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 羯諦羯諦 波羅羯諦

 

 波羅僧羯諦

 

 菩提娑婆訶

 

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 麗かな昼下がり。

 夢なのか現なのか。

 青い暗闇で、眼を閉じている。

 あれは誰なのだろう。

 何を見ているのだろう。

 オイラ、じゃあない。

 何故オイラじゃないんだ。

 オイラを見ろ。

 呼んでやってるのに。

 幾度も幾度も、呼んでやったのに。

 近付けない。

 遠い……。

「葉王……」

 自分の声で、目が覚めた。
 既に太陽は西に傾きかけている。

「ん……随分眠っちまったんだな」

 呟いて、無意識に手のひらを腹にあてた。ここ最近の、異常なまでの眠気の原因。
 その身に命を宿して、もう三月ほどになるだろうか。
 未だ目立たぬ膨らみを、愛おしむように撫でる。

「おまえの父親は、やっかいな男だぞ」

 人の心が読める葉王。唯一その力を受け入れ、受け流すことのできた鱗葉。
 鬼を知るがゆえに人を嫌い、独りになり、それでもどこかで人を求めていた男と、産まれた時からひとりぼっちで、鬼さえ恐れずにただひたすら奪い続けて生きてきた女。

(与えられるんかな……オイラに)

 普段は疑う余地もなく、信じている。それなのに、ふとした瞬間、自分がとてつもない悪のように思えてしまう。
 こうやって物思うだけでも、それがもう裏切りのように感じるのだ。
 心の隅でくすぶり続ける、炎。
 想えば想うほど、それは明確さを増していく。
 葉王の思い描く世界。そこへ行ってもいいのだろうか。
 この胸の炎さえ、消せないでいるのに。
 ふと、異変が目に入った。

「式神?」

 葉王が寮に赴く時、鱗葉を守るため、決まって彼女の傍に置いておく式神。
 それは人の姿ではなく、巻物であったり香炉であったり、まるで九十九神のようだ。
 滑稽だが愛らしいその姿は、鱗葉も気に入っていた。
 その式神が震えている。
 こんなことは、初めてだった。

「どうしたん……」

 不思議に思った鱗葉が、式神に触れようとしたその時だ。
 式神が弾け消え、歓声とも怒号ともつかぬ音が一気に流れ込んできた。
 見知らぬ男どもの集団。

「いたぞ!!」
「女を捕らえろ!葉王の妻女だ!」

 騒ぎのさなかに聞こえる、そんな声たち。
 状況が飲み込めないままに、取り押さえられる。あっと言う間に鱗葉の手も足も、動きを封じられていた。
 咄嗟に腹を庇おうと身体をくの字に折ったが、そのまま頭を床に捻り伏せられる。
 畳の目に擦り切れた頬が、ひりひりと痛んだ。

「な、何だぁ!?」
「うるさい!大人しくしろ!」

 わけが判らない。
 何故こんな風に怒鳴られ、痛め付けられなければならないのか。
 どうして、こんな仕打ちを。
 頭の中が混乱してゆく。嫌な予感がした。
 葉王。

「嫌だ……放せ!!葉王っ……葉王、はぁおーっ!!!」

 ゴン、という音とともに、額に痛みが走った。
 男が鱗葉の髪を掴み持ち上げて、頭ごと床へ打ち付けた音だ。

「喚くな!今、その葉王の元へ連れ行く!!」
「……!?」

 痛みに朦朧としながらも、精一杯の抵抗で睨み返す。
 しかし男は鱗葉を一瞥しただけで、今度は急かすようにその身体を引っ張り上げた。
 こうなるともう逃げようがない。縛られはしなかったものの、両腕はしっかりと掴まれていた。
 どうやらすぐに殺す気はないらしい。それに今は、葉王のことも気にかかる。鱗葉は、しぶしぶ男達に従うことを決めた。
 夕陽に焼かれた空が、目に染みる。赤にまみれた雲。一歩足を踏み出すたび、身体のあちこちが痛んだ。
 沈黙の道中。ただならぬ雰囲気。
 陽が傾いて少し冷たくなった空気が、一触即発であることを示すかのように張り詰めている。

「下がっていろ」

 連れて行かれた先は、内裏だった。
 鱗葉も何度か見たことがある。
 といっても、実際に訪れたのはこれが初めてなのだが、以前葉王が不思議な術で映し見せてくれたのだ。
 見た時はちょうど今時分。西からの陽の当たり方が綺麗だ、と思ったのを憶えている。
 しかし。

