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...........................................................................................................................................................+++エピローグ |
暗い。 水滴の落ちる音で目を開けた。 随分長く眼を閉じていたように思えたが、時計を見ると15分間かそこらだった。 『処分が決定するまでそこにいろ』 私はついに、組織に反抗したと見なされたのだ。 手錠の食い込んだ手首が痛む。 (どうせ殺すだけのくせに) そう思ったら、なんだか今こうして拘束されていることさえ馬鹿らしく感じられた。 けれど皮肉な事に、その時間は私に考える余裕というものを持たせた。 (何故だったのかしら) このとてつもなく大きな組織の中で、人と関わるのが苦手なゆえ幾度となく窮地に立たされた私を、彼はそのたび庇った。あれは、何故だったのだろう。彼は嘘吐きだった。嘘吐きなくせに、私を愛しているとは言わなかった。たったの一度も。また、彼は獣の眼をしている。けれど私に対して荒々しく扱ったことはなかった。私を抱く時でさえ、暴力的な態度は何一つとらなかった。ただ、少し苛立たしそうだった。どうしてなのだろう。彼は、愛し方を知らない。その理由は知っていた。 愛されたことが、無いから。 突然ドアが開いて、ジンが入ってきた。 私は今まで考えていたことを悟られぬよう、気にもとめていないふりをする。でもそれは失敗だったようだ。途端にその視線がある一点に注がれた。 「その手に持っているものは何だ」 言われて初めて、いつのまにか私の左手が固く握り締められていたことに気付く。 「………………」 「出せ」 開いた手のひらを覗きこんで、彼は馬鹿にしたように笑みを浮かべた。 そこには、APTX4869が一粒ころがっていた。マンションのドアを抉じ開けられ、施設に連れ戻された時、混乱に乗じて私が隠し持ってきたのだ。 「フン……自殺か?愚かな」 「人を虫のように殺すよりはマシよ」 「生き残る為には殺す。生物の掟じゃねぇか……?」 「……よく言うわ」 「自らを殺めるなんざ、人殺しよりも愚かな行為だ」 「そうやって自分を正当化しているつもり?それとも、羨ましいのかしら」 彼の眼が、変わった。 何事にも動じない、冷たく静かな、安らぎさえ思わせる。 そんな彼のいつもの眼が、一瞬にして表情を変えたのだ。 そのことは私に冷静さを与えた。もう何も怖くはなかった。自分の罪の重さも、つらぬくような彼の視線も。 「あたしは、死ぬわ」 私は言う。上手く笑えているだろうか、それだけが気に掛かる。 「あなたは生きればいい。誰もあなたを殺さない。殺せない。あなた自身でさえもね……」 死と隣合わせの、鋭く落ちついた獣の眼。 それが今では、死の淵を見つめる瞳に変わっている。羨望のような、憧れにも似た視線。 そうよ。一番自らの死を望んでいるのは、あなたのくせに。 「……そうか、死にたいとは丁度いい。お前はもうすぐ死ぬ。その薬でじゃなく、組織の人間の手でな」 「それがこのガス室で散々待たされた結果の報告?」 「ようやくお前の死に顔を拝めるぜ、シェリー」 突然そう言われて、途惑う。 ようやく私の死に顔を拝めるですって? どういう意味……? そんなことは言われた事がなかった。 「あら、そんなに憎まれていたとはね」 自分で答えておいて、はっとする。 憎まれていた? 彼は私を憎んでいる? しかし、だったら。だったら何故……。 「だったら何故、抱いたりしたのよ」 彼が、私の中に言葉にならない孤独を吐き出しているのを知っていた。 抱かれるたびに感じていたのに。 憎まれていた、なんて。 「聞いてどうする、死にゆく人間が」 「………………」 黙りこんだ私を一瞥すると、彼はそのまま背を向けた。 堪らなくなって、私は彼の後姿に訊いた。何故だろう、引き止める理由なんてないのに。 「薬を取り上げないの?」 「……取り上げて欲しいか」 背を向けたままで、彼が答えた。 「今薬を没収したところで、どうせ後で他の奴に殺されるんだからな」 どっちも変わらねぇ、と笑う。 「間違えるなよ……俺は別に、おまえが憎くて殺したかったわけじゃねぇ……」 ガス室のドアを閉めながら、最後に彼は呟いた。 「死ね」 瞬間、私の頭は真っ白になっていた。 死ね?彼は私に死ねと言ったの? APTX4869を隠し持っていた私に、彼は気付いた。 けれど取り上げなかった。そして「死ね」と。 その言葉の意味を、どうして私が気付かないだろう。 この薬。これを飲んだ時、私は彼に殺されるのだ。 胸がどきどきする。こんなことは初めてだった。 彼に殺される。 そうすれば、私は自由になれるのだろうか。 もう何にも縛られずに生きられるのだろうか。 あの海へ還り、そして永遠に……。 物凄い解放感と裂くような寂しさが、一気に流れ込んできた。 この寂しさの理由は判らないふりをした。 此処は疲れた。 お姉ちゃんは還ってしまった。 私もあの海に……。 痛みも悲しみも……。 突然焼かれるような激痛と苦しみが身体を走り抜け、やっぱりこの薬は毒薬なんだ、と思った。 それだけだ。他には何も感じない。怖くない。何も。 暗く優しい液体は、私の身体に余すところ無く絡み付き、決して私を一人にはしないのだから。 薄れていく意識の中で、私は最期に想った。 彼を、殺してあげられたら、良かったと。 . |