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「碧い眼をしてるのね」
「うん」
「何故?」
「そういう病気」

 暖かい陽射し。静かなそよ風。さっきまでの気怠い気分が嘘のようだ。ここは彼のお気に入りの場所らしい。志保のマンションからそう離れてもいないが、初めて来る所だった。
 何故、自分はこんなところに居るのだろう。授業はとっくに始まっている時間だ。本当なら、今頃は教室で教科書を開き、お世辞にも利口とは言えない教師の話を聞いているのに。彼は別段悲しむふうでも無く、続ける。

「おれの眼は、じき見えなくなる。ありがたい事だよ。もうこの世界を見なくて済むからね」
「そう……でも綺麗な瞳だと思うわ、とても」

 それは素直な感想だった。

「面白いね、君」 

 面白い?志保は口の中で繰り返した。そんな事を言われたのは初めてだ。

「病気は眼だけじゃない」

 彼は自分の胸に手をあてて言った。

「……何が?」
「だって、変だと思ったろ?」 
「そんな事……」
「判るよ。最初におれを見たときの、君の眼で」

 言われて、志保は言葉に詰まる。そう。あの違和感。しかしすぐに理解した。志保だってそういう病気がある事くらいは知っていたので、敢えて何も訊くまいと思っていたのだ。だから彼の方から問われると、何て返答すれば良いのか判らなかった。

「そうね。全く気にもとめなかったなんて言ったら嘘になるわ。でも少し訂正させてもらえるかしら」
「ん?」
「変、だなんて思わなかった」

 どう伝えるのが最善なのだろう。それははかり兼ねた。すこし緊張しながら、彼の顔を見る。彼は、微笑っていた。

「訊こうとは思わなかったの?」
「別に。身体なんて、何に置いてもあまり意味を持たないもの」
「眼の事は訊くのに?」
「美しいものは好きだわ」

 言ってから、その言葉に自分でも驚く。
 ――美しいものは好きだわ。
 綺麗なもの。美しいもの。そういうものが、私は好きだったのだろうか?

「でも身体は無意味でもないんじゃない。身体がなきゃエッチも出来ないぜ」
「そういうの、あまり興味無いから」
「何だ、処女?」
「いえ違うけど」 

 なんだか話が変な方向へそれてるわ、と思いながら志保は足元の花を千切った。

「やっぱあんた、おもしれーや」

 二人称が、「君」から「あんた」に変わっている。志保は何となく嬉しくなって、彼と一緒に微笑った。

「なぁ、あんた、もっと笑ってよ。笑った方が断然いい女だよ」

 顔が赤くなるのが自分でも判る。今まで容姿を褒められたことが無いわけではなかったが、こんな下品な褒め方をされるのは初めてだった。けれど不思議だ。どんな美辞麗句を並べられるより、よっぽど気持ちがいい。

「俺さぁ、どうしてもやってみたい事があるんだ」
「なに?」
「でっけー木があるんだよ。トトロに出てくるみたいな。って言ったら大袈裟かな。とにかく、すげぇ高くてでかい木。あれに登る」

 そう話す彼の顔は、生命力に満ち溢れている様だ。現に志保は、最期の思い出が欲しいと言われたことなど忘れかけていた。しかし、碧い瞳に時折灯る死の匂いは、まるで文字列のシグナルか何かの様に、志保の脳へと響き共鳴する。いくら気付かないふりをしようとても、それを敏感に感じ取ってしまうのは、彼が自分と同じ種類の人間だからだろうか。

「じゃあ、登りに行きましょうよ」

 彼はいくらか驚いたらしく、一瞬ポカンとした顔で志保を見た。

「……何、呆けてるの?」
「だって。木に登るなんてバカらしい事、絶対笑われると思ったのに」
「やりたいなら、やればいいのよ。やりたい事が出来ないのは普通だけど、やりたい事をしないのは、不自然な事だわ」
「……だな。そりゃそーだ。よし、じゃ、おれ行ってくるよ。付き合ってくれてありがと」
「ひとりで行くつもり?」
「どうして?」
「あたしも木に登ってみたくなったわ」
「……やっぱり面白い奴」