「……何なんよ」

 しかし、今目の前にある光景は、鱗葉の知るそれとは違っていた。

「これは……一体……」

 真っ赤な床。
 真っ赤な壁。
 真っ赤な天井。
 どす黒く錆び付いた匂い。
 西陽じゃ、ない。

「何なんだよ……」

 その中央に独り立つのは、愛しいその男。

「葉王……!」
「やあ、来たね鱗葉」

 振り返ったその瞳。
 鱗葉の叫びは、既に届かぬように思えた。
 炎が、燃え上がる。胸の内に。
 思い出す、あの青い夢現。

「麻倉葉王!貴様の女を捕らえたぞ!これで自由に動くことは出来まい!!」

 誰かが興奮気味にそう捲くし立てる。
 だが、葉王は落ち着き払った様子を崩すこともなく、ぴくりとさえ動かなかった。
 おびただしい量の血の海。そこに累々と横たわる、人のかたちをした塊たち。
 葉王の暗い両眼は、そのいずれも映してはいない。
 深い、空洞。

「さて、それはどうかな」

 別の男が素早く印を結び、葉王めがけて術を放った。
 思わず鱗葉が悲鳴する。

「葉王っ!」
「うっ……!?」

 けれど、呻き倒れたのは葉王ではなく、男の方だった。
 男は一瞬苦悶の表情を浮かべたかと思うと、血反吐を吐いてその場に倒れ込み、息絶えた。
 陰陽の術、呪詛返しだ。

「僕の妻と子に、手荒な真似をしないでくれないか」

 そう言って少し、眉をしかめる。
 まるで悪戯でも叱るかのような調子。口の端を微笑むように歪めて。
 何も映さない瞳。ここに在るものを見ていない。血も、人も、鬼さえも。
 ――じゃあオイラは何処に居る?

「おまえ一体……!こいつらは……!」
「こやつらは、麻倉の者」
「麻倉……!?それじゃ、おまえの……!!」
「さよう。我が一族の術師らが、僕を討ちに来たのだ……身の程も知らぬ奴らが」

 その言葉に挑発されたのだろう。葉王を睨んでいた男のひとりが、弾かれたように進みいでた。
 あらん限りの力で鬼を操り、葉王の身体を喰い千切るべく、渾身の力を振り絞る。

「おおおおお!!」

 轟音と共に、陰の気に飲まれゆく葉王の身体。
 それでも、やはり葉王は身動き一つしないで立っていた。
 鬼の牙は確かに葉王を捕らえていたのに。

「無駄だよ」

 立ち込める煙。
 立ち尽くす術師。
 強大な、力。

「僕の前には、いかなる力も無に等しい」

 これと同じ場面を、鱗葉は知っていた。
 いや、或いは知らなかったとも言える。
 何故なら、この力の姿を自分自身で目の当たりにすることは初めてだったからだ。
 襲いくる鬼。それを恐れぬ人。力は受け入れられ、そして受け流される。
 そう、まるでこれは、出会った時の二人のやり取り。
 あの日、耳の奥にこびりついた言葉が、鱗葉の口を突いて出た。

「無無明亦無」

 むむみょう、やくむ。
 全ては無。

「何を戸惑う、鱗葉。おまえの力ではないか……おまえと同じ、全ての行を無とする力」
「で、でもそれは……」
「おまえが僕に見せてくれたのだよ。ゆえに僕はその力を知り、極めることができた……おまえのお陰だ、鱗葉」

 優しい顔で、鱗葉を見つめる。
 その瞳は、やはり鬼のように澄んではいたが、どこか虚ろで、鱗葉をぞっとさせた。
 遠くに行ってしまうのか。どうして。
 どうにもなるまい――あの晩、鱗葉に背を向けて葉王が口にした言葉。

「醜い人間ども」

 男達に向き直り、低く押し殺した声で呟く。

「人を欺き、人を憎み、人を殺す」

 その場に居る全員が、金縛りにあったかのように立ち尽くしていた。
 誰も彼も、逃れられない。魂まで響く、その声から。

「強きに怯え鬼を生み、弱きを憎しみ鬼を生む」

 全てが無になる。
 畏れも迷いも、全ては無に。
 流れ込む全てを無に還す。
 葉王の心は、無になったのだ。
 繰り返される過ちと、限りない欲望。
 悲しみも叫びも。

