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 あの日、自分を…コナンを新一の身代わりにしてもいい、と宣言してから10日程過ぎた。あれから蘭はコナンの前では涙を見せることもなく、なんとか日々をすごしていた。これでいいのか悪いのか、コナンはまだわからないでいたが、それを維持するよりほかないのが現状だ。それでも日々騙し騙し笑顔で暮らしている彼女をほんの少し安心した面持ちで彼は蘭を見守っていた。
今、彼はもうひとつの気がかりを思いながら電話をかけていた。電話の相手は思いのほか、ふたつ返事で彼の申し出を受け入れたようだ。コナンは複雑な笑みのまま受話器を置いた。身支度を整え、彼は3階の自宅から2階の探偵事務所に降りた。
学校も春休みに入り、今日は朝から蘭は園子と映画を観に行っていて家にはいない。夕方からは外国人アーティスト(名前は何とか言っていたが、コナンは音楽に興味がない為忘れている。今流行りのR&B系の人らしいが…)のコンサートに行くので帰りが遅くなると言っていた。小五郎のおっちゃんは、事務所にいるにはいるのだが、机で相変わらずビールを飲んでいる。空き缶が周りに散乱していてコナンはいつものことながら…と呆れながら缶を拾い集めゴミ箱に捨てる。
「じゃあ、おじさん、ボクも出かけるから」
「おぅ…」
とコナンを見ずに片手をあげる。
『…ったく、蘭がいねえとすぐこれだ。…って、いても飲んでるか…。毎度のことながら、依頼人が来たらどうすんだっての』
と思ったが口にしてもガキの戯言扱いされるだけだ。そのことには触れず
「いってきまーす」
とだけ言って探偵事務所を後にした。

東都環状線の駅を降り、新宿駅の中央線高尾行きのホームでコナンは人を待っていた。べつに米花駅でもよかったのだが、相手が用事を済ませてから行くと言ったのでその都合に合わせたのだ。それにしても…
『おっせーなぁー。アイツ、何してんだ?』
時計を見る。待ち合わせ時間からもう30分は経つ。ただの遅刻か、それとも…
『もしかして、何か不測の事態でも?』
そういえば、前に何か妙に引っ掛かる話をしていたなあ、と思い出していたその時だ。
「よォ!オメー、よっぽどその時計気に入ってンだなァ?」
『ゲッ!オレの声?!』
驚いて「コナンの声」がした方向を振り返った。
そこには、メガネはかけていないが自分とよく似た少年がマスクをして立っていた。コナンは、その「少年」が誰だかすぐに判った。
「…これは、どーゆー冗談だ?灰原ァ〜?」
哀はクスッと笑って、コナンの反応を面白そうに眺めている。
「人を長い間待たせておいてなァッ…」
「あら、私は時間通り来てたわよ?あなたが気付かなかっただけよ」
マスク型変声機をつけたまま、愉快そうに彼をチラッと見る。
「そんな格好して来るとは思わねえだろーが!だいたい来てるなら来てるって言えよ。何分ここでボーッとしてたと思ってんだよ?」
そこまで言って、ふとイヤな予感がしたので聞いてみた。
「…あー、オメー、まさか用事ってその変装の事じゃねーだろーなー?」
「ビンゴ」
彼女はしれっと答える。
「あのな〜…、つまんねー事してんじゃねえよ。何なんだよ、その格好?」
「あら、女の子とデートしたかったの?大好きな彼女がいるクセに?」
「ンなんで誘ったんじゃねえよ!そういうことを言ってんじゃなくって、何でそーゆー格好してんのかって理由を聞いてんだよ!」
「デートじゃないからよ。万一の時、あなたが言い訳しなくてすむようにこんな格好で来てあげたんじゃない。感謝してよ?」
と言いながらコナンの手を引き、乗客の列に並んだ。
「あぁ、有り難すぎて涙が出ちまうよッ。でもよー、何もよりによってオレの格好するこたねえだろ?それに、オレの声で女言葉喋るなって前にも言っただろーが」
彼は不愉快さを隠そうともせず、哀にマスクをはずすことを要求する。
「私も言ったはずよ。これ、結構気に入ってるって。それに、その態度。人にモノを頼む言い方じゃないわよね?」
グッと言葉に詰まったコナンは暫く哀を睨みつけていたが、やがて諦めたように彼女に頭をさげた。ただし、口調はふてくされているが…。
「ごめんなさい。お願いですから、そのマスク、はずしてください」
彼が自分に頭さげるなんて滅多にないことだ。哀は少し愉快な気分になって、彼の要求を受け入れた。
「わかったわ。マスクは、はずしてあげる」
負けずと劣らじ高飛車な口調で言った後、マスク型変声機をはずした。コナンはホッとしたものの、まだ不服気な顔をしている。
「なぁー、ついでにその髪型もやめねーか?なんかさー、同じ髪型って…ちょっと…」
「ちょっとって?兄弟みたいで楽しいじゃない?」
「オレは一人っ子で充分だッ」
「じゃあ、従兄弟ってのはどう?名前はあなたの従兄弟だから…、そうねー『江戸川ドイル』なーんて、どうかしら?」
と流し目して笑う。コナンは半開きにした目を哀に向けた。
「…オメー、オレのネーミングセンス、バカにしてるだろ…」
「あら、あると思ってたの?ネーミングセンス」
ボディーブローなセリフがきまった。コナンはがっくり頭を垂らした。
