なんだか、周囲がひどく喧しかった。
「何……静かにしてよ……」
声にだして言ったつもりだったが、誰の耳にも届かなかったようだった。
ほんの一瞬、自分が事故に遭った事を思い出す。
哀は、再び自分の意識が遠退いていくのを感じた。
(私――このまま死ぬのかな……)
それも良いかもしれない。
散々危険な目に遭って、最期はただの事故死……そういうのも私らしくて良いじゃない、と瞼の裏の暗闇で哀は嘲笑した。
だってあの時、確かに彼は自分の元へ来たのだ。もう、それだけで……。
(……ダメ……考えられな……)
次の瞬間には、哀はもう何も想わなかった。何も聞こえなかった。
何処なのかよく判らない空間に堕ちながら、一度だけ、手を伸ばして足掻きたい衝動に駆られたが、やがてそれも消えた。
同時に自分も消えてゆく、そんな感覚すら、哀はもう何も――……。
「左腕の骨折と内臓の傷から、大量出血があったそうじゃ……頭に外傷は無いが、脳内出血しておると……今は、その……眠って……」
「昏睡状態なんだろ」
「し、新一く……」
「ちょっと行ってくる」
そう言い残して、コナンは廊下の奥に消えた。
博士はひとりで、半ば放心状態の運転手が言った言葉を思い出していた。
『急に女の子が前に飛び出して……いや、よろめいた感じでした……』
手前がカーブで、減速していたのが幸いし、哀は一命は取り留めたのだったが……。
(……哀君……)
何がどうなってこんな事が?一体誰を責めれば?運転手か?神か?
頼れる者も居ないまま、博士はひとり、両手に顔を埋めるばかりだった。
集中治療室には、今は誰も居なかった。容態が安定しているのだろうか。ガラス越しに、いくつかの機械音が重なり合って聞こえる。
(助けられなかった)
守ろうと思ったのに。何度も、失いたくないと思ったのに。
一瞬、ほんの一瞬だけ足がすくんで動けなかった。
あの時、すぐに駆け寄っていたら。もしかしたら、それでも助けられなかったかもしれない。
それでも、哀をひとりになんてせずに済んだのに、どうして……。
(……バーロ……道ぐれーちゃんと渡れよな……)
頭の中で呟いてみても、返ってくるのはピッピッという単調な音だけだ。
(なんで……こっちに渡ろうとしたんだよ……いっつもオレの話なんか聞きゃしねークセに……)
真っ白な、哀の顔。
(こんな時ばっか……オレが呼んだっていつも無愛想なクセに。大人しく無愛想にしてりゃ良かったのに、こんな時ばっ……か……)
もう、眼を醒まさないかもしれない。
(……何だよ……オレの所為じゃん……オレが呼んだりしなきゃ、こんな事には……)
いつの間にか夢を見ていた。
空があおい。
母親が料理を作っている音がする。
幼い姉妹は花壇をいじっていて、その傍らには父……。
哀は、それを眺めていた。
ものすごく遠い所からのような気もするし、ほんのすぐ横で見ている気もした。
まるで、絵に描いたような幸福の時。
年の頃はまだ1、2歳だろう、妹の方が、何か楽しいことがあったらしく姉を見て無邪気に笑った。
あれは、私。
哀は想った。
私は……どこに居るの?
