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「いやだわ、この公園……」

 怖さ半分、好奇心半分の声で、千代子が言った。
 本心ではそんなに怖いわけではないが、写楽の背に隠れるようにして歩くのも、いわば演出。スリルを楽しんでいるのだ。

「知ってる?ここ幽霊が出るって学校でウワサなんよ……」

 静まり返った夜の公園では、どんなに声を低くして喋っても、それが響き渡っている気がする。

「嫌な空気……生暖かくって湿っぽくて。ほんとに何か出そう……」
「ここだ」

 今まで黙って歩いていた写楽が、そう言って立ち止まった。
 公園の真ん中にある池。大きさは大したものではなく、学校のプールといい勝負といったところか。
 当然周囲には、いびつな池の形に沿って柵が取り付けてあるのだが、写楽が立ち止まったのはその一角だった。

「この位置だ、間違いない」
「ここで何があったってェのさ?まさか幽霊を見たってンじゃないでしょうね?」
「………………」
「さァ、もう帰ろうよ、ヒゲオヤジさんに気付かれる前に……」

 と、突然にして一瞬の出来事。
 千代子の言うことなど馬耳東風で、ヒラリと柵を飛び越えたかと思うと、写楽は水しぶきをあげて池の中へと身を踊らせたのだ。

「シャ、写楽クン!!」

 あまりの突拍子な行動に驚嘆したのは千代子で、思わず声を張り上げてその名を叫んだ。

「何やってンだ!!」
「そうギャアスカ喚くない、ここは浅いんだ」

 当の写楽は涼しい顔で、キョトンとしたような呆れたような調子の返事をしている。
 それで、余計カッとなったのだろう。

「そういう問題じゃねーだろ!!」

 千代子は、ほとんど怒鳴るようにそう言って、勢い任せに自分まで池へ飛び込むと、

「キミは高熱なの!病気なの!なのにこんな冷たい池に飛び込むなんて!肺炎になって死ンじまうよっ!!だいたいが池に入って風邪引いたってェのに、また池に入るバカなんて聞いたこともない大バカだ!!つける薬もありゃしない!!」

 お得意の畳み掛けるような喋り方で、写楽が本気で呆気に取られている隙に、その腕を掴んだ。
 のだが。

「もう早く帰るんだ!」
「お母さん!!」
「え?」

 それは、思いがけない言葉。

「ここで見たんだ!ボクにはわかる……あれは確かにお母さんだった!」
「そんな……!だって、写楽クンのお母さんって……」

 千代子は心臓を、ぎゅっ、と鷲掴みにされた気がした。

「キミが赤ん坊の時に死んじゃってンだろう!?だいいちキミはお母さんの顔を覚えてるわけ!?」
「はっきりとは覚えてないさ。でもあの額の三つ目と、あのコートは……あれはお母さんのものだ……」

 寂しさと強がりの入り交じったような真剣な顔で、暗い池を見つめる。
 居ても立ってもいられなくて、千代子は一瞬、その姿から目を逸らしそうになった。

「とにかく、あがりましょ」









 岸に上がっても、写楽は虚ろな眼で、地面のどこか一点をじっと見ていた。

(そんな顔しちゃって……写楽クン……)

 二つ目の人間を馬鹿にして、三つ目の民を蘇らせようと息巻く普段の彼は影もない。どんなに三つ目族が素晴らしくたって、この現代においては異端の者。好奇の目を向けられ、額にバンソウコを貼られ、母の愛も得られずに、本当の自分を認めてもらえずに、たったひとりで10年と幾年。
 果たして、彼がどんな思いで生きてきたというのだろうか。
 千代子が何か言おうと口を開きかけた、その時。

「あ……!?」

 うなだれる写楽の向こう、池の上を見て、千代子は目を疑った。

「シャ、写楽クン!!あ、あれ……!!」
「!」
「な、何なの?」
「これは……!」

 そこに浮かぶは、ぼんやりとした人の影。薄靄の中で、確かに人の形をしている。
 まさか……幽霊?
 しかし、千代子がそう思った時には既に、その姿は闇に溶けてなくなろうとしていた。