「おまえ、ほん…っと、人の痛いとこ突くことに関して天才的だよなー。感心するぜ。まったくよー」
苦虫を噛み潰したような顔して応酬する。
「誉め言葉として、受け取っとくわ。ホラ、電車きたわよ。あれに乗るんでしょ?」
ホームに滑り込んで来たばかりの高尾行き中央特快を指差した。
「いや、その後のヤツ。あれは吉祥寺停まンねえんだよ」
「ふーん…。で?何で吉祥寺なの?」
「オレ達の住んでる辺りのヤツって、たいがい渋谷とか新宿、銀座方面に買い物とか遊びに行くだろ?23区ははずしてその次に近いトコって考えたらジョージだったんだよ」
「なるほど」
「さ、行くぜ。今度こそ電車来たし」
ふたりは今の電車と入れ違いのようなタイミングで反対側のホームに入って来た電車に乗り込んだ。

思えばこんなにのんびりと、ふたりだけで出かけたのは初めてだ。大抵、阿笠博士と少年探偵団と一緒に出かけ、そしてたいがい何故か事件に遭遇する。
お願いだから今日は何も起こらないでと願わずにはいられない。哀は隣に座ってさっきから一言も口を利かない少年を見ていた。べつにさっきの事を怒ってる風ではなさそうだが。何を考えているのだろう?聞いてみたいが、今の彼には近寄り難い雰囲気が漂っている。煩がられても厭なので黙っていようと思ったその時、
「あの…さ、灰原……」
急に話しかけてきたので、彼女はドキリとした。
「な…何?」
伏し目がちの彼は、俯き加減の姿勢のまま話し続ける。
「何でそんな格好してきたんだ?確かおまえ、前にオレに言ったよな?オレが誰かに目をつけられたかもしれないって。しかもそれは組織絡みかもしれねえって」
「ええ」
「だったら、なんでそんな格好するんだよ?もし、本当にオレが誰かに狙われているとしたら、かえって危ねえだろーが」
「だって、私ウィッグ、これしか持ってないもの」
「そういうことじゃなくて…」
「どのみち同じよ。私の顔も組織に知られているもの」
とカツラの黒髪に触れる。
コナンは前に灰原が拉致された時の事を思い出した。そういえば、あの時ジンは、彼女の茶髪一本で「シェリー」が近くにいる事を見破った。
コナン以上に、接近して来る組織の存在を敏感に感じる彼女だ。変装でもしてないと怖くて堪らなかったのだろう。勿論、コナンへの気遣いもあっただろうが。誰かに縋りつきたい心境だったのかもしれない。
彼は自分の被っていた帽子を彼女に被せた。驚いて哀は、彼を見る。
「カツラだけよりこの方がいいだろ」
「え?髪型変えなくて、いいの?」
哀の質問には答えず、そのまま言葉を続ける。
「顔立ちはオレと全然違うし帽子被ってりゃ、オレに間違えられるこたーねえだろ」
窓の外を眺めながら静かに言った。
「ありがとう…」
彼女の礼の一言が聞こえたのか聞こえてないのか、彼はそれきり、また沈黙してしまった。
哀は、初めて彼に逢った時のことを思い出していた。
《ふざけんな!!!人間を殺す毒を作ってた奴を、どう理解しろってんだ!?》
同じ状況に陥った者同士理解しあえる。そう思っていた彼女の甘えに、烈火の如く糾弾した彼。そうだ。彼にしてみれば、彼本来の時間を奪った憎き相手である。解って欲しいなんて願う方が身勝手なのだ。それが解っていながら、どうして自分は彼にそれを求めてしまったのだろう…。責められても、一生憎まれてもしかたがない。
それなのに、何故、彼は私にまでこんなに優しいのだろう。完全に信用しきった相手ではないだろうに…。
《あの女には、気を許すなよ…》
あの時彼がそう博士に言っていたのが、車の後部座席にいても聞こえた。当然のセリフ。クールにそう受け止めていたが、今となっては耳を塞ぎたい言葉だ。もう彼から「人殺し」と思われたくない。そんな事をつらつら思っている内にどうやら駅に着いたようだ。
「降りるぜ」
と哀を促し、コナンが座席を立つ。彼女は彼の後をついて電車を降りた。

階段を下り、コナンは迷うことなく右に曲がると改札口を出た。駅を出て、さらに右へ曲がる。吉祥寺駅南口の繁華街だ。都心ほどではないが、結構人の往来があり賑やかだ。
「危ねえからあんまりキョロキョロすんなよ」
「…そんな物騒なトコへ連れてきたの?」
「そうじゃねえ」
と言ってるところにバスが走ってきた。道幅一杯、というわけではないが、自転車がかなりの数止められている為、ギリギリの幅で走っている。
「なるほど、こういうことね」
哀は納得する。
「ハラ、減ってねえか?メシ奢ってやるよ」
「あら、ずいぶん優しいじゃない?」
「そのかわりおしゃれな店…なんて期待すんなよ。オレ達、見た目小学生なんだからな。ヘタなトコ行ってみろ、補導されちまうぜ?」
「わかってるわよ」
「じゃ、そこのマック行こう。テイクアウトで、いいよな?」
と親指をクイッと店に向けた。

ハンバーガーの袋を手に西に向かってどんどん歩いて行くと井の頭通りに出る。その手前でふと哀は立ち止まった。横の建物が気になった。二階建ての英国パブ風の建物だ。ブラウン系で統一されたその建築デザインは、周囲のどんな建物をも圧倒する、そんな魅力があった。
「ん?どうした、灰原?その店がどうかしたのか?」
