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 躊躇って、躊躇って、やっと声を掛けた。
 振り向いた彼は、もう大人で、少年ではなくて、判っていたことなのに、何故か胸が痛い。

「今までどこに居たんだよ……!?オレがどんなに……」
「どこ、って言われても……適当に、ね」
「……とにかく、ここじゃ暑いから……どっか行こう」
「じゃ、希望してもいいかしら?」

 小学校に行きたいわ。帝丹小。
 彼は呆れたような顔で、そう言う私を見た。

「……あのな、灰原」
「何?」
「それじゃ暑いのは変わんねーだろうが」

 その口調が昔のまんまだったので、思わず笑ってしまう。
 およそ子供らしくもない振る舞いばかりする私を、いつも呆れ顔で諭していたっけ。

「何笑ってんだよ?」
「ちょっとね……灰原って呼ばれるのも、懐かしいなと思って」
「あ、そっか、もう灰原って呼ぶ必要ねーもんな、えーっと、宮野?」

 思いがけず呼ばれて、少し驚いた。

「覚えて……たの?」
「あん?宮野志保だろ?」

 姉や父の名前は出しても、私から自分の名前を言ったことはなかったのに。
 小さなことでも見落とさない、聞き漏らさない、探偵である彼の注意力。
 そう、それだけのことだ。
 いちいち期待する必要なんて、ない。
 自分に言い聞かせたのは私自身なのに、何故か胸の鼓動が痛かった。

「……いいわよ、灰原で。あなたにとってのあたしは、ずっと灰原哀だったんだもの」

 そう。最初から最後まで、ずぅっと。
 彼にとっての私は、灰原哀というちっぽけなガラスの人形みたいなもの。
 小さい頃、夢中で集めてたガラス細工みたいな。
 大人になれば忘れる。時が経てば思い出。
 それで終わらせなくてはいけない。
 そんなこと、判ってる。
 何か言わなくちゃ、と思って私は口を開いた。
 何でもないふりをしなくちゃ。

「……でも、そうね、今のあたしって、一体誰なのかしらね」
「え?」
「宮野志保もシェリーも……灰原哀も、もう居ない……」
「四番目の、新しい自分だな」

 そう言って、笑う。
 彼の笑顔だ。
 見たくてたまらなかった、彼の。
 あの頃と変わらない、少年のままの笑顔。

「いーじゃねーか、おまえはおまえだよ」

 どうしてそんなこと、言うのだろう。
 いつもいつも、優しくて。
 胸が、いっぱいに、なる。
 何だか泣きそうになっていることに気付いて、私はうつむいた。
 少しの、沈黙。

「でも、良かった……」
「え?」
「生きてたんだな」
「当たり前よ、勝手に殺さないでちょうだい」
「けど何で突然……?」
「……言いたいことが、あったの」

 ただ一言。
 素直に言えずに、後悔していた。
 今まで、数え切れないくらい後悔ばかりしてきて、たった一つ、諦められなかった。
 好きとか、恋とか、そんなものに置き換えてしまうことも出来なくて、ただ、嬉しかっただけなのに。
 私を私として見てくれる人が居たこと。それが、嬉しかっただけ。
 なのに、どうしても言えなくて。罪悪感も、消えなくて。
 いっそこの場所から、自分自身消えてしまえば、何もかも道連れに出来ると思った。
 道連れにして、消してしまえると。
 でも、それでも、募るばかりの想い。
 こうして再び彼の元へ足が赴いてしまうほど、諦められないこと。
 ただ一言、言いたかったのは。

「ありが……とう」
「え?」
「あなた、ずっと傍に居てくれた。だから、ありがとう」
「あっ……いや……こ、こちらこそ……?いやっ、あの……!」
「……あなたも、元気そうで良かった。彼女とも、うまくやってるんでしょう?」
「ん……まぁ……」