私は母親を知らない。父親を知らない。
けれど、あんなに幸せそうに笑っているあの少女は、私。
目の前の、幸福の風景はいつまでも消えなかった。
ふと気が付くと、傍にコナンが立っていた。
「言ったろ、灰原……自分の運命から……逃げんじゃねー……」
「……何故?」
「………………」
「何故、逃げてはいけないの?逃げる事はそんなに卑怯かしら?あたしにこれ以上生きてどーしろって言うのよ!?組織を潰したいなら一人でどうぞっ……毒薬を作らされて、姉を利用され殺されて、あなたに……人殺しと言われて!もう沢山よ……もう……厭……」
「そんなになっても……」
「……え……」
「……そんなになってもおまえは涙ひとつ溢さねーのか」
「………………」
「泣いたって、いいんだぜ……」
「……別に……」
「強くなきゃいけないとか、思ってるんだろ。でも、泣かない事が強いわけじゃない。泣いたってまた笑える事が強さなんだよ」
「……そんなの……気休め、だわ……」
「泣けよ。それで、笑ってくれよ」
「……そう……言ってくれる……」
「え?」
「そう言ってくれる人が居れば、良かったのに、あの頃も」
「………………」
「……ダメよ……あたしは、笑えない」
「灰原……」
「笑えないし泣けないわ……もう遅すぎる」
「……遅くなんかない」
「……でも」
「遅くなんかないさ、だって、生きたいだろ?」
生きたい?
「死ぬって、優しい事だよな」
私は……。
『でも、生きてたいでしょう?』
……誰?
『あなたはいつもそうね。本当は生きていたいのに、死の姿ばかり捜し求めてる』
良く知っている、声。
『自分の死に様ばかり、夢に見ている』
誰よりも近くに聞こえる。
『そうやって、自分の中で消えてゆくつもり』
寂しい音色。
『でも、思い出して。あなたが一番望んでいたものを手放したくないのなら』
泣き出しそうな。
「……灰原……生きてくれ……」
あなたが来てくれて嬉しかった。
あの時、来てくれて嬉しかったのよ。
死にたくないのは、怖いからじゃない。
惨めだと思っていた。
無様だと嘲笑っていた。
生への執着。
それを今、私が感じている――……。
「ん……?」
コナンの顔つきが、ふと変わった。
眼が、哀の異変を捕らえる。
「灰……原……?」
いま、動かなかったか?誰かに問おうと辺りを見回したが、誰も居ない。でも、今確かに……。
「灰原っ、おい灰原……!」
思わず、ガラスを拳で叩いてしまっていた。音を聞きつけた看護婦が、慌てて走り寄って来る。
「ちょっとボウヤ!駄目よっ」
「でも!今、動いてたんだ……!」
「え?」
「確かに動いて……」
言いかけて、コナンは目を見張った。
哀の瞳が、薄く開いている。
「灰原……灰原!!」
「ボウヤ、ここに居て、すぐ先生を呼ぶわ!」
それから暫らくは、たくさんの人間が慌しそうに行ったり来たりしていた。
どのくらい経っただろう。コナンと博士が医師に呼ばれ、着替えを促された。
「心拍も安定してます。もう大丈夫ですよ」
遠目に見た哀は、ベッドに横たわり虚ろな眼をして天井を見ている。身体には、まだ多数の線が繋がっていた。
「哀君っ」
博士が走り寄る。
コナンはまだ、ベッドより少し離れた所で立ちすくんでいた。
不安が過る。
本当に、もう大丈夫なのだろうか?助かったのだろうか?
もし呼び掛けても、答えてくれなかったら……?
「灰……原……」
その声に応じるように、哀の瞳がハッと光を取り戻した。懸命に身体をこちらへ向けようとしている。コナンは哀の方へ駆け寄った。
「おい灰原っ……」
「………………」
人工呼吸機のマスク越しに、唇の動きを見て取る。
「………なっ……に、言ってんだよ……バーロォ……」
医師が、マスクを外した。
「……くどうくん……」
「――っ……灰原ぁ……」
「……バカね……何、泣いてるのよ……」
「誰がっ……もう、死ぬのかと……」
「あら……ごめんなさい……心配、かけたわね……」
か細い声ではあったが、哀はもう、いつもの調子で言った。
「良かったっ……目、覚まして良かった……」
「そう簡単に……死んだりはしないわ……」
俯いたまま、顔を上げないコナンを見て微笑みながら。
「そんな簡単には……失くせないものね……」
結局、他の誰も気付く者は居なかった。
阿笠邸の一室。
ゴミ箱の中、捨てられた、小さなカプセルに。