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「おれさ。弟がいたんだ」 空は昨日とはうってかわった曇り空だった。まるで、白い紙に水を滲ませ、その上から灰色の絵の具を落としたみたいだ。二人は、木の根元で寄り添うように座り、空を見ていた。そのやや薄い灰色は、ちょうど志保の部屋の絨毯の色によく似ていたのだが、彼はそんな事は知る由も無かった。 今日こそ学校へ行かなきゃならない。そう頭では思うのに、何故か足がここへ向いてしまった。最初は多少の後ろめたさがあったが、今はそれも無い。 何故なら、彼が自分のことを話そうとしたからだ。 彼のことを知りたかった。なんでもいい。タンジョウビやケツエキガタのようなパーソナル・データではなくて、彼が今まで歩んできた道とか、彼の感じ方。そういうことを聞きたかった。なんでもいいから。 「でも、死んじまった。何でなんだろう、母親も……突然だった。通り魔にやられたんだ……なぁ、何でなんだろうな」 暫らく沈黙が続いて、彼が問いかけの答えを待っている事に気付く。でも、何を言えばいいのか判らない。月並みな言葉を言うのは違うような気がして、志保は、私には答えられない、とだけ言った。 「弟は賢いヤツだったよ。おれみたいな兄貴でも慕ってくれた……血は、半分しか繋がってなかったけど。母親は……少なからずおれを疎ましく思ってただろうな、そんな態度は見せなかったけどね。判るもんだよ」 彼は続ける。まるで、志保ではない他の誰か……そう、もう一人の自分、自分の分身にでも語りかけるように。 母親の前の男はさ。つまりおれの本当の父親ってやつか。そいつは、おれがこんな病気だと知って、どっか行っちまった。もともと、いい加減なヤツだったんだろうな。母親とは籍も入れてなかった。きっと初めから結婚する気はなかったんだろ。おれのことなんか、子供まで産ませちまった女からどうやって逃げるか考えてるとこにいい逃げ道が出来たってぐらい?顔すら知らねーし、別にどうでもいいけどさ。 んで、母親は今の男と結婚した。最初のうちはおれのことも可愛がってくれてたけど、母親と自分との子供が出来たらあからさまに態度変えて。きっと、母親にもおれのこと色々言ってたんじゃないかな、ある事ない事。……もう誰も、おれを好きだとは言ってくれなかった。 そこまで言うと、彼は次の言葉を選んでいるように、少しばかり黙りこんだ。 「……でも、弟だけは、おれを大切だと言った」 言いながら、僅かに眼を細める。それは、大切な人を本当に大切に想う眼差し。 「確か、あんたには姉さんがいるんだろ?」 問われて、志保は今度は自分の番なのだということを悟った。 知りたい。 彼の瞳がそう言っている。志保が彼の事を知りたいと思ったように、彼もまた同じ事を志保に望んでいるのだ。 「姉は……あたしの一番の理解者だった。肉親とか、そんな先入観は無いの。あたしは両親の顔さえ知らなくて、家族ってどんなものなのか未だに判らないから」 ぽつりぽつりと話していく。うまく順序立ててなんて、話せない。 そんな簡単には、全ては話せない。 「ただ、姉はいつも優しかった……明るくて、よくあたしを励ましてくれた。叱る所はちゃんと叱ってくれて……ああ、あたしこの人に愛されてるんだなぁ、って素直に思ってたわ」 そうだ。姉は志保の全てだった。姉であると同時に、友達でも母親でもあった。 ふと、他愛無い疑問が頭をよぎる。 姉にとって、自分はどういう存在だったのだろう? 「そっか。あんたにもいるんだ、すごく大切な人。きっと姉さんも、あんたの事、同じように大切なんだろうな」 言われて、志保は彼の顔を見た。まるで、心の中を見透かされたようで。 「……なんだよ、変な顔して」 「失礼ね、もともとこんな顔よ」 答えはこんなにも簡単な事だった。 だって、彼女はいつだって笑いかけてくれた。 あの笑顔に嘘はなかった。 だから自分も笑っていられたのだ。 あの笑顔を片時も忘れる事無くいたから、今までやってこれたのだ。 そう、引き離されてからも。 「けど……そうよ、あたし達は引き離された」 「え?」 彼が怪訝そうに眉をひそめた。 「……どうして?」 「あたし達は……ある組織に身を置いているの。彼らには逆らえない」 心臓の鼓動が早くなる。危険信号だ。 何故、こんな事を口外にしているのだろう。もし万が一組織の人間にばれたら、ただじゃ済まないというのに。 なんとか取り繕わなければと思っているうちに、彼が口を開いた。 「……よく判らない。けど、そいつらは悪い奴らなんだね」 「え?」 一瞬、判らなくなる。 悪い? 今まで、そういう風に考えた事は無かった。 悪い。自分にとっての害悪。組織が?たったひとつの居場所が? だとしたら、私はどこへ行けばいいのだろう……? 私の居るべき所はどこなのだろう。 色々な問いが、浮かんでは消えていく。 