「あ……消えてしまったわ……」

 一瞬だった。
 写楽は影が見えなくなっても、まだその辺りを凝視していたが、やがて何事か考え込むような顔で水面とその上を交互に睨んだ。
 そして、確信を込めた声でハッキリと、

「あれは、水蒸気だ!」
「水蒸気?」
「気温と水温の差によって、一時的に水蒸気の霧が出来たのさ」
「どういうこと?」
「今日はかなりムシ暑いだろ?あったかくて湿った空気と冷たい水面が触れ合って、水蒸気が一気に冷えて霧になったってぇわけ」
「で、でも……どうして一瞬だけあんなものが見えたの!?それに、霧なんて……」
「試してみるかい」

 そう言うやいなや、写楽はさっさと千代子の後ろに回ると、池と自分の間に彼女を挟むようにして、例の呪文を呟き始めた。

「アブドル・ダムラル・オムニスノムニス・ベル・エス・ホリマク」

 自身の発するオーラで、辺りが薄明るくなってゆく。
 次第に、水面から立ち上る水蒸気の霧が、白くその姿を現した。
 と、同時に、あの人影もが再び千代子の目の前に現れたのである。

「あぁっ!?」

 しかし、写楽が気を抜いてオーラを止めると、霧も影もすぐに消えてしまった。

「確かに、この霧はそれだけじゃ目には見えない……しかしひとたびボクたちの真後ろから光が当たれば、霧は天然のスクリーンになる!そこにボクたち自身の影が映し出されたんだろう」

 原理としては、ドイツの山などでもよく起こる、有名な光学現象だ。クライマーが頂上に近付き、太陽の光に照らされた時、周囲に発生した霧に自分の影が映し出される。これを自分の影と判らずに、怪物と間違えた登山家もいるという。
 今回のことが、それとまったく同じものかは判らないが、理屈としては考えられる一つの可能性だろう。

「でも、さっき光なんてあったかしら?」
「だって周りが薄くモヤってたろ?それが見えたってことは、どっかに光源があったってこった。思うに、車でも通ったんじゃないかね。もっとも、ボクたちは自分の影に気を取られて気付かなかったわけだがね」

 ヤレヤレと肩をすくめる写楽から視線を外し、千代子は黙って静まり返った池の方を見た。
 自らの言葉を皮肉るかのような口振りで、写楽は話を続ける。

「最近の幽霊騒ぎはこれだったんだ。怖い怖いと思うから、自分の影が幽霊に見えたってわけさ。幽霊の正体見たり枯れ尾花ってやつだね」
「じゃあ、写楽クンの見たお母さんも……」
「あぁ、すべてはまぼろし……お母さんの姿がはっきりしなかったのは、ボクがお母さんの顔を覚えていなかったから……」

 しかし、突然その声が途切れたかと思うと、ドスンという音と共に大きく地面が揺れた。

「写楽クン!」

 うっかり忘れていたが、写楽はかなりの高熱があったのだ。
 張り詰めていたものが切れてブッ倒れた写楽を、千代子は慌てて起こしてやった。
 手に伝わる熱さで、ひどい熱なのが服の上からでも容易に判る。

「早く帰らなくっちゃ」

 ぐったりと力の入らないその小さな身体を背に負うと、千代子は公園を後にした。

「和登サンの背中……やわらかいな……お母さんみたいだ……」
「!……クスッ、バンソウコ貼った時みたいに言っちゃって」

 寝言なのか、朦朧としているのか、むにゃむにゃと口の中で呟く。
 そんな写楽に、少し笑った。

「うぅん違う……どっちも写楽クンだものね……悪魔みたいな子だけど、ボクはわかってるよ……キミが、お母さんが恋しいひとりぼっちの男の子、写楽保介だってこと……」

 夜が更けていく。
 今日起こったことも、闇の中を歩く二人の中学生のことも、知らん顔で。
 幽霊に対する怖さのあまり、自分の影を幽霊と見間違えてしまった人たち。
 では、自分の影に母の姿を見た写楽は、彼の思いは……。

「写楽クン……キミはひとりじゃないよ……ボクが……キミをひとりにはしないから……」

 千代子の背中で、写楽のふたつの瞼とひとつの目が、震えた。

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