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「何度目の夏なんだろうな」

 口に出したつもりはなかったのだが、どうやら知らぬ間に言ってしまったらしい。

「え?」
「や、何でもねーよ」

 蘭が不思議そうな眼でオレを見た。

「月日が経つのは早いもんだなーって思ってただけさ」
「なぁに?しみじみしちゃって」
「おめーこそ、そんな呑気にしてていいのかよ。就職、難しーんじゃねーの?」
「まぁね……何たって少子化だから……教員の空きって、なかなか出来ないし」
「おいおい……」
「なーんて、とりあえず決まってるんだ。産休の先生の代理なんだけどね!」

 本当に、月日の経つのは早いものだ。オレは高校生探偵として再び返り咲き、前々から子供好きだった蘭は教師を目指し始めた。江戸川コナンだったことや、隣に灰原が居たこと。すべて昨日のことのようなのに、現実のオレは、学生という立場から社会人に変わろうとしている。
 あの夜。灰原が残していった解毒剤を、オレはどうするべきか悩んだ。そして、飲むことにしたのだ。あいつが本当にそれを望んでいるかどうかなんて、判らない。でも、これはあいつの意思なのだ。大体、悩むなんておかしなことだった。オレはずっと、待ち望んでいたはずじゃないか。元の身体に戻る。オレと……そしてあいつと。けれどあいつはもう居ない。そのことが、こんなにもオレを掻き乱すなんて。
 元の身体に戻るのは、思ったほど苦痛を伴わなかった。

「新一は探偵事務所開くんでしょ?」
「ああ。ていうか、したくないっつっても周りが納得しねーだろ」
「あーあ、自惚れちゃって。すぐ調子に乗るんだからぁ」

 昔っからそこだけは変わんないわねー、と言って笑う。
 そう言う本人の、周囲の空気を一瞬にして明るくするようなその笑顔も、昔から変わることなく輝いていた。

「でもま、新一なら絶対成功するよね、うん!」

 この眩しいほどの笑顔は、一体どこから来るのだろう。そう思って、新一も笑った。
 蘭は、恋人というわけではなかった。付かず離れず、というのか。それでもずっと一緒に居たのだ。というより、もう恋人以上に想っていたのかもしれない。オレが新一に戻り、コナンの帰りを待つ蘭の前に姿を現した時、彼女は泣き崩れた。もうどこにも行かないで、と何度も言っていた。だからオレは答えた。ずっと傍に居るよ、と。
 でも、オレは思い知ったのだ。ずっと傍に居るよ。そう口に出した瞬間、思い知ってしまった。本当に言うべきだった相手は、あいつだったということ。あいつに言ってやれなかった、あいつをひとりにさせてしまった、自分を。
 けれど、あれから既に、四年もの年月が経っていた。

「そういえばさぁ……トロピカルランド、行ってないよね」
「え?だってそれは……」
「うん、でももう平気。久しぶりに行きたいかも」

 また新一がどこかへ行っちゃいそうな気がする。
 そう言って、あの遊園地に行くことを、蘭はずっと拒んでいた。
 四年という月日は、長いのか短いのか。
 しかし確実に、彼女の疵は癒えつつあるのだ。
 なのに……それなのに、オレは。









「ノド渇いちゃった!何か買ってくるね!」

 そう言って、蘭は走っていった。
 ここ数年来ていなかったとはいえ、何となくどこに何があるのかは憶えているのだろう。
 近くに自販機は見当たらないし、この分じゃ暫くは待ちぼうけかな。オレは手近なベンチに腰を下ろした。

「……久しぶりだな」

 懐かしい。蘭と同じように新一も、長いことこの遊園地には来ていなかった。色々な事を、思い出すから。
 と、不意に走ってきた子供が、目の前で転んだ。さっきまでの笑顔が消えて、今にも泣き出しそうだ。

「平気か?」

 反射的に手を差し伸べてやる。

「ありがと、お兄ちゃん」

 満面の笑みに、はっとした。
 無邪気な少女。
 あいつも、こんな風に笑っていただろうか。
 その笑顔が思い出せない。
 自分は一体何度、彼女の笑顔を見たのだろう。
 あいつは一体何度、オレに笑顔を見せてくれたのだろう。
 何故オレは、この眼に焼き付けておかなかった?