「そしてそれは心を蝕み、人を蝕み、この星を蝕む……」

 何も変わりはしないなら。

「もはや、用無し」

 ならば全てを。

「創り上げよう」
「………………!」
「人を滅ぼし、心に囚われぬ新しい世を」

 全てを変える。
 それすなわち、全てを滅ぼす。

「叡智を、手にするのだ」

 そしてそれは、素晴らしい世界へ。
 差し延べられた手。
 その手を掴むのは、簡単なこと。
 けれど誰にも出来なかったこと。

「鱗葉……僕と共に来い」

 ただ、鱗葉だけが、その手を掴んだ。
 畏れも疑いも感じることなく、ただ、その手を。
 あの日は、そうだった。

「う、あ……」
「どうした」

 でも今は。
 その心も、その身体も。

「心を、見せたな鱗葉」

 炎に縛られて、動けない。

「あああああああああやめろおおおおおおおおお!!!」

 見られる。

「いやだぁ……っ、痛い……っああああああ……!!」

 心を。嫌だ。
 今まで感じたことのない激痛。力と力が反発し合っているのだ。
 見られてしまう。恐怖を孕んだ心。燃え続ける炎を。
 恥ずかしい。卑しいこの心。
 嫌だ、やめて、やめてくれ。
 心を抉じ開けられる痛み。
 それより悲痛な魂の叫び。
 それでもなお、愛してるなどと想ってしまう心を赦して。

「………………!!」

 痛みが、途切れる。

「は」

 名を呼ぼうとして、咽喉が詰まった。
 呆然と空を見る、目の前の愛しい男。
 その胸に深々と突き刺さる、鬼の爪。

「り……んよう……」

 しかし、葉王は傷ついた自身の身体よりも、その隙を与えた原因に未だ気を取られているようだった。
 初めて覗いた、鱗葉の心に。

「鱗葉……おまえは……」

 何が強さか。何が無か。
 人と何ら変わらぬ、その心。
 しかし、それでも。
 ゴポッ、と厭な音が語尾に重なる。
 口元からあふれ出した血が、幾筋にもなって流れ落ちる。

「それでも僕を」

 一瞬。
 世界が音を失い、次の瞬間には、洪水のような現実が鱗葉の中に流れ込んできていた。

「!!葉王っ……!」

 叫んだ名前。
 駆け出そうとした足。
 掴もうと伸ばしたその腕を、いとも簡単に捕えられる。
 どんなに力を振り絞っても数人がかりの男の力は振り払えない。
 鱗葉の目の前で、次々と襲いくる鬼の爪や牙に、葉王の身体は何度も貫かれた。

「やめろ!おまえら!葉王が、葉王が死んじまう……!」
「危ない離れよ!」
「嫌だ!!」
「あやつはここで討たねばならぬ!さもなくばこの国が、この世が滅ぶぞ!」
「嫌だああ!!」

 国なんて、どうでもいい。この世だって、本当はどうでも良かった。
 葉王が愛した世だから、自分も愛そうと思っただけ。
 彼が守りたいといったものだから、自分もそれを信じたいと思っただけ。
 たったひとつ。それ以外のものは何にも必要なかった。

「葉王ぉ!!」

 ただ二人で、同じものを見つめていたかっただけだ。

「オイラはおまえと……!共に行く……!!」

 だから、怖いのは、その眼に自分の姿が映らなくなること。
 恐怖するのは、届かない声に。

「契を忘れるもんか!オイラはお前の傍に……居るんだ!ずっと……!」

 たった一人の男の世界にさえ存在しない自分なら、この世はなんと無慈悲で無意味なのだろう。
 燃える炎は、裏切りや疑いの炎なんかじゃない。
 そんなことに、今更気付くなんて。

「……鱗葉……」

 必死に叫ぶ鱗葉の声が遠くに聴こえて、葉王は目を凝らした。
 くぐもった音と、ぼやける視界。まるで水の中にでもいるようだ。そういえば、息も少し苦しい。
 それでも、何とか彼女の顔を捉えることができた。泣いているのだろうか、切なく歪んだ顔。
 鱗葉。おまえの隣は居心地が良くて、そして等しく不安だった。
 見えない心に安らぐ一方で、多分どこかでその心を穿っていた。
 おまえも、同じ想いでいたのだろう。それでも、傍に居ると言ってくれたのだね。

