どうして
どうしてもっと早く気が付かなかったのだろう
キミはいつだってひとりで泣き叫んでいたのに
e n d o r p h i n
「出来たわよ、解毒剤」
それが、哀がコナンに発した第一声だった。
「……なに、ボーッとしてるの?もう少し喜ぶかと思ったわ」
「え?あ、いや……すっげ嬉しーよ!!サンキューなっ」
「そう。それじゃ、あたし向こうに居るから……」
「あん?」
「……向こうに居るって言ってるのよ。それとも何?心細いのかしら?」
だったら別に居てあげても構わないわよ、とのたまう哀に、コナンは慌ててかぶりを振った。
ドアが素っ気無い音を立てて閉まったのを確認して、改めて自分の掌に眼をやると、小さなカプセルがコロンと転がった。今日は、哀に話があると言われてやって来ただけである。
(あいつの事だから、もっと勿体付けるだろーと思ってたのにな)
余りにも呆気無く、まだ実感が湧かない。コナンは、暫らく掌の上のカプセルを見つめていた。
が、やがてそれを口元へと近付けて――――――。
待ちわびた時である。
夕焼け色のその部屋を、妙な虚しさが占めていった……。
哀は地下室に居た。
外界から遮断されているようなこの場所が、哀は好きだった。
心が安らぐ、という訳では無いのだが、ここに居ると、まるで世界中に自分ひとりしか存在しないような気になるのだ。
けれど、それも今は意味が無かった。息をするのも辛い。重力に従った身体が、常にどこかに触れているという事にすら苦痛を感じる。
(何処かへ行っちゃいたい……)
“工藤新一”の姿なんて、見たくなかった。
哀は元の身体に戻る気なんて毛頭無かったし、組織を潰そうなどと闘志に燃えている訳でも無かった。
哀が組織に対して抱くのは、恐怖とかなしみであって、怒りや恨みでは無い。それに、あんな最悪な所だが、それでも家族を、帰りを待っている人を持つ人間が大勢居た。哀は、いっそこのまま二人、身を潜めて静かに暮らしていけたらとさえ想っていたのである。
なのに、彼は其れを望みはしなかった……。
「哀君?どーしたんじゃ……お、おい何処へ……」
突然リビングに駆けあがって来た哀に面食らって、博士が声をあげる。
しかし、哀はまるで耳に入っていないかのように、そのまま玄関へと走って行った。
. . .
部屋で立ち尽くしていたコナンが、ふと顔を上げた。
「な……んで……」
解毒剤は、もう手中に無い。
「灰……原……」
「新一君!」
博士だった。顔に「当惑」の二文字がくっきり浮かんでいる。
「どうしたんじゃ?哀君と一体何をしておったんじゃ……何か喧嘩でも?」
「……え?喧嘩?」
「あ、いや…哀君が急に表へ飛び出して行ってしまったもんじゃから……違うのか」
「表へ……?」
「ああ……お、おい新一君!?」
コナンは弾かれたように部屋を飛び出した。
夕陽が水面に跳ねていた。そっと手を触れると、光が歪んだ。
息が乱れているのが判る。少し走っただけなのに、もうトシかな、などと口の中で冗談を呟いてみる。
「綺麗……川が、真っ赤」
今は、声を出すだけで疵付くことができた。
「……馬鹿みたい……」
哀は、スカートの裾を濡らさぬよう少したくし上げて、水の中へ足を進めた。
膝まで浸かったところで立ち止まる。
「……まるで、血の川ね……」
こうしていると、脚の先から、自分も赤く染まっていくのではないかと思えてくる。
(洗い清めて欲しいなんて思わない)
頭の中に浮かんだ、鮮血にまみれた姿は、自分に良く似合っている気がした。
(私を染めて。もう戻せないくらいに滲み込んで……)
涙がこぼれそうになる。まだ泣けるなんて、と思いながら堪える。
(お姉ちゃん……逢いたい……逢いたいよ……)
空を見上げると、鳥が飛んで行くのが視界の端に映った。あの鳥にさえ、帰るところがあるというのに。
冷たくなりかけた夕暮れの風が、哀の瞳を撫でて乾かした。
(やっぱり私、ひとりだった……もうホントにひとりになってた……誤魔化してたけど、結局このザマね……。私…やっぱりダメみたい……ひとりじゃダメなの……ひとりにしないで……)
「灰原……灰原!!」
一瞬、幻聴かと思った。
「おい、灰原だろ!?」
「……工藤君……」
コナンが、川原の側の道路を挟んだ向こう側で、立ち往生している。こちらに来ようとするが、車が引切り無しに行き来してそれを邪魔していた。
「バーロォ!!何してやがんだよ!!」
「えっ?」
「まったオメー、どうせ殺されるならぁ〜とか考えてんのかよ!!ったく!!」
「ああ……」
「あのなー、んな事するぐらいだったら殺されたほーがまだマシだって、いい加減判れよな!!」
「その意見がただ……」
「ああ!?何だって!?聞こえねー!」
「……その意見が正しいかどうかは置いといて!工藤君!」
哀がスカートの裾を摘んだ手を、軽く上下させて見せた。
「これから自殺する人が、服が濡れる事を気にしたりしないと思うけど!?」
「……へ?……なっ、なんだよ……!紛らわし――!!」
自分の早とちりに気付いたのか、コナンはバツの悪そうな、ホッとしたような顔をした。
「ねぇ、あなた、その身体……」
「あん!?」
「その身体!」
「ああ……ったく、何が解毒剤が出来ただよ!この通りだぜ!」
「……失敗……まさか……ごめんなさい……」
「ホラ!んな暗いカオしてねーで、兎に角上がれよ!風邪引いても知らねーぞ!」
哀はゆっくり水から上がった。長い間、同じ格好で立っていたからだろうか、少し足元がフラ付く。
(失敗、なんて……そんな筈……どうして……?)
でも、彼は今、確かに目の前に居る。その事実がなんであろうと、哀はもうどうでも良いような気分になっていた。
「……お……い……灰原……おい!おい止まれ!」
ブレーキの音が響く。
薄れゆく意識の中、哀は、コナンの叫び声を聞いた気がした……。