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 コナンは足を止めた。
 「灰原哀」――ここだ。
 組織の壊滅……およそ実感がなく、それでも事実なのだと自分に言い聞かせる。
 組織は壊滅したのだ。数え切れぬほどの犯罪に、日本中、いや世界中が揺らいだ。とは言っても、その実態のすべてが明るみに出たわけではない。何故なら、上層部の人間は誰一人として逮捕されなかったからだ。彼らは、その最大の研究のデータと共に、全員爆死したのである。組織との心中、だった。
 コナンはもう一度、病室のプレートを見た。確かに、灰原哀、と書かれている。彼女は、コナンを庇って撃たれたのだった。自ら命を絶ったのは上層部だけで、下の方の人間は逮捕された者が多いのだが、その時、悪足掻きを試みたのか、単に錯乱状態に陥ったのか、コナンに向けて引き金を引いた奴がいたのだ。あっと思った次の瞬間には、弾丸は哀の腹部を喰い破り、威力を失って床に落ちていた。
『バカね……ちゃんと避けなさいよ』
 そう呟いて倒れ込んだ哀を見た時には、まったく生きた心地がしなかったが、何はともあれ、これが最期の言葉にならなくて良かった、と心底安堵を覚える。弾は寸でのところで急所を逸れていたのだ。
 コナンは病室のドアに手をかけた。今日は哀が意識を取り戻して初めて、面会を許された日なのである。

「……よぉ」
「随分なご挨拶ね」
「元気そうだな」
「これが元気に見えるって言うの、あなたは」

 哀は呆れたように溜め息を吐いたが、それがいつもの口調だったので、コナンはほっとした。

「まったく呑気ね。もしかしたら、今頃あなたの足が無かったかもしれないっていうのに」
「それはオメーもだろ」
「………………」
「悪かった……オレの所為でこんな目に遭わせちまって」
「……どうして」
「え?」
「どうして謝る必要があるのよ」
「どうして、って……」
「あたしの罪は……償っても償いきれないのよ」
「灰原……」
「組織が消えても、罪は消えない……皆死んだのに、あたしは生きている……」
「……灰原、奴らはもう居ない。組織は完全に潰れた。もう、怯えることは何もねーんだ」
「そう……皆、死んだのだものね……みんなっ……」

 突然、哀が呻いて体を折った。

「は、灰原?痛むのか……?」
「……あたしなんか」
「おい……」
「あたしなんか死ねば良かったのに……」

 痛みに顔を歪め、肩で息をしながら尚も喋り続ける。
 自分で自分を追い詰めるように。

「死んだって償いきれないんだもの」
「灰原……」
「赦してもらおうなんて、思ってないわ……」
「え?」
「あなたを庇ったのは、罪滅ぼしでも何でもない。ただ、あたしが死なせたくないと勝手に願っただけ……」

 その為なら、自分なんてどうなったっていい。
 生きて、幸せになって。あなただけは。
 少しでも、赦して欲しいなんて、思ったわけじゃない。

「だから、あなたは謝らなくていい……赦さなくていいのよ、あたしを」
「そんな……」
「あたしなんか……!あのまま死んでしまえば良かった……!」

 また傷が痛んだ。
 これだけじゃない。
 至るところにある、弾痕。
 私の罪の証。
 愚かにも生きてきた、私の罪の歴史。
 こんな身体、消えてなくなってしまえばいい。
 魂ごと、消え去ってしまえばいい。
 哀は押し殺すように泣いた。
 あの、夏の夜。初めて涙を見せた時のように。









 ――――――結局、最後に見たあいつの顔は、泣き顔だった。
 泣いている顔は嫌いじゃない。そういう彼女も好きだった。
 けれど。
 今でもはっきりと思い出せる。
 博士からの電話。
 空っぽの病室。
 開けっ放しの窓からそよぐ風が、妙に気持ちよかった。
 退院を目前に控えて、あいつは姿を消した。
 高を括っていた。
 振り返れば、いつものようにあいつはそこに居ると。
 言いたいことは、たくさんあったのに。
 見舞いに行っても、気まずさからろくに顔も合わせず。
 それでも、ずっとそこに居るものだとばかり、思っていた。
 あいつは、あんなに必死だったのに。

「これ……哀君が新一君に『明日渡すように』と、昨日……」

 それは一通の封筒。
 開けてみても、手紙らしきものは見当たらなかった。
 代わりに転がり出てきた、一粒のカプセル。
 完成した、解毒剤だった。
 
『あたしなんか、死んでしまえば良かった』

 オレは最後の最後まで、泣かせてしまったのだ。
 ただの一度も、笑わせてやれなかった。

『赦してもらおうなんて』

 罪とか償いとか、本当はもうどうでも良かった。
 だってあいつは、憎むにはあまりにも小さすぎる存在で。
 冷血な殺人鬼でも何でもない、ただ、生きていくには寂しすぎた、ひとりぼっちの人間だったのだ。
 果たして、彼女の罪なんて、本当にあったのだろうか。

「バーロォ……どうなるんだよ……」

 おまえが居なくなったら、オレはどうなるんだよ。
 心の中で呟いてみても、たとえ咽喉が枯れるほど叫んだとしても、届きはしない。
 もう、声さえ届かないほど、ふたりは離れてしまったのだ。

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