「僕はおまえを……」

 眼に映る、赤。穏やかな西陽。
 この血が続く限り。いや、たとえこの血が絶えるとも、僕は必ずおまえを捜し出す。
 どんなに姿形が変わっても、苦しみの果てにその名を忘れたとて、おまえの魂は忘れない。
 次の世も、また次の世も。
 鱗葉、僕は、おまえを――。

「葉王、はおっ!畜生、放せぇ!」
「もう遅い!!」

 ――葉王、愛してる。
 綺麗じゃないかもしれないけど、おまえの嫌いな醜い心かもしれないけど。
 それを見られるのが怖かったけど、こんなんじゃお前のこと全部理解できないかもしれないけど。
 そんなことを思ってしまう自分が無力で憎いけど、でも愛している。オイラの全部なら、見せたっていいんだ。
 だけど、そう、もう遅い。
 鋭い爪に突き上げられ、宙に止まった身体。
 流れ出る血も尽きかけていた。
 一番大切なことを、まだ言っていないのに。

「やめてくれ!助けてくれ!死なせないで……やめてえええええええ!!!」

 力なくしなだれた腕。
 薄く開かれた瞳は、今は鱗葉だけを見ていた。

「うっ」

 その眼から、光が消えた。

「ああああああああああああ!!!」

 意識は、そこで途切れた。
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 季節は廻る。
 時間は、波にさらわれる砂のように、ゆっくりと形を変えながら流れる。
 ここでこうしていると、ふとあの男が現れるような気がする。
 まるで内裏から帰ってきた時のように、ふらりと縁側にやってきて、猫を抱く。
 そんな幻を、まだ思い描いてしまう。きっと、いつまでも。
 やがて訪れる師走に追いやられるように、木枯らしが吹いた。

「鱗葉様、お身体が冷えますとお腹のお子に良くないですよ」
「うん、すぐ入る」

 見上げた空は、重く、今にも泣き出しそうな色だ。
 それは何だか、この世の全てを憂うかように見える。
 どこからか、聞き覚えのある音が聴こえた。
 磨いた石の触れ合うような、綺麗な音。

「……おまえ」

 あの猫の、首飾りの音だ。
 葉王が、特別目を掛けていた猫。彼の死後、行方をくらませていた猫が、そこに座っていた。

「何しに来た?おまえのご主人は、もうどこ捜したって居ねぇんだぞ」

 猫は不思議そうな顔をして、鱗葉を見上げた。
 そうだ。もう、どこを捜したって居ないのに、何故自分はここに居るのだろう。
 まったくおかしなものだ。
 あんなに恐ろしい形相で鱗葉を捕え、葉王を誅った連中が、掌を返したように穏やかな調子で彼女を迎え入れた。
 鱗葉もまた、愛しい男を奪った麻倉の家に入ることを是とした。
 まるで、それが当然であるかのような成り行きで。
 妻の目の前で夫を殺した事への償いだろうか。行く宛てのない鱗葉を哀れんでの事だろうか。
 それとも、ただ種を残すためか。一族のために、あの男の力を絶やすまいとしているのか……。

「まぁ、いいさ」

 考えても仕方の無いこと。鱗葉はかぶりを振って、それらの思いを追い払った。
 何にしたって、ここに居ることを選んだのは紛れもない自分だ。断ることだってできただろう。
 自分が、そうしなかっただけなのだ。だから、負けられない。

「……雨だ……」

 ぱらぱらと、草木を打って地面へと消える雫。
 猫が、それから逃れるように家の中に飛び込んで、鱗葉の足元に落ち着いた。
 そういえば初めて出逢った日も、こんな風に雨が降っていた。
 ちょうど霜月の、今頃の時期。
 今度こそ、守りたいものを守り通す。どんなことをしても。
 絶対に、失うわけにはいかない。

「そういえば、おまえ、名が無かったな……」

 もうすぐ月が満ちる腹をさすりながら、鱗葉は祈る。

「オイラがつけてもいいか」

 また、廻り逢えるように。
 そして、また、逢える日が来るなら、今度は。

「マタムネ」

 にゃあ、と一声、名前を得た猫が鳴いた。



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