 あれっ、と思った。
 てっきり、照れ笑いでも浮かべながら肯定するものだとばかり思っていたのに、何だか曖昧な態度だ。

「何、喧嘩でも……」

 したの?と聞けなくなるくらい、そんな冗談で茶化せないくらい、真剣な彼の瞳。
 それに捕えられた瞬間、私は、耳を塞いでうずくまりたい衝動に駆られた。
 でも私の眼は、私の意志とは逆に、続きを促すかのように彼の顔をじっと見つめて動かなかい。

「……あ、あのさ、灰原」
「え?」

 聞いては駄目。
 その続きを、聞いてはいけない。
 心なんて、脆いものなのだから。それは私が一番よく知っている。
 甘くとろけるクリーム・ブリュレの、芳ばしい表面。
 スプーンでつつくと、すぐに壊れる。
 心なんて、そんなものなのだから。

「オレ……」

 彼の言葉の続きは、突然の甲高い声に遮られてしまった。

「あっ、新一兄ちゃん!!」
「!おお、オメーら」

 数人の少年。どうやら、彼の知り合いのようだ。
 まだ小学生くらいだろう、いかにも夏の太陽の下を駆け回っていそうな浅黒い肌が、子供らしい。
 歩きながらいつの間にか小学校に着いてたようで、見ると校庭にはサッカーに興じる生徒達の笑顔がこぼれていた。

「今日はサッカー教えてくれる日じゃないよ、なんでここにいるの?」
「いーじゃん、来たんならゲームしようぜ!」
「おい駄目だって、ホラこの人、兄ちゃんのカノジョだ」
「あ、判った、デートだ!デートしに来たんだろ〜」
「そっかぁ、デートしてんじゃ一緒にゲームは出来ねーな!」

 デート。私は思わず、目を丸くする。
 そんな風に見えるのね。
 この、陽射しが強いけれども穏やかな午後。
 こんな平和な、ごく普通の風景に、私は溶け込めているのだろうか。
 少年たちはひやかしながら、ラインの消えかけたサッカーコートに戻っていった。

「サッカー、教えてあげてきたら?」
「え?でも……」
「いいわよ、久しぶりにあなたのサッカー小僧ぶりも見たいし。ポケットの中のもの、預かっといてあげるわ」
「まぁ、おまえがそー言うなら」

 そう言って笑う目の前の彼は、もう、小僧なんて呼べる歳ではない。
 判っていた。

「ホラ、早くしないと試合、始まってしまうわよ」
「……なぁ……何でおまえ……」
「え?」
「居なくなっちまったんだよ」
「………………」
「オレはさぁ……オメーを赦してなんか、いねぇ」
「……当然よ」
「だって関係なかったんだ、そんなこと」
「え?」

 言われたことが、うまく理解できない。

「オレはただ……おまえのことが」

 ピーッという、高い笛の音が遮る。試合開始の合図だ。
 それじゃ、ちょっとだけ、と言って走っていく彼の後姿を、哀は微笑みながら見つめていた。
 たった今まで誰かが乗っていたのだろうか、まだ微かな揺れを残したブランコのひとつに腰掛ける。
 真夏の校庭。
 幼い頃から人と関わることが苦手で、皆でサッカーをして泥んこになるなんて、考えられなかった。
 でも、彼はそれを教えてくれた。
 ―――私は、あの灰原哀であった日々に、かつて得られなかった大切なものを、たくさん手に入れたのだ。
 哀は今、校庭を走り回りぶつかり合う彼らと、あの日の自分とを重ねて見ていた。歩美、元太、光彦。そして自分と、コナンであった彼。
 遠く離れていても、再びこの場所を見たとき、心に思い出すことは皆同じ。
 絆は、決して断たれたりなどしない。

