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 これはこの世のことならず。

 

 死出の山路の裾野なる、さいの河原の物語。

 

 聞くにつけても哀れなり。

 

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「随分と、その猫を愛でるんだな」

 冷たい空気と暖かい日差し。
 冬は、全てが澄んでいる。

「オイラのことも、少しは構ってくれ」

 葉王が鱗葉を見やると、彼女は拗ねたようにそっぽを向いた。
 今し方、用から帰って来て、もう猫と添い寝をしている葉王。一人留守番をしていた鱗葉には、声も掛けないで。
 鱗葉が恨みがましい視線を送ると、猫は怯えた様に庭へ走り降りた。

「無闇に心をぶつけてはならぬ」

 諭すように葉王が言って、鱗葉はますます機嫌を損ねたようだ。頬を膨らませて、ぶすっとしている。
 出逢った頃よりは随分大人びてきた顔立ちも、こうなっては台無しで、丸まった頬はまるで子供だ。
 下手をすれば、出逢った頃よりも幼く見えた。
 こういう遣り取りは、別に今に始まったことではない。内裏から帰って来ると、葉王は決まって猫をまず可愛がる。
 そしてその度、鱗葉がふてくされるのである。
 葉王は横たえていた体を起こして、毛を逆立てている猫を抱き上げると、元の位置に降ろした。

「特に猫などは生まれ持って霊力が強いゆえ、敏感なのだ」
「何だよ、ちょっと睨んだだけじゃねぇか」
「それだけだとしても。おまえの強い力では、あの者には充分過ぎるぐらい重いのだよ」

 そう言って怯える猫を撫でてやる。
 猫が動くと、黒く尖った石のような飾りが三つ、触れ合って音を立てた。
 葉王がいつの間にやら猫にやっていた首飾りだ。霊験あらたかな熊の爪の飾りだと、葉王は言っていた。
 強い力、と言われてもぴんと来ない。確かに物心付いた頃から鬼が見えていて、それが尋常でないこともやがて知った。
 鬼は時折、鱗葉を傷付けようとしたが、不思議といつも恐怖を感じなかった。
 鬼は、きっと寂しいのだ。そう思っていた。だから、本当に自分を傷付けることはないのだと。
 それが強い力だというのだろうか。
 葉王の言うことは、いつも掴みどころがなく、それでいて的を射ているような気がする。鱗葉は、時々それがもどかしい。

「葉王には懐くのに」

 納得いかん、というような素振りで、鱗葉は猫の代わりに葉王を睨んだ。
 猫はといえば、安心したようにうずくまり、また目を閉じている。
 ある晩、唐突に葉王が連れ帰ってきた野良猫。その姿は見るからに弱々しく、残る命の幾ばくも無いことは一目瞭然だった。それでも今は、その時に比べれば随分毛並みも良くなり、元気に飯も食べる。それほど、葉王がこの小さな猫に目を掛けていたということだ。鱗葉とて、この小さな生き物が可愛くないわけではなく、むしろ可愛がっていたのだが、如何せん猫は葉王にばかり懐いていた。それも、彼女が拗ねてしまう原因の一つである。

「僕は加減知ったるものだからね。気に病むことはないよ、難しいことだ」
「……おまえ、どうしてオイラをここに置くんだ」

 不意に口を突いて出た、問い。

「オイラに鬼が見えるからか?おまえと同じ、人にはない力を持ってるからか?」

 本当は、そんなことが訊きたいのではなかった。こんな、莫迦な問いなど。
 何の意味もないことは、鱗葉にも充分に判っていることだった。
 しかしここ最近の葉王は、あまりにも不安定で、鱗葉でさえ時々見ていられなくなるのだ。

「オイラが……哀れだからか」
「随分、機嫌が悪いようだな」

 だから、こんな莫迦なことを。
 葉王は困ったように、呆れたように笑みを浮かべた。それは、とても曖昧。

「鱗葉、おまえが哀れなら、僕は一体何だというのだろう」

 そう呟いた葉王の顔は、どこか遠くに想いを馳せるかのようで、鱗葉は少し不安になった。
 葉王は、あまり自分のことを語らない。葉王が嬉々として喋る時はいつも、小難しい勾股法やら何やら、鱗葉にも納得は出来るが完全に理解することは決して出来ないような話ばかりだった。
 相生と相剋。陰陽五行の条理によりて、森羅万象のすべてを紐解く。
 人事百般を支配するものの意味と働きを知り、究極の叡智を手にする。
 叡智。それがあれば、すべてを知るのだろうか。すべてを知れば、何もかも理解できるのだ。
 早く、早くその時を。
 急がなければ……。
 葉王はいつしか眠りに落ちていた。

