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 博士が行ってしまって、部屋には哀とコナン、二人だけになった。
 ふと、コナンの足元に転がっていた紙くずが目に止まる。
 さっき、丸め潰してしまったテストの答案だ。

「名前、気になんのか」

 少し、驚いた。
 見透かすように言われても、冷静でいられた自分に。

「何故?」
「今日のおまえ、変だったからな。見てりゃ判るぜ」

 さすがは名探偵さん。と、心の中で皮肉る。

「オレだってよ、最初のうちは思ったもんだぜ。オレは江戸川コナンなんて名じゃねぇ!って……もどかしかったよ」
「………………」
「騙してるみてーだったし……自分にもウソついてるみてーだった……」

 何故だろう、どこか冷め切った心。
 嘘なら、もうたくさん吐いてきた。今更、どうってこともない。
 そもそも、偽りのない自分、なんてものは最初からあったのだろうか。
 判らない。

「でも、アイツら見てっとさ……いつか、いつか何もかもホントのこと話しても、きっと変わらずオレの名前呼ぶんだろうなって思えるんだよ。そう思うとさ、江戸川コナンも捨てたもんじゃないよなって……」
「あなたって……」

 堪えきれずに、哀が口を挟んだ。

「結構、神経太いタイプなのね」
「あん?」
「勘違いしないでくれる?名探偵さんは、私の苦悩を見抜いてフォローでもしに来たつもりなんでしょうけど?はっきり言って迷惑だわ」

 そんな、真っ直ぐな理由なんて、無い。
 優しい言葉なんて、掛けられるほどに辛い。
 ただ、そうしなければ守れなかっただけのこと。

「あたしは自分の本当の名前なんて呼んで欲しくもないし、灰原哀って名前も不愉快なのよ」

 心も言葉も冷め切っているのに、胸の奥だけが痛むように熱かった。
 悟られてはいけない。騙さなくちゃ、自分を。

「あたしはシェリーよ、言ったでしょ。それ以外のあたしなんて、要らないのよ。この意味が判る?冗談であんなこと、言うと思う?」
「……知ってるぜ、お前の名前」
「え?」

 騙さなくちゃ、目を瞑れない。

「宮野志保だろ」

 なのに彼がそう口にした瞬間、すべて弾けてしまった。
 愕然と、する。
 あまりにも脆い、心に。

「やめて……」

 でも、どうしようもないのだ。
 他の誰かならまだしも、彼に呼ばれてしまっては。

「どうして……?」
「前に……聞いたんだ、お前がそう呼ばれてるのを……それに」
「どうしてその名前を呼ぶのよ!?」

 志保。
 少し語尾の上がる、姉の呼び方。
 今でも、思い出せる。姉の声。実物と少しも違わずに。

「もう居ないの……居ないのよ!あたしを、そう呼ぶ人は居ないの!……居てはいけないのに……!!」

 宮野志保。
 穢れのない、ただの少女。
 志保。
 守られる、あなた。
 私は疵付いていくのに。
 綺麗なままの、あなた。
 私は穢れていくばかりなのに。
 それでも、それだから、あなたを守ってあげると決めた。
 私は別のものになって、すっかり別のものになって、私の中の宮野志保は死んだ。
 はずだった。

「灰原哀なんて名前も、あってはいけなかった……。思い……出してしまうから……」

 それなのに、その名を呼ばれるたびに、違う、と思ってしまう。
 それは私の名前じゃない。私の名前は。
 叫びたくなる。
 私は哀じゃない、灰原哀じゃない。
 それを、思い出させないで。

「何が、いけねーんだ」
「え……」
「お前はお前だろ」

 向けられた、貫くような眼。
 怒りに似ている。でも違う。

「それを思い出して、何が悪いんだよ」
「わ、判ったようなこと言わないでくれるかしら!?」
「あぁ、判んねーな!判らねーよ、でもなぁ!」

 怒りよりもどこか、優しくて悲しい。

「お前が自分を嫌うのは勝手だけどな!そうやって自分を否定するってことは、今までお前を大事に思ってくれた人すべてを否定することになるんだぞ!?」

 優しく笑う姉の姿が、脳裏によぎった。
 たくさんの人の顔が次々と浮かんでは消えてゆく。
 ただ一人、消えないのは。

「あなたには……判らないわよ。判らなくて当然よ……」

 がっくりと肩を落として、哀はつぶやいた。
 さっき取り乱した時の激昂は、影も無い。

「あたしには、宮野志保として生きることはもう出来なかった。あの日……姉が死んだと知った時、あたしは宮野志保を殺した。あたしはもう、宮野志保じゃないのよ」

 何も言えず、コナンは押し黙った。
 哀の口を、今すぐこの手で塞いでやりたい。ただ、そんな衝動に駆られた。

「皮肉なものだわ……いや、残酷なのかもしれないわね、運命ってヤツは。それで終わりになるはずだったのに、こうやってあたしに第三の生活を与え、ご丁寧に灰原哀なんて名前までくれちゃって……結局、あたしはあたしを赦せないまま、誰からも赦されることなく、生きていくしかないんだものね」