「試合終了――っ!!」

 肩で息をしながら、ゲームを終えた新一は、ブランコを振り返った。
 そこには、既に哀の姿は無かった。









 夢を、見ていた。
 灰原が、帰ってくる夢。
 なぜかオレはコナンのままで、あいつも灰原哀のままだった。
 そして二人は誓い合う。
 もう、二度と離れることは無いと。
 けれど、これは夢だ。
 判っていた。
 だんだん思い出してくる。
 オレは元の身体に戻った。
 灰原は……そう、大人の姿ではなかった。
 けれど、それでも、帰ってきた。
 あいつは確かに帰ってきたのに……。
 いまは、もう、このうでをすりぬけて……。

「新一?」

 またどこかへ……。

「ねぇ起きてよ、新一!?」

 ……誰だ?
 灰原……じゃない。この声は……。

「……蘭?」

 目を開けると、心配そうに覗き込む蘭の顔があった。
 何でここに蘭が居るのだろう。
 いや、そもそもここはどこだっけ……。

「サッカー部の男の子達が知らせに来てくれたのよ、新一が倒れたって……」

 ああ。そうだ。サッカー。ここは小学校の校庭か。でもなんだってオレは寝転がっているのだ。

「……オレ、寝てたのか……」
「はぁ?こんなところで寝てたっていうの?もう、心配させないでよ!」

 オレは「寝てたのか?」と自問したつもりだったが、蘭には肯定に聞こえたらしい。
 いつまでたっても子供なんだから、と怒りながらも、その表情には明らかに安堵が見て取れる。
 ごめんごめん、と謝りながらも、オレの意識はまだ半分夢の中にあった。
 そう、あの夢。
 灰原が帰ってきて、オレに笑いかける。
 灰原が……。

「皆には心配ないって言って帰したけど……まったく、わたしだって四六時中傍に居られるわけじゃないんだから、自己管理ぐらいしてよね!」
「ん、あぁ……」
「試合直後に倒れたって言うし、どうせ日射病か何かでしょ!危ないのよ、脱水症状とか……新一?」
「……まただ」
「え?」

 あの時、言ってやれなかった、言葉。
 何かを求めようとして、でも掴めないでいるような小さな手。
 あの手を、無理にでも繋いでいたら。

「また……言えなかった」

 ひとりにしちまったなんて……。

「何?夢の話……?」
「二回とも……チャンスはあったのに、オレは……」

 そこまで言うと、声が詰まった。
 まるでノドが潰れたように、言葉が出てこない。
 代わりに、嗚咽がこぼれた。
 自分が泣いているなどとは思いたくもなかったが、薄く開けた左目に映る地面は、海のように震えていた。

「し、新一?ちょっと……!?」

 オレは馬鹿だ。
 どうしようもない、大馬鹿野郎だ。
 大切なものを、二度も守ることが出来なかったなんて。
 それで今、めそめそ泣いているなんて。
 守れなくて、当然だ。

「と、とにかく、お水か何か持ってくるから」
 
 ふと、携帯電話が眼に入った。オレの携帯。何故ポケットから出ているのだろう。メールの受信ランプが光っている。
 ああそうだ。あいつに預けたんだ。あいつに……預けてた。
 そんな事を考えながら、電話を手に取る。熱い。
 でもこの熱さは、長時間日光に晒されていたからだ。誰かの体温じゃない。
 あいつの、体温じゃない。
 なのに、その熱さが、どうしようもなく愛おしいのは。
 その理由は……。

「……大丈夫よ」

 蘭が振り返った。

「よく、判らないけど……二回あったことなら、三度目のチャンスもきっとあるよ」

 その笑顔に、安堵する。
 根拠の無い彼女の言葉は、何故かあっさりと信じることが出来た。

「だから、大丈夫。ね?」

 三度目はきっとある。
 あいつはちゃんと帰ってきた。
 距離なら埋めればいい。
 振り返ればいつも、二人、眼を合わせていたのだから。
 たとえ叫んでも届かないけれど、心で想えば伝わる気がして、オレは空を仰いだ。

 今度会えたら、必ず言うよ。

 太陽が眩しく輝く空は、どこまでも、どこまでも青かった。
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