夕陽が横殴りに照りつける。暑い。志保は丘の上への道を急いだ。
 今日は会う約束の日ではない。けれどなんだか、胸騒ぎがする。彼が呼んでいる。そんな気がした。
 息を切らしながら、ようやく木の根元まで辿り着く。彼はそこに居た。

「……あ、来てくれたんだ……」
「………………」

 なんだよ、幽霊でも見たような顔しやがって。彼がふざけたように言う。
 なのに答えることが出来ない。足が動かない。信じられなかった。

「どうして……」
「どうでも……いいじゃねーか……」
「早く救急車を……」

 腹部を押おさえている右手が赤く染まっている。
 途切れ途切れになる言葉が、彼の怪我が決して軽傷ではないという事を物語っていた。

「要らない……どうせ死ぬつもりだったんだから……」

 ああ。
 心の中で、溜息をつく。
 またしても目の前の出来事に、逆らう事は出来なかった。
 志保は彼の方へ歩み寄る。
 ああ、これでまたひとつ。
 息も絶え絶えだった彼が、不意にはっきりと言った。

「それより、あんたと一緒に居たい」









「横に、なる……?」
「……ああ」

 志保はそれまで彼に傍らに付いていたが、少し身体の向きを変えると彼の頭を膝にのせた。
 彼の顔を覗き込むと、彼は微笑っていた。

「……あんた、いつも……寂しそうな顔してさ……」
「え?」
「最初に逢った時だって……泣いてるみたいだった……」
「………………」
「そんな顔……するなよ……」

 冷たい風が頬をなでる。

「大丈夫だろ……おれなんかいなくたって、あんたなら……」
「ばか、そんなこと……」
「判ってる、でも……大丈夫だって、言ってくれよ……」

 その言葉で、彼の想いを知る。
 彼も辛いのだ。
 あれほどまでに自然な事だと思っていた、死が。
 ひとりになることが、ひとりにさせることが、辛いのだ。

「ごめん……なさい」
「……謝ることなんか、無い」

 想えば想うほどに。

「どうしてあたし達、疵付けあう事しかできないのかしら」
「それは違う……おれはあんたに逢って、生きようと思えた……嬉しかった」

 もう一度、確かめるように繰り返す。 

「……嬉しかったよ……」
「……あたしも……」

 答える声が、掠れていた。
 幸せになれないからといって、出逢った事が間違いだったなどと誰が言える?
 暫しの沈黙ののち、彼が思い出したように言った。

「おれが死んだら……警察を呼んで欲しい……証拠のMDを残してある……隠滅されちまう前に……」
「………………」

 やめて。心の中で、叫ぶ。
 届かない、祈り。
 もう、あまり時間がない。
 そんなことは判っていた。

「……心残りだな……」
「何が……?」

 悪戯っぽく笑って見せるその顔。
 既にもう聴き慣れた、声。
 全てが愛おしい。繋ぎとめておきたい。
 どこにも行かせたくない。
 せっかく出逢えたのに。
        .....
「あんたとしなかった事……」
「……ばか……」

 志保は顔を赤らめて、少年にそっと口付けた。
 乾いた唇。

「これくらいなら、してあげられるわよ」
「とか言って、自分がしたかったんだろ……」
「思いあがりね」

 そう言って、二人は笑った。こんな風に笑えるのは、二人で居るときだけだった。志保も、きっと彼も。
 ……だけど。

「ねぇ」
「……ん?」
「……ありがとう……」

 あの日、声をかけてくれて。
 世界を見せてくれて。
 私を、大切に想ってくれて。

「……好きよ」

 志保は眼を閉じた。だけど、さいごなのだ。ずっとこのままなら良いのに。ずっとずっと、このままなら。
 どれくらい経っただろう。志保は瞼を開いた。眠っていたのかもしれないし、そうでなかったのかもしれない。

「……ねぇ」

 再び、呼びかけてみる。そして初めて、彼の名前を知らないことに気が付いた。彼も志保の名を知らない。でも、そんな事はどうでも良かった。だって、彼は二度と眼を開けないのだから。
 涙が伝って、少年の頬に落ちた。

「……死なないでよ……」

 あふれる。
 涙が。どうにもならない気持ちが。

「いやよ……約束、したじゃない……どこか……行こうって……二人で……」

 どんなに抱き締めたって。
 大切な人ばかり。失いたくないものばかり。この手からすり抜けていくのは、いつも。
 だからいつのまにか、信じることすら怖くなってた。

 私はどこへ行けばいいのよ。
 ひとりだけで、約束の場所へなんて行けない。
 行けっこない。
 本当はひとりじゃ、居られないのに。
 どうすればいいのよ……。

『あんたならもっと、綺麗なとこへ行ける』

 あんたならもっと、綺麗なとこへ行ける。
 彼の言ったこと。
 私が信じたこと。
 信じさせてくれた。

 志保は顔を上げると、おもむろに携帯を取り出した。それから少し考えて、彼のポケットを探る。すぐにそれらしき物が指先に触れた。それを掴んで取り出す。思った通り、彼の携帯電話だ。

「腹部を刺された男性が倒れています。既に息はありません。場所は……」

 必要事項だけを伝えると、志保はすぐに通話終了ボタンを押した。
 犯人については触れなかった。彼の血の繋がらない父親だということは判りきっていたが、それは志保のやるべき事ではないということも判っていたから。後は彼が、直接手を下すのだ。
 冷たくなりはじめた彼の頬に、そっと触れてみた。
 そのまま指を滑らせていく。
 ついさっき口付けた、唇。
 もう開くことのない、瞼。
 まだ。
 まだ離れたくない。
 じきにパトカーのサイレン音が聞こえるだろう。
 それまでは。

 また、ひとりぼっちだわ。
 私も。あなたも。

 真っ暗。何も見えない闇の中で、見えるはずのない何かが見えた。
 互いに、疑いを含んだ視線を交わして。
 それでもいつのまにか、それは柔らかい眼差しに変わっていたのに。
 遠くで、微かに音が聞こえたような気がした。
 時間だ。
 志保はそっと立ち上がった。

 忘れない。
 木の上から見下ろした世界。
 二人だけの場所へ行こうと言ってくれたこと。
 光を、信じさせてくれたことを。

 涙はあふれるままに、拭わなかった。

「……忘れないから……」

 空には、たくさんの星が輝いている。繰り返される誕生と死。果敢無い光。
 風が吹いて、神の木の、木の葉が飛んだ。
 それは彼の身体にふりそそぐ。
 志保の手のひらに届く。
 そこには橋が掛かるだろう。
 彼の瞳のように輝くアークが。
 そしてそれは、いつの日かきっと素晴らしい世界へと繋がっているのだ。

 END