「じゃあね」

 その声で、我に返った。
 少女は不思議そうにオレの顔色を窺いながらも、踵を返そうとしている。
 ばいばい、と手を振るその姿が、何故だかあいつに重なった。

「もう転ぶなよ」

 少女が駆けて行ったのと、蘭が戻ってきたのとは、ほとんど入れ違いだった。

「何?今の子と喋ってたの?」
「あ、ああ……転んだから助けてやったんだ」
「そう……あ、ねぇ新一、観覧車乗ろうよ!」

 観覧車。そういえば、あいつとも乗ったことがあった。
 あの時は歩美や元太や光彦がいて、皆でわいわい騒いで。
 揺らしては駄目、と咎めたのは、あいつだった。
 少し怒ってるような口調。でも顔を見ればすぐに判ったんだ。
 ゴンドラが揺れるのが、怖かったんだ、あいつ。
 気付いてしまうと、もう可愛くて、3人が降りた後に続いて降りようとするあいつの腕を、思わず引っ張ってしまった。
 ちょっと強く引きすぎたもんだから、反動でこっちに倒れこんでしまって。
 あまりにも突然の出来事に、慌てふためきながらとにかくゴンドラの扉を閉めた係員の顔、おかしかったよな。
 あいつ、真面目だからちょっと本気入って怒ってたな。何考えてんのよ、って。
 でも。もう一周だけ、いいだろ。
 そう言ったら、赤い顔して、バカって言ってくれたっけ。

「すごーい、今日はいい天気だからホラ、景色が綺麗だねぇ」
「おい蘭、あれあれ、お前ん家!」
「え!?見えるの、どれどれ!?」
「バーロ、見えるわきゃねーだろ?ま、あの辺にあるのは確かだけどな」
「なっ……ちょっと新一ぃ……!」

 蘭と居ると、落ち着く。
 それは昔から変わらない。
 こんな他愛もないやりとりが、どんなにオレを救ってきたか。
 でも、どうして。
 どうして見るもの全てが、あいつへと繋がっていくのだろう。
 そして心が乱される。
 何気ない日常に埋もれていたいのに。
 ふと、ゴンドラの窓から下を見下ろした。
 とても高い。高い……。
 あの日の場面が、フラッシュバックする。

「蘭……悪い」
「え?何?」
「オレ……帰らなきゃ」
「ええ!?来たばっかりだよ?まだお昼も食べてないのに……」
「ホントに悪いけど……思い出しちまったんだ」
「何よ?また事件?いいわよ、もう」
「ごめん……」
「……なぁんてね!怒ってなんかないよ!何年付き合ってると思ってんの?慣れっこよ」

 そう言った蘭の顔は、笑っていた。でも、どこか寂しげなのは判った。
 判ったのに、オレは観覧車を降りると足早に出口に向かい、蘭とは別れてしまった。
 なんて勝手なんだろうと思う。けれど、そんな自分に腹も立たない。
 脳裏によみがえる記憶が、オレの感情の一切を取り払ってしまっていたのだ。

(あの夜……病室で……)

 開けっ放しの窓。
 オレはそこから下を見下ろした。
 吸い込まれそうな闇と、コンクリートの地面。
 本当に、他には何も見えなかったか。
 例えば赤い、鮮血、とか?
 あの夜、灰原は本当にどこかへ行ってしまったのだろうか。
 もしかすると、そんなものはオレの作り上げた妄想で、本当は、本当は……。
 駄目だ。
 思考回路がまともじゃない。
 灰原は姿を消しただけだ。
 それは確かなのだ。
 博士だってその場に居て、それを知っている。
 何だってこんなことを思いつく?
 限界だ。

「………………」

 ふと呼ばれたような、気がした。
 ああ、そうだ、この道は。
 オレが前を歩いて。
 後ろに灰原が居て。
 そう、振り返ればいつだってそこに居て。
 不思議な眼をしていた。
 目が合ったら、壊れてしまいそうな脆い視線。
 でも、実際は壊れるなんてことはなくて。
 ただ深い海の底みたいに、オレを見つめ返すだけだった。

「……工藤……君」

 また、呼ばれたような気がした。
 もし今、後ろを振り返ったら、またあいつに逢えるだろうか。
 逢いたい……見るだけでもいい。
 それだけでいいのに、それさえも叶わない。
 後ろには、誰も居ない。何も無い。絶望以外の、何も。
 何も無い、はず、だった。

「………………おまえ」

 ふわりと肩の上で揺れる、茶色い髪。
 色の薄い瞳。
 いつも、何か言いたげだった唇。
 本当は伸ばして掴み取りたいものがあるのに、かたく握り締めていた、その手。
 曖昧な笑みを浮かべて、彼女は呟いた。

「……来ちゃった……」

 幾分背が伸びたとはいえ、明らかに自分とは比べられないその身長。
 彼女が元の身体に戻っていないことは、一目瞭然だった。
 何故だろう。あんなに願っていたのに。いつか彼女が帰ってくることを、夢現に彼女の幻ばかり見て。
 なのに、今、こんなにも彼女が遠い。
 身体の差が、そのまま二人の距離のようだ。
 やっと、逢えたというのに。

「灰、原……」

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