにせよ、志保にとって面白くも無い答えであることは確かだ。 必死で訴える彼の態度に、志保の心のどこかが冷えていった。 「あのね、覚えておくことね。笑ってるのは犯人だけじゃないかもしれないってこと」 「………………」 「そしてその人はきっと、心から笑ってるのよ」 そう言って、自分も笑って見せる。 反対に、彼の瞳からは涙がこぼれていた。 「何故、泣くの?」 「……父さんが死んだら、嫌だ」 じっと地面を見つめて、歯を食いしばるようにして。 「バカね、あんなのただの例え話。あなたの父親は死んだりしないわ」 「でも……」 「くだらない空想で泣くなんて、ほんとにバカよ、あなたって」 例えば、誰かが死ぬのを想像してみたりする。 でも涙なんて出ない。悲しくもない。 生きていることと死んでいることの違いだって、はっきりと判らなくなる。 私って、何?……そんなことは、忘れてる。 「だって大好きなんだ、父さんのこと」 ただ、時々胸を掻きむしりたくなることは、ある。 怒りなのか虚しさなのか。それともこれが悲しみなのか。 判らなくて、いらいらしている。 それでもやっぱり涙は出なくて、それは普通じゃないってことも知っていた。 知っていても、どうにもならない。 「あなたって、転んだら泣いたりする?」 かみ合わない会話に、少年は変な顔をした。 涙はもう止まっていたが、その頬はまだ濡れている。 悲しいとか寂しいとか、判らなくても、痛みがあるなら泣くだろう。 それすら、自分には無いものなのだ。 「泣く時もあるし、泣かない時もあるよ」 「そう」 「でも、君が死んだりしたら、泣くだろーな」 当然のように言う。 その顔は真剣で、志保は何か言いかけたが、不意に遠くから聞こえた声に言葉を飲み込んだ。 誰か、名前を呼ぶような女の声。 その声をはっきり聞いた時、少年の表情が一変した。 「あっ、ヤッベ!行かなくっちゃ!」 「呼ばれてるの?」 「母さんだ……きっと父さん、見つかったんだな。母さんも名タンテイだからさ、負けちまったみてーだな」 また、あの笑顔。 見てはいけない。触れてはいけないものが、すぐそこまで来ているのを、志保は感じた。 「……早く行って」 「え?」 「いいから、早く行ってよ!」 強い口調に気圧されたのか、彼は少し間を置いてから、 「じゃあ、またな!」 と言って、空へ向かって丘を駆けた。 あのてっぺんを越えたところ、空の向こう側に、彼の世界がある。 志保には決して届かない、場所。 自分が何なのか、なんて、きっと考えることもない世界。 無性に、叫びたいような気持ちに駆られる。 でも、何て叫べばいいのか、判らなかった。 息が詰まって苦しいのに、吐き出す術がない。 「今度会ったら、君の父さんと母さんの話も聞かせてくれよな!」 その言葉に、志保は一瞬身体が熱くなるのを覚えた。 後は、自分が喋っているのか、自分の中の自分じゃない誰かが喋っているのか。 それさえ曖昧なまま、空との境目に立つ少年に向かって。 「嫌よ!」 「え?」 「絶対に嫌よ!もう会いたくなんかない!」 突然声を荒げた志保に、彼は少し戸惑ったようだった。 けれど、今の志保にそんなことを気にする余裕は、無い。 「皆、嫌いだわ!あたしがほんとは何なのか忘れるなんて!そんな人たち、大嫌いよ!!」 父親も母親も、何の意味も無い。傍に居ないのなら。 自分は一体何なのか。それを考えてしまうことが、どんなに孤独だったか。 いつも大勢の大人が志保を囲み、こぞって志保を独りにした。 そして、目の前の小さな彼は、そんな大人たちとは違う。 それを判ってしまったことが、志保を余計に拒絶へと導いていたのだ。 「知らないんなら教えてやるぜ!」 さっき志保が彼に言った言い回しを真似て、彼が笑った。 「君はオレとおんなじ!子供さ!」 その顔を、本当はいつかもう一度見たいのだと。 そんなことが、志保に言えるはずも無くて。 「またな!」 もう一度その言葉を残し、彼の姿は見えなくなった。 胸に爪を立てて、心臓を握り締めたい衝動は変わらない。 だから、志保は笑った。 彼の言葉を、思い出して。 泣けない犯罪者のように、笑った。 天使でも悪魔でもない、ただの子供は、子供として扱われていない。 周りからも、自分自身さえも。 同じ子供、である筈がない。 けれど、その答えも嫌いじゃない。 笑うこと、それが罰であり、たった一つの救いなら。 泣くことの出来なくなった罪人は、笑う。 草原に一人立ち、空の向こうを見つめながら。 決して行くことの出来ない世界。 それでいい。それだけで、いい。 いつまでも、そこにその世界が……自分とは違う、あの笑顔があるのなら。 |