「べつに。ただ、こういうイギリス風のお店、あなた好きそうだなと思って」
コナンはジトッと彼女を見る。
「…ハンバーガー、気に入らねーのか?」
「…勘繰りすぎ。そうじゃなくて、あなたなら本当はこういうところ入りたいんじゃないかって、思っただけよ」
彼女が何を気にしていたのか、わかった。彼はフッと笑い、彼女の帽子の上から頭をクシャッと撫でた。
「ランチ、やってりゃあな。そこ、夕方からしか開いてねえぜ?それに、たとえ本当の姿でも、そこはちょっと入れねえな。酒が飲みたくなっちまうじゃねえか。未成年なのに、そりゃあいくらなんでもマズイだろ?」
と笑う。本当にお酒が飲みたいわけではないのだが、とりあえずそう言ってみる。
「好きそうな店って言えば、オメーの好きそうな店ならたしか北口のプチロードの辺りにあったぜ。なんか書斎みてーな喫茶店だったな。横文字の本なんか結構あってよー、オメーだったらそこに一日いても退屈しねーと思うぜ?夕方からはバーになるけどな」
「…詳しいのね。前に誰かと来た事あるの?」
「小さくなる前に二度ほどな。依頼を受けてちょっと足のばしたことあるんだよ。あ、さっき言った店、興味あったら今度博士も誘って行こうぜ?大人がいりゃあ問題ねえよ」
「そうね、博士と一緒だったら、安心ね」
と別の意味を込めて言ってみる。きっと、ふたりきりで出かけることなんて、二度とないだろうから…。
「だろ?保護者付きだったら安心して長居できるぜ?」
ニカッと笑ってコナンは先を歩き出した。
……やっぱりこの子、ニブイ…と彼女はコナンに聞こえないように溜め息をついた。他人の事ならすぐ気付くくせに、自分が絡むと急に鈍くなるのは何故?…まあ、そういうトコロが彼の可愛いとこでもあるのだけど。
それにしてもなかなかいい街ね、と彼女は思った。昔、誰かが書いた武蔵野とは様相が違い、「ジョージ」と呼ばれて若さ溢れる華やかな街だが、不夜城のような無機質さはない。きっと、ここは夜になっても人を包み込むような温かさがあるのだろう。そんな思いを巡らせながら彼について行き、井の頭通りに出た。
公園通りを歩き始めてからほどなくして、細い小道に入った。ほのかに甘酸っぱく瑞々しい香りが漂っている。
『…沈丁花?』
哀は一瞬立ち止まり辺りを見渡した。淡い紫紅色の小さな花がたわわに咲き誇っている。春の訪れを知らせる愛らしい花だった。彼女はその芳香を深く吸い込んでみる。そこはもう緑に囲まれた別世界だった。
この公園の桜の季節は格別だ。公園内にある大きな池でボートに乗りながら、水面に映る桜の花を眺めるカップル達の姿は結構有名である。だが今日の桜は、花見をするにはまだ早い。
もっとも、コナンは、だからこそこの時期を選んで来たのだ。桜が見ごろになってしまえば、大勢の人々がここにやってきて、ゆっくり話どころではなくなってしまう。
雑木林の中をゆっくり歩きながらコナンは
「ふーん…これかぁ……」
と一人で納得している。これか…と呟かれても、哀には何のことだかさっぱりわからない。
「『武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向く方へ行けば、必ず其所に見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美は、ただ其の縦横に通ずる数千条の路を、当てもなく歩くことに由って始めて獲られる…』」
そこまで暗唱するとやっと哀の方を見た。
「国木田独歩。現国の時間、やンなかったか?」
「現国?」
「…あ、そっか。おまえ、アメリカの学校行ってたんだったな。国木田独歩の『武蔵野』ってゆー、浪漫主義のかったるーい小説なんだけどよ。読んだことあるか?」
「ええ、一応…。で?その小説がどうかしたの?」
「いや、べつに…。この間久し振りに高校の教科書や模試の問題だとか見てたんだよ。現国は丁度今、その部分にさしかかっててな」
木々の間から洩れてくる光に手を翳して目を細める彼を、哀は複雑な思いで見つめていた。何故今頃そんなもの見るのか…。だいたいの察しはついたが、黙って彼の話を聞いていた。
「問題の例文読んでるうちにさ、見たくなっちまったんだよ、本物が」
と、彼は少し、笑った。
『やっぱり…』
哀は確信した。人間、妙に緑が見たくなる時はどういう時か。答はひとつしかない。彼がそれを自覚しているかどうかはわからないが…。自覚する余裕もないかもしれない。
決して人前で弱音は吐かない彼。もしかすると「吐かない」のではなく「吐けない」のかもしれない。そこまで彼を追い込んでしまった原因の一端は自分にある。哀は責任を感じずにはいられない。
池の辺に沿って歩いているうちに野外ステージが見えてきた。
「メシ、ここで食おうぜ」
とにこやかに哀の手を引いた。幾つか並んでいるベンチの中で、二人は最前列の真ん中に座る。周囲に人影はあまりない。犬の散歩をさせる人や、小さな子供を遊ばせている若い母親数人ぐらいだ。野外ステージの舞台には誰もいない。
「勿体無いわね、あの舞台。何にもないなんて」