「悪い奴ら……なのかしら」 「そうだよ。だってあんたとあんたの姉さんを引き裂いたんだろ。ずっと支え合って、一緒に生きてきた者同士を」 愛し合う者同士を引き裂いた。それはとても罪深き事だと、彼は言う。そんな彼の瞳はとても美しく澄んでいて、志保は少しばかりの畏れすら感じた。 「おれは両親に家を出ろと言われた。以後弟と接触する事を許さないと」 「嫌だと、言わなかったの?」 「言えなかった。あんたと同じさ。逆らえなかった。逆らうより、流される方が楽だと知っていたから」 同じなのね。志保が呟く。 逆らうな。自分の身が可愛いなら、従え。何も考えたくなければ、従え。組み込まれた、そんな命令文。 「結局、その矢先に弟と母親が死んじまって、うやむやになったけどね」 ホントウのキモチなんて。 本当の言葉なんて。 「つい、3日前なんだ。死んだの」 ねぇ結局、誰にも、伝わらないじゃないの。―――だから伝えない。 「母親の旦那がおかしくなっててさ。今にもおれを殺す勢いだったから」 大切な人を失うこと。 否定。 絶望。 虚無。 自棄。 辛いのは自分だけじゃない事も、判らず。 だって、じゃなきゃ、自分が壊れる。 既に自分が壊れている事すら、判らず。 「なんかもう、面倒臭くなって。うざいなって思って。んじゃ、おれも死のうって思った」 思い詰めるでもなく、ただ単純に、生きることをやめようと。 ほんのちょっとの楽しみがなくなることくらい、別になんでもない。 楽しみはつまり娯楽で、彼にとってはさして大切なものでもなかったから。 この世界に、用は無いね―――。 「そんで、どうやって死のうかなぁなんて考えてたら、あんたに逢ったんだ」 そう言って、照れたように笑う。 自分と同じ匂い。 壊れつつある存在。 悟りきった諦念。 感じる。繋がる。ぼくだけの信号を、きみは受け取ってくれた。 「あたし……今、居る所があたしの居場所だと……思ってたわ、ずっと」 志保が、思い出したように言った。 「もしかしたら、違うのかもしれない」 「違うさ。あんたならもっと、綺麗なとこへ行ける」 「何故、そう思うの?」 「おれの直感」 それは信用性があるわね、と言って、二人で笑う。 「なぁ」 「何?」 「おれは、もうするべき事も無くて、生きてたってしょーがねぇから死んでもいいやって思ってたけど……」 続きを、彼は言わなかった。 「……なぁ」 「何よ?」 志保を見つめる碧い眼が、真剣な光を帯びている。 とても美しく、澄んだ瞳。 志保はもう、臆することはなかった。 彼が言う。 「どっか、行かねぇか?」 「どこへ?」 「どこか、素晴らしい世界。ここじゃないところ。おれ達だけで」 まるで夢のような話。 でも、何がいけないというの? 私だって、こうやって産まれて生きているんだ。 夢ぐらい見たって。 素晴らしい世界。 それは手を伸ばせば届きそうにさえ思えた。 「……いいわよ」 「最近、行動が不審だぜ」 忠告してやる、というような口ぶり。 志保は寝返りを打って、そう?とだけ言った。 「みんな言ってる」 「みんなって、誰と誰?」 「……みんなはみんなだよ。上の奴らさ」 面倒臭そうに煙草に手を伸ばそうとする男を、志保が睨みつけた。 「やめてって、言ってるでしょう」 男の機嫌が目に見えて悪くなったのが判る。なんて判りやすい男なのだろう。 こんな男でも、アイデンティティーの確立には必要だなんて。 「ま、妙な気は起こさないこった」 「妙な気って例えば、ここから逃げ出すとか?」 驚いたように顔を上げる男を尻目に、志保はユニットのバスルームのドアを開けた。 コックをひねると同時に、シャワーが冷水を吐き出す。熱くなったり冷たくなったり数回繰り返したのち、水温は丁度良い温度を保った。彼の言葉が、自発的に蘇ってくる。 『どっか、行かねぇか?』 返事をした後も、志保はずっと考えていた。 ここではない、どこかへ。 二人だけで。 果たして、そんな事が可能だろうか? 「おれとあんたは似てる」 昨日、夕陽が落ちる頃に彼が言った。 「あんたと目が合ったとき、繋がったってカンジがした」 おれの身体の中に電流が流れて、あんたと繋がったんだ。 そう彼は言う。 じゃあ、アークが出来るわね。 「アーク?」 2つの電極を近づけて電流を流したとき、2極間に出来る弓形の光の橋。電弧のことよ。 志保の答えに、彼は満足げに微笑んだ。 それなら、やっぱり繋がったんだ。と。 彼と私は似ている。 誰にも愛されない。誰かから愛される自信なんて無い。 誰も愛さない。 寂しい。 ……寂しい。 本当は、誰かのぬくもりの中で眠りたいのに。 二人は似ている。 だから惹かれあった。橋が掛かった。 でも。 冷たくなった身体がふたつ寄り添ったって、溶け合えはしないのだ。 (そんなこと、判ってるわ) 判っているけど。 素晴らしい世界へ、綺麗な所へ行けるのなら、二人だけでここから逃げ出そう。 |