『……麻葉童子……』

 深く深く、沈んでゆく。

 背に翼のごとく根が生える。

 呼ぶ、声も遠い。

 炎。

 疑いの、畏れの、憎しみの炎。そんなものに灼かれて。

 母は、死んだ。

 そして僕も。あの時、死んだのだ。

 死人の肌のように冷え切った心。

 一重組んでは父のため。

 二重組んでは母のため。

 三重組んではふるさとの、兄弟我身と回向して。

 昼は独りで遊べども、日も入り相いのその頃は、地獄の鬼が現れて……。

 地獄。地獄とは何処だ?

 地獄というなら、このいみじき現世こそが地獄。

 鬼。鬼を畏れるのは誰だ。

 鬼を畏れるのが人であるなら、鬼を生むのもまた人であるのに。

 肉を喰らい、心を喰らい、魂を喰らう。

 鬼ども。

 希望か?願望か?

 言葉。美しい、言の葉。

 風に揺れる葉音。

 それさえ聞こえない。

 欲望は、五月蝿い。

 やめろ。触るな。

 静寂は何処に?

 僕の心に、好き勝手に繋がるのはやめろ。

 すべては無。

 皆、生まれ変わる。

 浄化。

 僕に何を望む。

 浄化。

 僕は何を探してる。

 そうだ、浄化。

 浄化しなくては。

 すべてを。

 すべてを。

 すべてを。

 この身は地と繋がるため。

 この身は天と繋がるため。

 この身は闇と繋がるために。

 そのためだけに、在るというのに。

「葉王」

 突然、繋がれていた根が切れたように、葉王の躰は闇の中を浮かび上がった。

「魘されてたぞ」

 鱗葉の姿。
 何故か、ほっとする。

「……すまない、起こしてしまったな」

 そう言ったかと思うと葉王は、うっと呻いて口元を押さえた。
 激しい頭痛と吐き気。しかし嘔吐物は何も出ない。延々続く苦しみ。いつ終わるとも判らない。
 こういうことが、ここ数日続いている。
 幼くして家を焼き出され、その並外れた能力ゆえに拾われた男。その男が国家専属の陰陽師にまで登り詰めて久しい。
 今までにも、こういった「発作」の類は度々あった。その危うさには、鱗葉も随分悩まされたものだ。
 しかしそれでも、近頃のこの「発作」の回数は明らかに異常なくらい増えていた。
 鱗葉は、葉王の過去を知らない。知りたいとも思わなかった。ただ、目の前の男の今を、信じるだけだ。切なくとも。

「昼間……何かあったんか?」

 また何か見ちまったんだろう。鱗葉には察しがついていた。
 輝かしい栄華とは裏腹に、平安の都には闇が渦巻いている。
 鬼や物の怪などはその派生物に過ぎない。
 げに恐ろしきは、人の欲や恨みや憎しみ。人の浅ましい念いこそが、鬼を生むのだ。
 葉王の持つ、人の思いの内を読み取る力は、その浅ましきすべてを吸収してしまう。
 だから案じていた。
 いつか、いつか決壊するだろう。
 水は溢れ出し、濁流となって、そのすべてを飲み込んでしまうのだろうと。

「えらいさんほど、汚ぇもんを腹に持ってるもんだからな……おい、しっかりしろ」

 ふらふらと立ち上がり、縁に出ようとしてまた膝を付く。激しく咳き込んで、片していなかった空の膳をひっくり返す。
 家に居るときは常に侍らせている式神たちが、おろおろと寄って来た。
 猫も心配そうにか細く鳴いている。鱗葉はなるべく冷静に、葉王の背をさすってやった。

「本当に大丈夫なのか」
「………………」
「おまえ、このまま行けばどうなっちまうのか……判ってんのか?」

 食べ物どころか、水さえもろくに口にせぬ日々。心を蝕まれる前に、これでは身体が持たないだろう。
 それなのに、この男は。

「どうにもなるまい」

 半ば吐き捨てるようにそう言った。その声の調子に堪らなくなる。
 鱗葉は、思わず背中から葉王を抱きしめた。そうしなければ、そうしていたって、繋ぎとめてはいられないような気がした。
 手を離せば、すぐに別の何かに捕らわれてしまうに違いない。何か、が何なのかは判らない。
 しかし、それはとても太刀打ちできない、自分のような者には到底及ばぬ力を秘めているように思えた。