 哀は、コナンの方を見ずに、呟いた。

「帰って……くれる?」


















































 どのくらい、時間が経ったのだろう。
 彼が部屋を出て行って、ひとりになってから。
 博士が様子を見に来る気配はない。
 だからきっと、そんなに長い時間ではない。
 もしかすると、数分と経っていないのかも。
 でも、どうしてだろう。
 もう随分と長い間、ひとりぼっちだった気がするのは。

「お姉ちゃん……」

 走って、走って、振り払いたかったもの。
 それは何?死者は夢を見るの?
 思い出す、ということ。

「志、保……」

 なぁに?
 誰かの声が、答えたような気がした。
 遠い昔に失くしたような。
 いつも傍で聴いていたような。
 気のせいかも、しれなかった。

「あなたは……いいな……。お姉ちゃんに……大事に想われてた」

 二人だけの、きょうだいだったもの。

「でも、お姉ちゃんを殺したのも、あなた」

 そう。
 それで憎んだの。
 宮野志保は、自身を憎んだ。
 知ってるわ。

「あなたを……憎しみから……背負う罪から守りたかった……お姉ちゃんの、たった一人の妹のあなたを……どうすれば守れるのか、必死だった……」

 穢れるのは私だけで、いい。
 姉を死に追いやり、その罪を赦すことも、赦されることもなく。
 少しだけ生きて、後はただ死ねばいい。
 だけどあなたは間違いを犯した。

「あたしはどう足掻いたって“あたし”なんだ、ってことさえも、忘れてた……。宮野志保を殺すことなんて、あたしが生きている限りは出来ないことだったんだわ……」

 甘すぎた考え。
 罪から逃れようだなんて、綺麗事並べて。
 でも、結局、苦しかった。
 だからいつも、苦しかったのでしょう?

「だからすべてを否定……したかったんだわ……」

 
自分を否定するってことは、今までお前を大事に思ってくれた人すべてを否定すること。
 コナンの言葉を、哀は頭の中で反芻する。
 誰からも愛されなかった、なんて言えるわけがない。
 なのに、それさえも見なかったことにしようとしていた。
 気付かなかったわけではない。
 気付かないふりばかり、していた。


「ごめん……ごめんね……、ごめんなさい……!」

 答える声はなかった。
 哀は、夢中で表へと飛び出していった。

















































「!」

 門を出てすぐ、人影が目に入る。
 勢いをつけて飛び出した哀は、少し前にのめった。
 危うく、見過ごして走り去るところだ。

「工藤君!」
「よぉ」
「……どれくらい、居たの?」
「さぁな」

 ぶっきらぼうな言葉は、照れ隠しのようにも聞こえた。

「さっきは……怒鳴っちまって悪かったな」
「あ、あたしこそ……」
「………………」
「あ……あの、あたし……謝ろうと思っ」
「あのさ」

 コナンは、しばらく言葉を選ぶように口をつぐんでいたが、哀の眼を捕らえると、

「自分の名前を捨ててまで生きてきたお前の……捨てなくちゃならなかったお前の気持ちなんて、オレが判るはずねーよ」

 意を決したように、強い口調で話し出した。
 けれど、決して押し付けるような言い方ではなくて。

「けど、灰原哀でも、宮野志保でも……お前はお前だろ?お前のことを心から好きで、その名前を呼んでるヤツが、何人も居るだろ?お前の姉さんがお前に志保って呼びかけるのと、そいつらがお前に灰原って呼びかけるのと、どう違うってんだ?」

 ハッとして哀は、コナンを見つめ返す。
 そうだ。いつの間に、こんなにもたくさんの人が私の周りに居たのだろう。
 博士、歩美、光彦や元太……姉の笑顔。それから……。
 そしてただ一人、消えないのは。

「本当の名前、今はまだ呼んでやれねぇ……でも」

 たった一人、彼が消えないで残るのは、きっと今、目の前に本人が居るせいだ。
 それに、ただの自惚れに違いない。

「辛そうな顔して、本当の名前、なんて……あんなこと、もう言うなよ」

 名前なんて、ただの記号。
 だけど、そうじゃない。
 名前が何であろうと、自分は自分。
 それ以外のものにはなれない。
 だけど、まるで意味のないものでもない。

「オメーの名前は、そんなんじゃないだろ?」

 名前なんて、私の何を表せるわけでもないのに、どうしてこんなにもいとおしい。

「あっ……」

 声が詰まった。
 咽喉が痛くて、眼の奥が熱くて、何も言えない。
 でも言わなくちゃ。

「あたしの……本当の……名前は……」

 震える声は、怖いからじゃない。
 もう、怖くない。向き合わなくちゃ、いけない。

「宮野志保なの」
「……知ってるよ!」

 にっこりと笑う。
 嬉しそうに、少年の顔で。
 自分の名前が、少し愛しく思えた。
 ――泣くな、バカ。
 今、そう言ったのは、誰だった?
 優しい声で、少し呆れたように。

「泣いてなんか、ないわ。……バカ」

 コナンが、ちょっと不思議そうな顔で、また微笑った。

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