 いつもはこんな風じゃないのだけど。志保は頭の中で云った。









「この木」

 やや小高くなった丘の上。彼が「トトロに出てくる木」と比喩したのも判る程、それは大きく、ずっしりと地面に根を下ろしていた。まるで、ここから地上の全てを見守り、監視している神のようだ。

「何の木かしら。もう葉もあまり無いわね」
「ああ……春に見せたかった。すごく綺麗な花が咲いてたんだ。すごくすごく綺麗だった」

 彼は過去形で話す。志保はその事については何も問わず、そうでしょうね、とだけ言った。

「……これ、登れるの?」

 幹の上の方に行けば、太い枝が所々突き出し、足場を作っているのだが、その最初の一本に辿り着くまでがなかなか大変そうだ。

「おれがあんたを肩車するから、先に枝に乗って。そっからおれを引き上げてくれればいい」
「出来るかしら……」
「大丈夫、出来るさ」

 彼の、根拠の無い、しかしはっきりとした口調で言った言葉に、志保はちょっと微笑って、幹の根元から真上を見上げた。
 大丈夫。出来るような気がする。
 志保は振り返り、少年の方を向いて言った。

「……毛虫はいない?」









「そっち、そう、そこに足を掛けて」
「きゃあっ」
「大丈夫だって、ほら、落ちないだろ」
「ねぇ……もうこの辺で良いんじゃない……?」
「なんだよ、怖いの?」
「ち、違うわよ、これ以上は枝が細くなってるから危ないって言ってるのよ」
「ホントだ。じゃ、そこに座って待ってて」
「………………え、ちょっと待って。二人も乗って大丈夫かしら」
「平気平気。あ、動かなくていいって、おれが前に行くから」

 騒ぎながらもようやく天辺に近い所まで来ると、二人は腰を下ろした。

「うわ――――……」
「すごい……」

 思わず、同時に歓声を上げる。そこからは、街が一望できた。

「ちっぽけだよな。おれ達の世界なんて」
「……これが、見たかったんでしょう」

 ふいに、志保が言う。

「木に登りたいんじゃなくて、この世界を見たかったのね」
「……そうだよ」

 彼は前を向いた。どこか遠く、この街のもっとずっと先を見つめるように。

「こんなところ、おれは嫌いさ。大嫌いさ。役に立たねーもんばっか詰め込まれたクソ野郎ばっか。つくづく腐りきった世界だ。でもおれは見ておきたかった。この眼で見ておきたかったんだ。幸せな奴らと、幸せじゃない奴ら。光と闇。この汚い世界の全てをおれの眼や、脳みそや、身体に、刻み付けてやりたかったんだよ」

 風がすこし強い。彼が枝を握る手に力を込め、志保は彼の細い腰をぎゅっと掴んだ。

「また、会える?」
「なんでそんな事訊くんだよ」
「会いたいと、想ったから」
「おれの事、好きになったの?」
「……まさか」

 ちょっと微笑って、彼は歌を口ずさみ始めた。よく透る、綺麗な声。

「その歌、知ってるわ」
「WHAT A FRIEND……讃美歌だったかな」
「あまり好きじゃないけれど……宗教は、嫌いなの」
「おれも。神とか、ふざけんなって感じ」
「でも、昔、お姉ちゃんが歌ってくれた歌だった」

 神だなんてそんなもの、本当は無いんだって、ずっと前から知っている。確かなものはひとつも無い。自分すら不可解な存在。何一つ知る事無く、何一つ知ろうともしないで、ただ与えられた時間を耐えるしか術を持たなかった。

「神様っつーのがホントに居たら、おれも死なずに済んだかもな」

 また、過去形だ。でも、やっぱり志保は何も言わなかった。気にならなかった。それは、すごく自然な事の様に思えたから。
 彼が言った。

「ねぇ、また会える?」
「……あたしの事、好きになったの?」
「うん、好きになった」

 悪戯っぽい笑顔。

「明日の朝、またここに来る」

 別れ際、彼はそう言い残して、一度だけ振り返って手を振った。