「この時期こんなモンだろ。劇団研究生が舞台稽古するにはもってこいの場所だけどな。まだちょっと肌寒いからじゃねえか?」
とハンバーガーをぱくつきながら前方を眺める。
「そういえば、工藤君って女優の息子だったわね」
「あぁ、『元』がつくけどな」
「役者になりたい…なんて、思ったことはないの?」
「あー、そーいやー考えたこともねえなー。ガキの頃から父さんについてって事件の現場見たりなんかしてる方が楽しかったしな」
「なるほど、その好奇心旺盛さは今も昔も変わらずってわけね?」
「ほっとけ」
拗ねた彼の表情にクスッと笑う。「江戸川コナン」ではなく「工藤新一」の幼い姿を垣間見たような気がして彼女は嬉しかった。彼自身の幼少時代をもっと知りたい。そう思いながらテイクアウトしてきたハンバーガー食べ、他愛のない会話を続けるこの瞬間を、哀は心穏やかに過ごしていた。月並みだが、時がこのまま止まればいいのに、と感じていた。
『毛利さん、今だけ…今だけ彼とこうして過ごす事、許して……。一生に一度だけの私の我儘を……』
食べ終わった後、コナンは立ち上がり
「ゴミ、捨ててくっから」
と哀の分も持った。
「あ、自分で捨てるわよ」
「遠慮すんなって。オレの方がゴミ箱近いし。オメーはそこで座ってろよ」
 ゴミを捨てて戻り、再び彼女の隣に座る。
「ありがと」
「いいって」
コナンはパーカーのポケットに両手を入れたまま、静かに深呼吸をする。どういう風に話し始めようかと言葉を選んでいた。だが、いざとなるとヘンに気負ってしまい、うまく話せない。さっきの雑談の時にもチャンスを窺っていたのだがうまくいかなかった。話題が話題だけに、タイミングが難しかった。
暫く続いた沈黙を破るように哀が重い口を開く。
「…ねぇ、前から聞こうと思ってたんだけど」
「あん?」
「どうして工藤君は…」
緊張のあまり指先が冷たくなる。両手をぐっと握り締めて勢いをつけて尋ねてみた。
「私にも、こんなに優しいの?」
コナンは唐突な彼女のセリフに出端をくじかれた。意識していない事を聞かれ、返答に困ってしまった。それに、何故そんな事を聞くのか?彼女がわからない。
「そ…そー言われても……。や…優しいか?オレ?」
「優しいわよ。呆れるくらいにね」
「何か褒められてるよーな気がしねーんだけど?」
「言葉どおりに解釈して」
「煽てたって、なーんも出ねえぞ?」
少し顔を赤くして彼女から目を逸らす。
「何も期待なんかしてないわよ」
「あ、そ…」
「…だって、…工藤君から見れば、私は…100%は信用出来ない存在のはずよ」
信用出来ない存在…。彼は鋭く反応し、もう一度彼女を見た。
「それに…それに…私、あなたを困らせた。あなたに好きなひとがいることを承知のうえで、私…」
「灰原」
それ以上言わせまいと、コナンは首を横に振った。
「もう、それ以上…自分を責めるな」
静かにそう言うと、彼女の瞳を真摯な瞳で見た。
「確かに、おまえには謎が多い。けどな」
一呼吸おいて、今日一番言いたかった事のうちのひとつを口にした。
「灰原、オレはおまえを信じてる」
哀の瞳が大きく見開かれた。息を呑む。
『信じてる?…ど、どうして?』
忘れもしない、初めて彼に正体を明かしたあの夜の事。鮮やかに脳裏に甦る。
あんなに激しく自分をなじった彼。俄かには信じ難い彼の言葉。哀は狼狽して彼を見た。コナンは淡々と話し続ける。
「いつだったか、オレに言ったよな?毒薬を作ってるつもりなかった、って。ヤツらが開発中の薬を勝手に投与したって」
鎮痛な面持ちで彼女は頷いた。
「…で、おまえはそれに嫌気がさして組織と縁を切った。…それでいいじゃねえか」
ベンチから立ち上がり前へ進む。彼の背中を言葉もなく哀は見上げた。
「たしかに罪は罪だ。だけど、大事なのはそれをどうやって償っていくかだ」
振り返って哀を見る。逆光に浮かぶ彼の姿が眩しく感じながらも、彼女は彼から目を逸らせない。コナンの声が、哀の冷たく渇ききってひび割れた心に、深く深く浸透していく。
「決して、自分を追い詰める事なんかじゃない」
熱いものが込み上げてくる。彼女の目に涙がじわりと溢れてくる。
「灰原、もう必要以上に自分を苦しめるな。せっかく新しい名前で人生やり直してンだからよ」
溜まった涙が哀の頬に伝ってくる。温かい…。初めて自分の涙に体温を感じたような気がした。
「それに、例えばさ、殺人事件に使われた凶器が包丁だったからって、鍛冶匠や金物屋を恨むヤツなんて、いねえだろ?おまえ、オレに対して何かすげえ罪悪感持ってるみてえだけど…オレはおまえを恨んでなんかいない」
彼の声はどこまでも温かく優しい。声に抱き締められてるような心地になる。
「オレはおまえのこと信じてるぜ。言えば…戦友みたいなモンだろ?」
──戦友──
「…悪くない響きね」
哀は指でそっと涙を拭うと立ち上がり、ベンチから離れた。
『だけど、本当に悲痛な戦いをしているのは、あなたの方だわ。工藤君?』
「でも、どうして?どうしてそんなに自身たっぷりに『私を信用する』なんて言えるの?根拠が理解らないわ。何故?」
そう、組織の謎をすべて話したわけじゃないのに。それは彼が一番欲しがっている情報のはず。それがないのに何故?
