.

.

.

.

.

.
 布を通した霜月の雨が、皮膚を裂いて流れ落ちた。

 その引き攣るような冷たさに、身体はたちまち痺れていく。

 このまま、心も麻痺してしまえ。

 無意識の内にそんなことを思ったかどうかは、自身にすら判らない。

 ただ、男は突き刺さる雨粒もそのままに、じっと虚を見続けていた。

 じっと、ただ、じっと。

.

.

.

.

.                                            

.

.

.

.

.

.

.

..
 雨が降る。ぬかるんだ大地を、とぼとぼ歩く。
 思いのほか長い時間立ち尽くしていたのだろう、随分と濡れてしまっていた。
 雨はなおも降り続ける。
 時々、水溜りに足を取られながら、まだ少年の面影を残したその男は、どこへ向かうのだろう。
 爪先から這い上がってくるような冷たさに、いつしか彼の意識も朦朧としていた。

「!」
「悪ィ!」

 突然、背後から強くぶつかられて、男は前にのめった。
 こんなことは滅多にない。
 男の身に危険が迫る時、大体は気配で気付くか、頭の中に"声"が響いて知らせてくれるのだ。
 こんな風によろめいて地面に手を付いてしまうようなことは、珍しかった。

「あ」

 ぶつかって走り去る者の後姿を、視界の端で捉える。
 自分より頭二つは小さいであろう背丈。不揃いに切りっぱなされた黒い髪。
 その手に握り締められた……見覚えのある小袋。
 それは、男の懐から掠め取った財布だった。
 紛れもない、スリである。

(……?追って来ねぇな……もしかして、スられたことにも気付いてねぇのか?)

 スリは、逃げながら振り返った。普段ならそんな余裕はないはずだ。
 盗みを働けばその後はすぐに、追われて捕まるか逃げ切れるかの一本勝負。
 だが、今回は違った。鴨にした相手は、一向に追って来る気配がない。

「うぇっへへ、チョロイもんだぜ!やっぱ狙うはトロ臭い貴族に限……ぶっ!?」

 しかし言い終わらないうちに、今度はスリの方が尻餅をつく羽目になった。
 余所見をしていたスリは、行く手を阻む"もの"の存在に気付かなかったのだ。
 そして派手に衝突して、一間ほど後ろに吹っ飛び、しこたま尻をぶつけて呻いた。

「ってェ……!おまえ、どこに目ぇ付けて歩いてん……」

 ぎょろり。
 と、顔からはみ出そうなほどの星の文様の下に、大きな目玉がひとつ。

「そんなとこに!?」

 明らかに異形のものである巨大な図体。
 顔と思しき部分に大きな星形があり、その星の下に見え隠れするのは、目玉がひとつだけ。
 その目が、しっかりとスリの方を見下ろしていた。睨んでいるような、何の感情もないような、不気味な瞳だ。
 そんなでかい目持ってんなら、ちゃんと見て避けてくれよ……。
 スリがそう思うか思わないかのうちに、鬼がその手を振りかざす。
 次の瞬間、凄まじいほどの爆音が周囲を包み、鬼とスリの身体は煙の中に消えた。

「………………」

 しとしと、と、雨音。

「……死んだかな」

 少しの間の後、男がやっと立ち上がって様子を伺うように近付いた。
 鬼とスリが居た場所には、未だ煙とも砂埃ともつかぬ靄が立ち込めていて、何も見えない。
 男が少し目を凝らして、靄の中を見つめた時だ。

「ぶはっ!!死んだかと思った!今、絶対死んだと思った……!」
「……!」

 緊張感のない台詞と共に、スリが姿を現したではないか。
 しかも、何だかピンピンしている。

「あっ、おまえ……!おまえがやったんだろ今の!あんなでっけぇ鬼、オイラ見たことないぞ!!」
「……何故」
「んおっ!?」
「何故、生きている」

 鬼に裂かれて平気な人間など、そうはいない。
 この奇妙なスリを、男は何とも言えない心持ちで見下ろした。
 その瞳があまりにも先ほどの鬼と似ていて、鳥肌が立つ。
 鬼の目をした、男。

(怖っ……!!)

