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「ひゃー、真っ暗だなーっ」 風もなく、蒸し暑い初夏の夜。夏の夜の闇は深い。肌に纏わり付くような空気が、余計にそう感じさせるのか。公園の街灯は入口付近にしかないので、闇に包まれたそこは、さながら見知らぬ森のように感じられる。 「早くかーえろっと」 今日のように帰りが遅くなることは、写楽にとって珍しいことではない。授業態度の酷さのあまり居残りで立たされることなど、しょっちゅうだ。 そういう時は大抵、仲の良い和登千代子が待っていてくれるのだが、今日はたまたま家の用事があり、先に帰ってしまっていた。それで写楽はひとり、家への近道になる公園を駆けているのである。 「ン?」 公園の中心部に位置する池の側を過ぎようとした、その時だ。 ふと、視界の端に何かが映った。 心なしか、辺りがぼんやりと白んでいるような気がする。 「あぁっ!?」 そこには、ひとつの人影が浮かんでいた。 それだけなら、さして驚くこともなかったであろう。 しかし、影の主が立っているはずのその場所は、見紛うことなく、池の水面だったのだ。 「!」 呼ばれたような気が、した。 保介、と女の声で。 じっと目を懲らしても、その姿は、ぼぅっとした影のままだ。 何だか、コートを着ているようにも見えた。 こんな夏に?そう思っていると、また、呼ばれたような気がした。 その声すら、はっきりとしない。 けれど、その時、写楽には見えたのだ。 「……お母さん!?」 額に浮き出た、第三の眼を。 「お母さんでしょ!そうなんでしょ!当たり!?アッ、アッ、待って!!」 しかし瞬間、その影が揺らいだ。 赤ん坊の自分を置いて、死んだ母。 覚えているはずのないその背中。 思わず柵から身を乗り出していた。 「待ってったら、ねェ!」 辺りには既に闇が戻っている。 まぼろしのような母の姿を追って、写楽の身体は飛沫をあげ水中に消えた。 「写楽クン!」 千代子が駆け付けたのは、次の日の夕方になってからだった。 その日、学校に来なかった写楽を心配して、来来軒に電話を入れ、事態を知ったのだ。それでなくても一緒に帰ってやらなかったことを気にしていたのに、また三つ目になって騒ぎを起こしてやしないかと疑ってしまうのは今までの経験からして仕方がないが、まさか寝込んでいようとは。 「保介の奴、熱が高くって下がりゃしねぇのよ」 「可哀相に……」 「ケッ!陽の暮れたうちから池で泳いだりするからでィ!ったく心配ばっかりかけやがって!」 ぐったりと床に臥せっている写楽。 時折、うなされたように譫言を呟いている。 ヒゲ親父も、口は悪いが心配そうに掛け布団を整えてやっていた。 「悪ぃけど和登サン、しばらく看てやってくんな。わしァ店に出なきゃなんねぇから」 「えぇ、いいわ」 もともとそのつもりで来たのだ、何もできなくても、傍に居て汗を拭いてやるくらいのことはできる。 ヒゲ親父の背中を見送ると、千代子は写楽の顔を覗き込んだ。 苦しそうだ。熱がかなり高いのだろう。 それにしても、池で泳いだというのは一体……? 「お母さん……」 ふと、そう聞き取れる言葉が彼の口から漏れた。 「写楽クン……夢を見てるのね」 こんなひどいことになっているのも、ボクがついててやらなかったせいかしら。 そうと思うと、何だか罪悪感が込み上げてくる。 千代子は既に温くなった額の濡れタオルを手に取ると、傍らの洗面器に浸してしぼってやった。 と、その時。 「あっ!」 ぽちゃん、と音をたてて、何かが水面に浮かんだ。 見慣れたそれは、写楽の三つ目を封じるバンソウコ。剥がしたら最後、と写楽の力を知る者が口を揃えて言うバンソウコだった。長い時間濡れたタオルを乗せているうちに、ふやけて剥がれてしまったのだ。 こうなると慌てたのは千代子である。いつも剥がれたバンソウコを貼りなおすのは千代子の役目だが、何も好きで写楽にバンソウコを貼っているわけではない。しかし貼らなくてはならない理由を、一番判っているのも千代子なのだから。 「えぇと、替えのバンソウコは……」 「和登サン」 引き出しを探していた背後から、突然呼び掛けられて飛び上がる。 甘い幼さを残した低い声。ゾッとするし、同時にどうしようもなくドキドキする声。 悪魔の呼び声。 だから、バンソウコは貼らなくてはいけないのに。 何も、起こらないうちに。 「悪いけど、バンソウコ貼るのは後にしてくれよ」 「またそんなこと……駄目よ!おとなしく寝てなっ!」 「心配しなくても、こう熱が高くっちゃ出来ることなんてタカが知れてら」 口調こそ強気だが、やはり身体は辛そうだ。 写楽には悪いが、千代子は少しだけほっとした。だが、それくらい普段の三つ目になった時の写楽は、危険が多いのだ。 「それより、気になることがあるんでね」 「気になること?」 そう心配している側から、写楽は危険の香りいっぱいの顔で、ニヤッと笑った。 「付き合えよ和登サン」 |
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