「さあな…」
コナンは微かな笑みを浮かべ
「オレにもひとつくらい謎を持たせてくれよ。おまえ一人で謎の女やってるなんて、ちょっとズルイぜ?」
と肩をすくめておどけてみせた。
「そういう問題?」
「そ、そういう問題」
両腕を頭の後ろで組み、ニカッと笑う。不思議そうな顔をしている彼女を見るコナンの瞳が優しい。本当は根拠の一部に、彼女の組織の気配を感じ取った時の怯えた様子が尋常じゃなかった事、そしてバスジャック事件で彼女が自らの命を終わらせようとした事などがあったのだが、彼は敢えてそれを口にしなかった。
ふたりは池の辺に歩を進めた。
昼下がりの陽光が乱反射する水面を遠い目で見ている彼の傍に歩み寄る。横顔が何気に淋しそうに見えるのは気の所為だろうか。哀は、このまま彼が消えてしまいそうな不安に駆られる。
「なあ、灰原」
相変わらず池の方に視線を向けたまま、彼は彼女を呼んだ。哀は黙って隣に立ち、彼の横顔を見つめる。綺麗だと、思った。本来、男の子にそう言う表現はあまり本人にとっては喜ばれないものなのだが、何故か哀はその時そう思った。そしてその美しさの理由を思い、気持ちが憂えた。
「オレをこんな姿にさせやがったジンの事、組織の事。絶対許せねえと思っている。これの所為で今、オレや周りのみんながどんな思いしてるか…、それを思うと断じて許せねえ。
けど、それとは別に…オレ自身が…許せねえ……」
哀の心臓がドキリと鳴った。顔が強張る。
「事件とみると見境なく首を突っ込む。あの頃のオレは、周りからチヤホヤされて少しいい気になってた。それできっと油断してたんだろな。背後からヤツが来るのも気付かず、その結果がこれだ」
自嘲気味に笑う。
「自業自得だ…。いろんな人に迷惑かけて…。ホント、ロクでもねーヤツだよ、オレは。なのに、この間は…おまえに八つ当たりして…酷い事を言っちまった。おまえの気持ちも考えず…自分の事ばかり……。灰原、おまえだって家族亡くして…辛い思いしてきたのにな……。ある意味おまえも被害者なんだよな。謝ってすむとは思ってねえけど…」
コナンは彼女のほうに体を向け、頭をさげた。
「灰原、ごめん……!」
彼女は驚いて彼を凝視した。彼が自分に対してこんな罪悪感持っていただなんて…!正直あの時、確かに彼女は深く傷ついた。けれど、彼の言う事はその通りだと、どこか納得していた部分もあった所為か、今の今まで忘れていた。それにそんなことより、彼女にとってもっと衝撃的な事が心を占めていて、逆に彼女の方がそれについて彼に謝罪したいくらいだった。ただ、彼は哀にそれをさせようとはしないのだが。
「…やめて、工藤君」
哀は目を細めた。
「あなたが謝る必要ないわ。当然の事を言っただけじゃない」
「当然なんかじゃねえ、オレは…!」
言いかけた彼の唇に、彼女は人差し指を軽く当て言葉を塞いだ。
「…それ以上は言わないで。もう、忘れましょう。そんな事よりもっと大事なことがあるはず」
人差し指を離し、池の方を向く。
「…大事なこと?」
「ええ、あなた自身のことよ」
と彼の方を見る。今日、彼に会ってから、いつもと違う感じを見て取った彼女は、公園に来てから彼が洩らした一言で確信に近いものを感じていた。それを確かめようとコナンをまっすぐ見つめた。
「オレ自身?」
「……どうして今になって高校の教科書なんて、見てるの?」
「え?」
「あなたがそんなに学校の勉強好きだとは、思えないんだけど?」
彼は彼女が言外に何を聞こうとしてるのか、わかった。心中に暗雲がたちこめる。それを悟られたくなくて明るく笑いながら答えた。
「あ〜、たまには広げてやらねえとよー、カビがはえちまうじゃねえか、ハハハ…」
「…それ、面白くない」
哀は冷たく言い放った。コナンの顔が引きつる。
「わ…わーってるよッ。…オメーが急にヘンなこと聞くから…」
「人の所為にしないで。それにヘンなことなんて聞いてないわよ。真面目な話してるんだから茶化さないで」
真剣な瞳で彼の双眸を直視する。視線を逸らすことを許さないような厳しい瞳で…。
 彼女の前で誤魔化しは通用しないようだ。コナンは諦めたように溜め息をついた。
「…すっかり、小学生の生活に慣れちまって、時々思うんだよ。ヤバイヤバイと思いながらもどうしようもなく…オレって流されてるよなって……」
池の辺に座り水面に視線を投げやる。哀も隣に座った。
「そりゃー、小学校に逆戻りして、それに慣れ始めた頃はいろんな事が懐かしかったよ。懐かしいとでも思わなきゃやってけなかったってのもあるけど…」
隣に座る哀を見ながら
「まー、おまえが来てから少しは気が楽になったけど。それでもやっぱり…な。オレのこと本当に友達だと思って無邪気に寄って来るアイツらのこと、可愛いと思う反面、疎ましく思う時もあって…」
また溜め息をこぼす。
「仕方ないじゃない。あなた本当は高校生なんだもの。当然の心理よ。私みたいに突き放した態度がとれなくて、ついあの子達に付き合ってしまう」
空を仰ぎながら彼女は言った。
「いいんじゃない?あなたらしくて。その人の良さがあなたのいいところなんだから…。そんなことで悩んでるわけじゃないんでしょ?」
チラッと彼を見やる。
「前におまえから貰った解毒剤の試作品で一時的に元の姿に戻った時だってそうだ。アイツらに思わず『コナン』のつもりで声かけちまってる。それに……」
そこまで言いかけて口を噤んだ。
学校に遅れそうになって駆け出す蘭に向かって、ついいつものクセで
《あ、待てよ、蘭姉ちゃん》
と言ってしまった。訝しげに見る彼女に冗談だと誤魔化したものの…。「新一の言葉」と「コナンの言葉」がごちゃ混ぜになったのはその時だけではない。つい最近、最もしてはいけない「失敗」をしてしまっている。「コナン」の姿で……。
 振り払うようにかぶりを振った。
「いや…何でもない」
手にした小石を池にポーンと放り投げる。水面に落下した石を中心に輪が広がっていく。波立つ輪を見つめながら
「ま、いいじゃねえか。これだけ見てりゃ、いつ戻っても充分高2やってけるさ。成績だってバッチリだぜ?」
と笑う。だが、哀はその笑顔の前にほんの一瞬見えた悲壮感漂う表情を、どうしても放っておけなかった。
きっと、何か、あった。それも極最近…。詳細はわからないが、だいたいどういうことが原因かは、想像がつく。
他人の恋路に首をつっこむ趣味はないが、彼らに関してだけは、そうも言ってられない。自分が開発中だった薬が原因でおかしな事になっているのだし、それに生命の危機が懸かっている。亡くさずにすむ方法があるのなら、それを実行しなければ。そして、本来そうであるべきの人間関係を修復しなければ…。それが、私の責任だから…。
だけど……。
『気が重いわね…』
彼が話したがらない理由もわかっていた。無理に話させるなんて、主義に反するのだが、彼女には不安要素を否定しきれずにいた。
彼は、強い男だ。それはわかっている。でも、彼に降りかかっているこの状況は、いくら精神が強くても普通ならキャパを軽く超えている。それを事も無げにこなしているように見えれば見える程、後の反動が怖かった。今は『彼女』を守るという事 (勿論、組織を潰さねばという彼の正義感もエネルギーになってはいるが)で、彼自身この状況を甘んじて受け入れている。だが、もし、彼の生き甲斐とも言える彼女との間の事で何か問題が発生していて、それがとんでもない事態になっていたとしたら…。その結果、どうなってしまうのか。哀は身震いしそうになる。『その先』を想像するのが怖い……!