 目に見えて怯えた様子のスリに構わず、男はじっとその顔を見つめた。
 わりと整ってはいるが、いとけない顔立ち。雨に濡れた黒髪が、頬や額に纏わり付いている。
 深い海のような漆黒の眼。姿も口調も、一見童と見紛うほど。
 しかし男の着物を着ていてもよく見れば少女と判る、首から肩への線。
 まだ成熟しきらない女の姿から、年の頃は十三、四といったところであろう。
 そして、その身体からは匂い立つような陽と陰の気が溢れ、かたみに入り乱れていた。

「へっ変な奴だな!もう金は返すから!見逃してくれんか!?ダメ!?」
「………………」
「なぁってば……おい……ちょ、ちょっと……」
「………………」
「ち、近くねぇか……」

 スリの少女は、いつの間にか鼻先が触れそうなほどに近付いていた男の顔を慌てて離すと、

「オ、オイラもう行くからな!?ったく、都には哀れな奴が多くて敵わん……!」

 そう言い捨てて踵を返し、逃げようとした。
 しかし男の眼光は、それを許すまじと、彼女を捕らえて放さない。

「哀れだと?」

 その瞳で、鬼をも操るのだろう。

「この僕を哀れとのたまうか、女」
「あ、ああ……!おめぇは哀れだ!いくら金持ちでいい身なりしてたって、オイラには判るんよ!あんな力……あんな風に鬼を使う奴は」
「黙れ」

 足がすくむ。ここから逃げ出したいのに。
 汗ばんだ手のひらを握り締め、必死でこの金縛りから逃れようとするのに、動けない。
 男は少女を真っ直ぐに見据えて、言った。

「僕を誰と思うか。官僚占術師、大陰陽師麻倉葉王なるぞ」

 雨が、少し強くなった気がした。

「大、陰陽師……!麻倉葉王……!?」
「いかにも。先の鬼は僕の式神だ。とは言っても、かなり下級の鬼だが」

 陰陽師。
 五芒星を極め、あらゆる自然の動きを知り、鬼を使って鬼を滅ぼす。
 そういう占術師が国の政治に一役買っていることは、周知の事実だった。しかし……。

「待てよ、官僚ってことは……国に仕える専属の陰陽師なのか?そんなの聞いたことねぇぞ」
「ふっ……それは無理もない。何故なら……」
「何故なら……?」

 厳かな物言いに、一瞬息を呑んだが、

「これからその座を我が物にするのだから」
「って、おい!!まだなってねぇのかよ!?」
「案ずるな、一月とも経たぬうちにそうなる」
「いや、別に案じてねぇから」
「もはやこの名は国中に知れ渡った。奴らが使いをよこすのも時間の問題よ」
「………………」

 全っ然聞いてねぇなコイツ。
 思わず突っ込んじまったじゃねぇか。
 てか、オイラは知らねぇしお前の名前。
 一気に気の抜けた表情のスリを尻目に、葉王は顔色一つ変えず、薄い笑みさえ浮かべている。
 どうにもこうにも呆れてしまって、少女は溜め息をついた。

「下らんな……男ってやつは。やれ戦だの、天下を取るだの、それが何だってんだ?こっちは日々食ってくのに精一杯だってのによ」

 少しふて腐れて、口先を尖らせる。スリをしながら生きていく少女にとって、それはもっともな意見だろう。
 葉王は探るように彼女を見た。

「おまえは、何者だ?」
「?」

 他人であるのにどこか自分と似ている面差しの、この少女。

「何者って……見ての通りだろ。他人様のものを頂戴する小悪党さ」
「……僕には……力がある」
「はぁ?力って……さっきの鬼か?」

 かみ合わない会話に眉をしかめながら、少女は聞いた。
 この男、まるで独りごちるかのような物言い。
 どこを見ているのか判らない眼で、少女を見る。
 まるで、眼球に映る肉体など突き抜け、更にその奥を見ようとしているかのように。

