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 そこにあるのは、闇だった。
 
 自分の存在すら、確認できないほどの闇。
 
 そんな中に彼女は居た。
 
 感じるのは、恐怖。
 
 以前から漠然と感じていたもの。
 
 今となっては、それは形を造り、器を持ち、こんなにもはっきりと彼女を侵している。
 
 恐怖は蠢いていた。小さな、ミクロンの単位ほど小さな芋虫のように、ひとつひとつが。
 
 集まって液体のようになったそれらが、彼女の皮膚の上を舐めるように這いずり回っている。
 
 叫ぼうと開いた口の中へ流れ込み、悲鳴を餌にする。
 
 凄まじい吐気と息苦しさで見開かれた瞳の裏に、ノイズのごとく映像が浮かんだ。
 
 死体。一目でそれと判るものが、足の踏み場も無いほどに転がっている。
 
 その全てが、見覚えのある顔で。それらは皆、意志を持てぬ人形になっていた。
 
 何の罪も無い清らかな人形達。鮮血はやがて黒に染まり、彼女の視界には再び闇が広がった。
 
 一瞬たりとも蠢きを止めない、闇が、恐怖が。

(ウソよ!!止めて!!止めてよおおおおおっ!!!)

 口を開く事も叶わず、彼女は頭の中で必死に喚いた。




《自分勝手よね……》




 聞き覚えのある声が響いた。




《死んでいれば良かったなんて言いながら、結局は生きているんじゃない……》




 醒めた声。自嘲気味なそれは、彼女もよく知っているような気がした。

(うるさい!!言わないで!!お願いだから――――――!!)

 子供のように泣いて、彼女は懇願した。しかし声は冷たく言い放つ。




《あなたが殺したも同然よ》




 彼女の思考が止まった。




《あなたが殺したんだわ……彼らを》




 虫は蠢きを止めず、尚も無抵抗な彼女の躰を舐め回している。




《大切な、人達を》




 彼女は、もう否定すらしなかった。頭が真っ白になって闇に溶けそうだった。

 声は繰り返す。彼女を殺めるように。彼女を狂わせるように。罪を償えとばかりに。




《殺すのよ》




 その瞬間、彼女は理解した。その声の主が、自分自身であることを。

 自分の存在すら、確認できないほどの闇。

 そんな中で彼女は見た気がした。

 潰れた己の肢体を。









「ああああっ!!」

 自分の叫び声にハッとして、哀は身体を起こした。大きく息をつく。
 声に驚いてというより、やっと声が出た、呼吸ができたという開放感と安堵で、哀は何度も繰り返し肩で息をした。
 暖かいベッド。安らぐ眠りの闇。其れと取って代わろうとする朝の光。全てが優しかった。
  こんな自分にさえ。
 
 ――あたし
どうして此処に居るの?

 こんな空間に、あたしなんかが居ちゃいけない。いつか壊してしまうんだわ……この手で全てを。
 そう思っても、成す術は何も無い。哀は、隣のベッドで寝ている博士のほうに眼をやってつぶやいた。

「もう……壊しちゃってるわね」

 そして私自身も――……もう、壊れてる。
 乾いた声で、哀は笑った。久しぶりに声をあげて、笑った。
 居場所なんて無い。
 全部、捨てた?
 自分から。

《あなたが殺したんだわ》

 薄暗い夜明けの部屋で、哀は笑い続けていた。

 

+赤い月