やむを得ないか、と半ば諦めにも近い心境で軽く溜め息をつくと彼女は、コナンの方に手を伸ばし、彼の眼鏡をはずした。
「お、おい、何すンだよ。ちょっ…」
眼鏡を取り返そうと腕を伸ばすが、彼女はそれを阻止しながら眼鏡のテンプルをたたみ、彼のパーカーの胸元から見えるTシャツの衿首のところに眼鏡を挿した。コナンはキョトンとした顔でそれをしげしげ眺め、それから哀に視線を戻す。彼女の行動が理解出来ないとでも言いだ気な顔で…。哀はしょうがないわねとばかりに首を傾げ、微かな笑みを浮かべる。
「今は『江戸川コナン』でいる必要、ないのよ?」
はぁ?と口を開け、コナンは訝しげに彼女を見る。
「何なんだよ?さっきから…」
「…何があったの?」
「え?」
「彼女との間に、何があったの?」
コナンの身体が硬直する。哀に蘭の話をすることは、あれ以来ずっと避けてきた。その方がいいと思っていた。なのに彼女の方から聞いてくるなんて…。躊躇していると
「話したくないのなら、それはそれで仕方がないけれど」
哀は事務的な口調で話し続ける。
「でも、短い間だったけど、私も『江戸川コナン』を演じたことがあるのよ」
ハッとした。そうだった。蘭に正体を見破られた頃、それを否定するため命懸けの選択をした時、彼女に一世一代の芝居を打ってもらったのだった。
「もしかしたら、状況によってはまたそうすることがあるかもしれないわ。解毒剤を服用したら暫くは様子をみなければいけないんだし。ま、今の段階ではいつ『その時』が来るのかは全く読めないけれど、でも…」
チラッと彼を見やる。
「私には、聞く権利があると思うんだけど?」
張り詰めた視線が絡み合う。そう言われてしまえば、拒めない。でも…。コナンは迷いを棄てきれないまま彼女を見る。哀は視線を逸らさずに真っ直ぐ彼の視線を受けている。
確かに、彼女には世話になっている。自分でさえ『コナン』を演じる時、慣れてきたとはいえ苦労する。演技を生業にしてるわけでもないのに、ましてや彼女は女だ。男の子を演じるのにどれだけ苦労しただろう。それもあまり面識のない毛利のおっちゃんや蘭の前で。特に蘭の前での演技が一番難しいはずだ。『コナン』いや『新一』を誰よりも一番よく理解している人間なのだから。油断するとすぐに別人だと見破られてしまう。そんな状況下で、ばれることなく彼女はうまく演ってくれた。
『…誤魔化しは、効かねえな……』
疲れたような笑みを洩らすと彼女を一瞥した。
「おまえの勘のよさにはまったく脱帽モンだぜ、灰原」
彼は覚悟を決め、自分が「江戸川コナン」の姿のまま、蘭に告白してしまった経緯を話し出した。話しながらなんだか情けない気分になってきた。哀は無表情で彼の話を聞いている。いつかやるだろうとは思っていたが…。とうとう…。彼女は溜め息をついた。
「…あれほど言ったのに。感情に流されちゃ駄目って。それで?その後どうなったの?まさか、組織の事は話さなかったでしょうね?」
「ああ、話してねえよ。話せるわけねえだろ。そんな余裕もねえよ」
吐き捨てるように言う。
「こんな格好で言いたかなかったことだしよー。誤魔化すのに必死になって、とても組織どころじゃなかったよ。ま、セリフ的にほとんど『江戸川コナン』だったことが、せめてもの救いってトコだったな。『新一兄ちゃんと一緒の蘭姉ちゃんが好きだなあ』って言ってから、なんとか学園祭の時の話題に持っていって、『新一兄ちゃんの嫁さんみたい…』てなこと言って意識を工藤新一に向けさせてから『新出先生より似合ってる…』って、脳みそがとけそーなほど苦しい言い分をぶちまかしちまったよっ」
コナンは頭を抱えて溜め息つく。
「…安心しろ、灰原。あまりにカッコ悪すぎて、たとえ元の姿に戻ったってコナン=新一でした…なんて口が裂けても言えねえからよ」
「そうね…。元に戻ったとき、彼女にその出来事思い出されたら、あなたまるでプロポーズしたみたいなものだものね。ちょっとシチュエーション的に…」
そこまで言って話すのをやめた。…アホらしい。何でそんなことまで心配してあげなければならないのか。そんな話、元に戻ってから二人だけでやって欲しいものだと、彼女は思った。彼を一瞥する。哀の一言でさらに底に落ちてしまったようだ。やれやれ……。
「それで?彼女にその誤魔化しは通用したの?」
「まあな…。でも、余計な心配かけたって謝られちまった。謝るのは、オレの方なのに…」
思い詰めた彼の表情に、哀は少しイヤな予感がした。彼女に対する想いの深さ、それに罪悪感に駆られてとんでもない事を口走ったりしていないだろうか…?一抹の不安を感じた。おそるおそる聞いてみる。
「それで…彼女に何か言った?何て言ったの?」
「ああ…」
コナンは立ち上がって彼女に背を向け、俯き加減のまま、擦れた声で言った。