「生きとし生けるものの、すべての思う内を読む力だ。何も意識しなくとも、何を意識しようとも、人の心なら手に取るよりも簡単に知ることができる」

 そんな神の所業のような力。
 そんな力を、葉王は持っていた。
 それは誰のせいでもなく、自ら望んで得たもの。
 しかし今となっては、望むものすらもう無い。

「……そりゃあ、すげぇな」
「畏れるか、この僕を……恐ろしいと思うか」

 そう問う葉王の鬼のような瞳が、少女には、僅かに震えたかのように見えた。

「いや、そうでもねぇよ」

 少し考えてから、そう答える。
 葉王は、おもむろに紙の札のようなものを取り出すと、印を結ぶ仕草をしてみせた。
 式神を呼び出す仕草だ。
 途端に空気がざわめき、熱いとも冷たいともつかぬ陰惨な闇の流れが、少女の柔い肌を襲う。
 先ほどの式神とは格が違うということが、彼女にも容易に理解できた。

「おまえにも鬼が見えるのだろう。ならば判るはずだ」

 落ち着いた口調。
 苛立たしげな、口元。

「………………」
「僕のこの力が、いかに強大であるか。僕の鬼が、いかにおまえを殺めることに……」

 鬼が、現れる。
 悲しい、叫び声をあげながら。

「躊躇いがないか」

 その爪を、少女の胸に突き立てる。 

「なのに何故」

 そして貫いた。はずだったのに。

「何故おまえは死なない」

 ごうごうと砂煙が立ち込める中、少女は身じろぎひとつせずに立っていた。
 その黒い瞳が、葉王という男に向けられる。
 男もまた、少女を見る。
 陰陽の力と力が、交錯する。

「何故、おまえの心だけが僕には見えないのだ」

 葉王はまた、独り言のように呟いた。
 澄んだ少女の瞳に不意に宿るのもの、それは光か影か。

「畜生……いい加減にしろよ」

 あるいは、そのどちらでもないものか。

「知らねぇよ……なんでおめぇが人の心を読めるのかとか……なんでオイラの心だけ読めないのかとか……知るかよ……!」
「………………」
「でもな……なんで強いおめぇがオイラを殺せないのかっていうとだな」

 少女の声が響く。
 人々の思念が頭に響くのと同じように、少女の紡ぐ言の葉が。

「それは、おめぇが躊躇ってるからだ」

 その声は、まるで深い水の底から湧き上がってくる泡のようだ。
 そしてそれは、寸分たりとも不快に感じることはない。
 むしろ包み込むかのような、温かさ。
 自分の何ものも冒したりはしない。

「!?お、おい……!」

 葉王は、その場にくずおれた。
 慌てて少女がその身体を支える。

「しっかりしろよ、大丈夫か?」
「ああ……」

 張り詰めていたものが、切れるような感覚。
 弦が一本、綺麗な音を立てて。
 冷たい土。
 果てた命を取り込んだ。
 降りそそぐ雨。
 分けも隔てもなく。
 こんなにも静かに、ただ人と言葉を交わすというだけのこと。

「……おまえ、名はあるのか」
「鱗葉……」

 りんよう。頭の中で繰り返し呟く。

「自分で付けたんだ、いい名だろ。乞食の子供に名前付けてくれる奴なんていねぇからな」
「物乞い……」
「仕方ねぇんよ、オイラは捨て子だから。そうでもしなきゃ生きらんねぇ」
「そうまでして生きることに、何故すがる」

 誰に聞いているでもないような、そんな何でもない言い方。
 でも、本当は求めているのだ。
 望むことなど、とうに諦めていた。
 でも本当は。

「死して人は花を咲かせられる。夏になればこの木も花をつける。生きるより、よほど素晴らしい」

 葉王は鱗葉から目を逸らすと、足元の小木を見た。
 降り続いていた雨は、いつの間にか止んでいた。

「それなのに何故……」
「さっきから質問ばっかりだな」

 呆れたように、しかし微笑みながら、鱗葉が言う。しなやかな水のように、掴めない鱗葉の心。

「ほんとに、心が読めるなんて、嘘みてぇな奴だ」

 悪戯っぽく笑うその笑顔は、信じることが出来た。
 それは長い間、忘れていたこと。

「ああ、嘘かも知れぬ」
「ん……?」
「鱗葉……」

 例えば誰かに手を差し伸べ、そしてその手を受け入れてもらえたなら。

「僕と共に来ないか」



 戻頁≪

 ≫次頁