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Jane

 時々、眩暈がする。

 飲み込まれそうで、何もかも、どうにもならない気がして。

 時々、言葉が意味を失う。

 そういう時は、不思議なほど安らいでいる。

 かつて言葉だったものの欠片たちに、ただ紛れていられるのだもの。

Doe



































 洗い立ての体操着。きちんと整理された教科書、ノート。
 何故だか心が乱されそうで、哀はそこから目を逸らせた。
 リビングから、博士の見ているテレビの音がこぼれている。
 近所迷惑になるから音量を下げなさい、といくら言っても、少し目を放した隙にすぐこれだ。
 後で言ってやろう、耳が遠くなったんじゃないのって。少々キツイかもしれないけど、仕方が無い。
 そんなことをぼんやりと考える。とても、日常的だ。
 でも、でも日常じゃない。日常じゃないのは――。

「おぉ、哀くん。風呂場の電気は消してくれたかね?」
「ちゃんと消したわよ。あたしが消し忘れたことなんて、今まであったかしら?」
「スマンスマン、つい聞くのが癖になってしまってのぉ……」

 夢を見ているみたいだと、未だに思うことがある。

「……寝るわ」

 帰る場所があって、学校へ行って、友達も居て、それから……。
 なんて、普通。表面だけ見れば、普通過ぎるくらい普通だ。
 でもそうじゃない。そうじゃないってことを、忘れる事はない。
 思い出す。目を、覚ましてしまった朝のように。その名を呼ばれるたびに。

「おやすみ、哀くん」
「……おやすみなさい。博士、テレビの音は下げなさいよ」

 その夜、哀は夢を見た。
 走って、走って、走っている、ただそれだけの夢。
 何かを振り払うように、走り続ける。
 でもそれは、決して払い落とすことなんか出来ない。
 捨てたいのに。要らないのに。
 あの時、捨てたはずなのに。
 来ないで。これ以上、愚かな生き物に成り下がりたくはない。
 思い出させないで。
 私の、私の本当の……。

「灰原?」
「!」

 ハッと視界が開けた。
 既に見慣れた教室。騒がしい生徒達。はっきりとした、現実の世界。
 昨夜はあまりよく眠れなかった。そのせいで、いつの間にかうたた寝していたらしい。

「おい、もうちょっと普通に起きれねーのか……んなに目ぇ見開いて、怖ぇだろ」

 コナンが哀の顔を見て、少し呆れたように言った。
 終わりの会、と称されたホームルーム。
 しかし小学一年生に重要な連絡事項があるわけでもなく、教室内はざわついている。

「厭な夢でも見たのかよ。ずいぶん魘されてたぜ」
「……まぁね」
「ほらよ」

 と、手渡されたA3ほどの大きさの用紙一枚。

「こないだのテスト。お前寝てたから、代わりに受け取ってやったんだ」
「あぁ……ありがと」
「灰原哀さん、100点満てーん。よく出来ました」

 おどけて笑顔を見せるコナン。
 釣られて、哀も少し笑った。つもりだったが、実際はちゃんと笑えていたかどうか。

「ねぇ、知ってた?」
「あん?」

 笑ったとしても、皮肉な笑みを浮かべる事しか出来ないでいただろう。

「あたし、本当は灰原哀じゃないのよ」
「……はぁ?」
「あたしの本当の名前はね……」
「………………」
「シェリーって言うの」

 一瞬、その表情が凍りつく。
 目に見えて判る彼の変化。
 そんなことで、いちいち胸を痛める必要は無い。
 慣れている。こういう顔をされることには。
 信じるものに裏切られた、驚愕と悲恨の表情。
 だからこんなことで、いちいち胸を痛める必要は無いはずだ。

「フ……冗談よ。そんな顔しちゃって」
「なっ……お前なぁ……!」

 たった一瞬だけ見せたその顔は、すぐにいつもの、いや、少し怒っている時の表情に変わった。
 どうやら、少々本気で怒らせてしまったらしい。
 それはそうだろう、色々な事情があって今でこそ仲間である彼女だが、過去は変えられない。
 冗談にしては、過ぎていた。それは、哀も判っていた。

「……新しい名前、なんて」
「あん?」

 でも、叶うことならばと願ってしまうのは。

「付けるんじゃなかった」

 きっと、愚かなのだろう。
















































 くしゃっ、と乾いた音を立てて、紙がつぶれた。
 いつもならちゃんと指定のファイルに挟んで、棚にしまうところ。
 別段、大切に保管しておかなくてはならないわけではないのだが、一度ついたクセというのはなかなか直せない。
 返ってきた答案をファイルする……膨大な資料を扱っていた哀にとって、それはほとんど無意識のうちに習慣づいた行動だった。
 しかし、今日は駄目だ。

(ひどい夢を見たからだわ……二度も)

 だから、あんなことを言ってしまったのだ。
 だから自分の名の書かれた答案用紙すら、直視することが出来ないのだ。
 哀は、つい数十分前にコナンから手渡された100点満点の答案用紙を握りつぶして、ゴミ箱に投げ入れた。
 紙くずは、ゴミ箱の縁に当たってカーペットに落ちた。

「哀くーん!」

 その時だ。博士が、リビングから哀を呼ぶ声。
 しかし、いつもなら自然に返す返事が、今はできない。
 息が、詰まっているようだった。

「哀くん?聞こえとらんのかのー!?」

 咄嗟に耳を塞ぐ。
 それでも聞こえてくるその声に、目もぎゅっと閉じる。
 奥歯を、噛み締める。
 何度か呼ぶ声は続いたが、博士はとりあえず諦めたのか、暫くして静かになった。

(……私、馬鹿みたい)

 博士がこっちまで呼びに来なくて、本当に良かったわ。
 哀は額に手を当て、安堵の息を漏らした。
 ふと、窓に自分の姿が映っているのを見つける。
 怯えた眼。血の滲みそうなほどに歯型のついた唇。震え、縮こまった身体。
 自分のこんな状態を博士が見たら、間違いなくびっくりするだろう。

(宮野……志保)

 窓ガラスに映る少女。
 明らかに、小学生の眼ではない。
 その暗い瞳が、妙に恨めしそうに、見えた。
 まるで、あの日、あの時のことを責めるかのように。

「志保……!」

 思わず、口に出して呟く。

「どうしてそんな眼で見るの?どうしてあなたが、あたしにそんな眼を向けられるの?」

 問いかけても、返事はない。

「あたしはあなたが嫌いだったのよ……!」

 暗い瞳、でも綺麗な瞳。
 私はどんどん穢れていくのに、あなたは綺麗なまま。
 そう仕向けたのは自分だったはずなのに、それで守られるはずだったのに。

「だから……嫌いだったから……!」

 だから、あの時、殺したの。
 小さく吐き捨てるように言った時、部屋のドアが開いた。

「ここに居たのか哀くん。新一くんが来とるんじゃがな」

 そこには博士と、コナンが立っていた。

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