「『新一兄ちゃんの気持ち、ここに預かってきた。だから、もし淋しくなったら、ボクを見て新一兄ちゃんだと思ってくれてもいい』」
哀は我が耳を疑った。思わず立ち上がる。呼吸が止まる思いでコナンを見た。
「『ここに……新一兄ちゃんがいるから、新一兄ちゃんの気持ちがここにあるから、代わりにボクが蘭姉ちゃんの傍にいるから、だから泣くな』…ってな」
そこまで話すと彼は静かに瞼を閉じた。哀は瞳を見開き顔面蒼白になってかぶりを振った。彼の肩を掴んで自分の方に向かせ、震える声でめいっぱいの非難を浴びせる。
「…あなた…自分が何を言ったか、解ってるの?呆れてものが言えない……!」
「…オレだって、伊達や酔狂でンなこた言わねえよ」
コナンの瞳に昏い光が浮かぶ。
「それに、オレは自分の正体はバラしてねえぜ。新一だと『思っていい』とは言ったが『新一本人だ』とは一言も言ってねえ」
「同じことよ。とても正気だとは思えないわ…!あなたね、何のためにあの時、あなた命懸けで薬飲んで、私があなたになりすましたと思ってるのよ!それを…」
「人の話ちゃんと聞けよ!考えもなしにオレがそんなこと言うわけねえだろ!」
と彼も怒鳴り返した。
「冷静になってよく考えろよ。正体を隠して他人になりすましてる人間が、わざわざその正体の主だと思っていい…なんて普通言うか?本当にそう思われていいなら正体隠す意味なんかねえ、…って大抵の人間そう思うだろ…。ましてや、コナンと新一じゃ年が違いすぎる。学園祭の時にしっかり姿をみせて、コナンは新一じゃねえって視覚的にも否定してんだから、…ああ言うことによってさらにコナン=新一を否定したことになるんだよ」
苦しげに声を絞り出す彼を見て、彼女の激昂は波が引いていくように静まりかえってゆく。
「…理屈は、わかるわ。でも、そんな大胆な賭けのような嘘、どこまで通用するかしら?バレたらどうするつもり?そこまで考えてのことでしょうね?今度は私、面倒見切れないわよ?」
「わかってるよ。でも、ほかにどう言えばよかったんだ?アイツのあんな顔見て…いつだってオレはアイツを泣かせてばかりで…、それに…」
唇を噛み締め目を細め、また彼女に背を向けた。
「オレは…あいつに…『疲れた』…なんて言わせちまったんだ…」
空を振り仰ぎ、手をかざした。今の彼には、春の青空が眩しすぎた。直視できない。
「…最低だよな、好きな女を疲れさせるなんてよ……」
と淋しそうに笑った。ハスキーな彼の声がこんなに哀しく響いたこと、今まであっただろうか。哀には、もう、何も言えなかった。ただ、じっと彼の後ろ姿を見つめることしか出来なかった。立っているのがやっとという感じに、彼女の瞳には映った。
『背中が、泣いている…』
実際に泣いているわけではないが、哀にはそう思えてならなかった。いっそのこと、本当に泣いてもいいのに…。彼は、決して、涙を見せない。泣かないことで自分を保っているのかもしれない。そう思うとよけいに痛々しい。
「命だけ守ってもしょうがねえだろ。あいつの心壊しちまったら…こんな芝居、まったく意味ねえンだよ……!」
コナンは自分の両掌をひろげ、じっと見ている。
「こんな身体のままじゃ、アイツを完全に包み込んでやれねえ…」
学園祭の時、劇中で蘭を抱き締めた時のこと、そして先日コナンの姿のままで彼女を抱き締めたときのことを思い出していた。身体の大きさの違いが、そのまま彼女との間の距離に思えてならなかった。
「博士に作ってもらったアイテムがなけりゃ…オレは何ひとつ満足にアイツを守ってやれねえ。こっちが守ってるつもりでも、逆に守られちまうときだってあった。男としてこんな情けねぇ話あるか?丸腰のオレは、こんなにも無力なんだよ」
掌をグッと握り締める。爪が食い込み痛みを感じるほどに…。
『無力なのは、私の方よ、工藤君…』
哀は声にならない声で、そう語りかける。コナンはポケットから、蝶ネクタイ型変声機を取り出す。それを見つめながら
「コイツの最後の声が『江戸川コナン』だといいと、ずっと思ってた。けどよ…」
「けど…?」
「オレは、蘭をただ縛り付けてるだけじゃねえか…って、最近思う。『待ってて欲しい』って言ってアイツを束縛して苦しめてるだけかもしれねえ。いつ戻るともわからねえよーな、あてにならない男をな…。オレの我儘で、こんな馬鹿げたことにアイツを巻き込んでいいはずねえよな…」
 彼は、焦っている。彼女との間の事、それに直結する自分たちの将来の事……。その起爆剤になったのは、おそらく、自分の軽率だったあの行為。哀はいたたまれなさを感じずにはいられなかった。自分の告白は、ただ彼の焦燥感を煽り立てただけだ。そして、自分の勘違いに気付くきっかけになってしまった。
――彼とあの娘の間にある感情はまさしく幸福へと形を成すもの。――
そう思っていたけれど、今のままでは…、彼の想いが深くなればなるほど、蘭との間にあるものが……!
