あの時から

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     あの時から私は

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     ずっと逃げ出せずに 居たのだろう

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コーヒー

 

 

可笑しな光景だっただろうか。9歳の子供がコーヒーを飲むのは。
私だってコーヒーが好きなワケじゃなかった。苦くて、それなら砂糖を入れれば良かったのだけど。
そうすると、必然的にあの事を思い出してしまう。
それが厭なら、コーヒーなんて最初から飲まなければ良いのに、そこが矛盾していた。
私は、ほとんど強迫的にコーヒーを飲んでいたと思う。
閉じ込めたキオクを、挑発するように。
それでも私のキオクが、鮮明に蘇ることは二度と無かったのだけど。

 

 

 

雨が降っていた。何処の家とも何ら変わらぬ夕食後の風景。母親らしき女性が、ふと言った。
「明美ちゃん、もう少しテレビ離れて見ないと…ホラ、志保ちゃんはお利口よ?」
明美、と呼ばれた少女は、そんな言葉耳に入らないという風に、画面に見入っている。
その少女より幾つか小さいと思われる女の子は「志保」という自分の名前に反応して、ふっと眼をそちらに向けたが、暫くするとまた、無言でテレビに向き直った。
「あなた、コーヒー冷めるわよ!」
その呼びかけに遠くで、ああ、と声がする。
「お養母さん」
思わず志保は彼女を呼んだ。
「ん?なーに?」
「……なんでも」
おかしな子ねぇ、と彼女が首を傾げた時、養父が部屋に下りてきた。
「コーヒー、淹れ直す?」
「いや、いいよ」




それが彼の最後の言葉だった。
苦しみ足掻く彼を養母はただ見つめ、彼が動かなくなったのを確かめると何処かに電話を入れた。
それから少しもしないうちに2、3人の男たちがやって来て、養父の遺体を運び去っていった。




静まり返ったリビングに雨の音が響いて、気まずさを濁してくれる。
「ごめんなさい、命令だったのよ」
それは、誰に向けての言葉だったのか。養母はそれだけ言って、キッチンへ消えた。
明美は何が何だか判らない、というような呆けた顔をしていたが、志保は見ていた。
養父のコーヒーに、彼女が何か白い粉末を入れたのを。


幼い志保はすべてを眸の奥に閉じ込めたのだった。

 


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Junk