「鱗葉……」

 温かい腕に包まれて、葉王が呟く。

「何だ?」
「まこと、人は争いを好むのだな……」

 突然そのような気弱なことを言うので、少し面食らってしまった。
 この男が人の心に疵付ききっていたのは知っているが、こんな風にぽつりと嘆くようなことは珍しい。
 何だか急に、葉王が道を失った幼子のように思えて、鱗葉は葉王を抱く腕に少し力を込めた。

「人が殺しあう理由はいつも、怒りや怨みや恐怖……果ては私欲のため」
「仕方ねぇさ……みんな自分が可愛いんよ。可愛い自分の欲望を満たすのに、精一杯なんだ」
「それが僕たちの浮世か」
「それがオイラたちの浮世だ」

 葉王が振り返って、身体ごと鱗葉へと向ける。
 唐突に行き場を失った鱗葉の腕を、しっかりと掴んで引き寄せた。
 そして放たれた、問い。

「変えられると思うか」

 鱗葉を捉える二つの眼の奥。その深さが底知れなくて、鱗葉は息を呑んだ。

「変える……?世の中をか?」
「すべてを」

 普段と変わらぬ、落ち着いた口調。
 しかし、何かが違った。違和感。でも、その正体は判らなかった。

「霊の王となりて、現世の……いや、この星とこの星を取り巻くすべての叡智を手に入れることが出来れば、それは可能となるのだ」
「何だそりゃ?誰かの夢か物語か?」

 わざと、冗談めかして言ってしまう。それは冗談であって欲しいという望みの現れだったのかもしれない。
 でなければ、一体何だというのだ。
 霊の王、叡智……すべてを変えてしまえる?そんなことが出来るのなら、とっくに誰かがやっているはずだ。
 人の過ちも醜さも、消してしまえるのなら。

「何故おまえを僕の元に置くのか……訊いたな」
「え……?」

 昼間の話だった。あんな莫迦げた問いなど、とうの昔に流されていると思っていたのに。

「無無明亦無無明盡」

 むむみょうやくむみょうじん。鱗葉なら舌を噛んでしまいそうな、言葉。
 しかしそれが般若心経だということくらいは、彼女にも理解できた。

「おまえは如何なる力も、如何なる心をも受け流してしまう強さを持つ……」

 無明は無であり、また、故に無明がつきるということもない。
 すべての因縁の源泉である無明。無明は迷い。無明は苦しみ。
 その苦しみから解き放たれた存在。
 何を恐れることもなく、何に縛られることもなく。

「一切の迷妄を無とし、何ものにも囚われぬ心」

 それが、強さ。

「おまえのその澄みきった魂に、僕は魅かれたのだ」

 そう言って、おもむろに鱗葉の頬に触れる。
 指先は戯れるでもなく、慈しむでもなく、ただその感触を刻み込もうとするように。柔く瑞々しい、鱗葉の肌。

「だから僕は、おまえを傍に置く」

 裏切ることのない、その心。

「おまえを、愛している」

 紡ぐ言葉の、その意味を。

「おまえが居ればいい」
「は、お……」

 唇が重なる。
 元より寝乱れていた着物が、今更恥ずかしい。
 葉王の黒髪が首筋に触れ、鱗葉は身体を震わせた。

「居てくれるか……ずっと、僕の傍に」

 ずっと傍に。その言の葉は鱗葉の胸を突き上げ、塊のように留まって溶け出す。
 溢れる涙。
 こんな気持ちで泣くことなど、初めてだった。
 いつもどこか遠くに居た男。一番傍にありながら、決して届かぬ愛しい人。どうしようもなく、孤独な。
 それが今は、とても近くに感じられた。ついさっきまでの違和感など、嘘のように忘れた。
 本当は、この時を待ち侘びていたのだ。出逢ったあの日から。或いは、生まれる前から。
 引かれ合う魂のままに、望んでいた。
 抱き寄せられた弾みに、帯が緩む。

「……ああ」

 何千何億の年月、遠い星々の向こうから、答えは決まりきっていたのだ。

「ずっと居たいな」



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