「工藤君、まさか…まさかとは思うけど、あの娘との間に距離を置こう…なんて、考えてないでしょうね?」
彼は、何も答えなかった。ただ黙って遠い瞳をしていた。哀の中にあった一点の染みが一気に広がっていった。
「工藤君!」
「…離れねえよ。オレはずっと、アイツのこと守る。元の身体に戻ったら、すぐにでもアイツに逢いに行く。その気持ちは今でも変わりはない。ただ……」
「ただ?」
「実際問題として、いつ完全に元に戻れるかは、わかんねえだろ?」
「ええ…そうね…」
「近いうちに戻れれば何の問題もない。けど、もし10年近くかかったとしたら…」
あまり考えたくはないが絶対ないとは言い切れない。彼女は否定出来ない自分に悔しさを感じながら、黙って聞いていた。
「オレひとりの問題だったら我慢出来る。小学生だって中坊だってなんだってやってやるさ。でもそんなことにアイツまで付き合わせちゃいけねえんだ。長い間待つ苦しみなんて味わわせたくねえ。もう、解放してやりてーんだよ。アイツの幸せを邪魔する権利なんて誰にもねえんだから…」
場合によれば自分は身を引くとでも取れるような、悲痛な叫びを聞いたような気がした。
『…身を引くのは、私の方なのよ。工藤君』
彼には幸福になって欲しい。彼女は心底そう願った。
哀はコナンに近付くと
「彼女の事忘れるなんて、出来もしないクセに…。何ひとりでカッコつけてるのよ?」
少し厳しい彼女の声にコナンは振り返った。
「あなた、何もわかってないのね。そんな風に遠ざけられたら余計、心に残って忘れられなくなってしまうものなのよ?」
諭すように彼女は訴えかける。
「男を愛した女って、あなたが思うほどヤワじゃないわ。そうね…例えば彼女にあなたの真実すべてが知れてしまったと仮定する。彼女はまず、薬の開発者である私のもとに来るでしょうね。そして、きっとこうなじるでしょうね。『新一を元に戻して。時間を返してよ』ってね」
哀は痛い表情をしながらも話を続ける。
「そして、今はそれが出来ないとわかれば…ひょっとしたら……」
彼女は躊躇うように目を閉じる。あまり、想像したくないことだ。例え話でも口にするのは辛い。コナンは少し焦れた様子で彼女に続きを促す。
「ひょっとしたら…何だよ?」
もし、自分が彼女だったら、彼と同じ境遇になり彼との間にある壁を自ら取り払う為に、死を覚悟のうえできっとこう言うだろう。
彼女は吐息をつくとこう続けた。
「同じ薬をちょうだい…って、言うかもしれないわね……」
「なっ…!」
息を呑んだ彼の瞳がカッと見開かれ、哀につっかかる。
「それだけは絶対ダメだッ!死ぬかもしれねえんだぞ!死ななかったにしてもこんな姿になって苦しむことになるんだ!そんなのおまえだってわかってるハズだろ!そんなことしてみろッ、オレはおまえを一生許さねえからなッ!!」
声を荒げて睨みつける彼を、哀は深く澄みきった湖を思わせるような瞳で静かに見つめた。蘭のことになると、いつだって感情に流されてしまう。そう、いつでも彼は……。彼女はフッと笑った。
「バカね。そんなモノ渡せるくらいなら、あなた今頃めでたく元の身体に戻っているわよ」
「あ…」
そりゃあそうだ。薬が手元にあるのなら、成分分析して今頃解毒剤のひとつやふたつ出来ている。ついムキになってしまった。冷静に考えればすぐにわかることなのに…。
「…怒鳴って、悪かったよ」
きまり悪そうにコナンはボソッと謝ると、胸元の眼鏡をとって身につけた。その仕草がなんとなく可愛くて微笑ましく思った。
「それに、あれは例え話。好きな人の為なら命張ることだって辞さない。女はそれくらい強いのよって言いたかっただけ」
彼女はシビアな口調でさらに言葉を続ける。
「APTX4869はそのままで存在することは許されない薬。安心して。私にだって化学者としてのプライドがあるわ。誰にもそんな薬二度と投与しない」
過ちは、決して繰り返さない。彼女の意思の堅さは、瞳を見れば一目瞭然だ。
「わかったら、彼女から身を引こうなんて馬鹿な考え、今すぐやめることね。そんなことしたって誰も前へは進めないんだから」
そう、新一や蘭は勿論のこと、哀自身も…。
「あなたさっき、私のこと信じるって言ってたわよね?」
「ああ」
「だったら、信じて待ってて」
彼女は彼に心を込めて言った。
「あなたたちを、このままの状態なんかにさせやしないから。必ず…必ず解毒剤は完成させる」
「灰原…」
「約束するわ」
「……サンキュ。でもあまり根詰めることだけはしないでくれよな?身体壊すぞ?」
穏やかな視線がかわされる。同じような痛みを持つ者同士だけの、いたわりあいの優しい空気が流れる。これでいい。彼女は満足感を得た。信頼関係、それさえあれば私は生きていける。哀は目を閉じて心の中で呟いた。彼はきっと気付かない。それでもいい…。

――たった一度しか手渡さない、あなたへのラヴレターなんだから……――

 もうすぐ、桜は咲く。いつの日か心の底からの笑顔で、この美しく艶やかな花々を見ることが出来ますように……。そんな願いを春の淡い青空はあたたかく包み込んでいた。

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