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 3月も半分過ぎたというのに、この寒さは何だろう。折角咲いた梅の花まで縮こまってしまいそうな雪が降っている。おまけに風まで強いときた。こんな日は、寄り道をしないで真っ直ぐ帰り、温かいココアでも飲んだほうがよさそうだ。本当はコーヒーがいいのだが、まだ子供だから、と蘭があまりいい顔をしない。しかたがない。子供のフリをするというのはそういうことだ。
今日は、蘭が家にいるはずだ。期末試験も終わり、今は春休み直前のささやかな連休期間だ。高校入試試験会場のため、教室を開けておかなければならない。
『…もうそんな季節か……』
探偵事務所へ上がる階段を遠い目で見つめる。ランドセルがやけに重く感じてしょうがない。ランドセル…。何故自分は今そんなモノ背負っているのだろう?一日一日経つ時間がそのまま、彼女との距離のように思えてならない。湧きあがる孤独感を押さえ込むようにコナンは下唇を噛み締めた。
ここ半月ほど「現実」をいろいろ考えた。今まで「迷宮入り」なんて考えたこともなかった。身の周りで起こる事件はひとごとで、いつも客観的に捉え次々に解決してきた。自分の身に起こった「事件」もどちらかといえば客観的に見てきた。いや、主観的に見るのが怖くて今まで意図的に蓋をしてきただけなのかもしれない。だが、今度ばかりはそうもいかなくなってきた。
ヒトの感情は、厄介なほどに繊細だ。その繊細な別の糸が、自分と蘭の間の糸に複雑に絡み合ってくるのを感じた。たった一本の糸さえ「工藤新一」の不在が影響して、安定させるのが難しいのに、そこへ何本も絡んでくると、解いて真っ直ぐな糸にするのに時間がかかり過ぎてしまう。それでも、解けるのならまだいい。解けずに絡まり過ぎて、その張り詰めた糸が切れてしまう事のほうが問題だ。そんな事になれば、その勢いで蘭が壊れてしまう。蘭だけじゃない。絡んだ糸の先の存在が皆、壊れてしまう。自分の不甲斐なさの所為で…。それだけは、避けなければ。
一瞬、一人の少女――赤茶色の髪をした少女の涙が胸の痛みを伴って脳裏に浮かぶ。
灰原哀。蘭とはまた別に傷つけたくなかった少女……。いや、実際のところ自分よりも大人の女性のはずだ。いつも自分の感情は表に出さず冷静な彼女…。そんな彼女に自分は決して許されない残酷な事を口走った。そして見てしまった思いがけない涙…。
あの日から胸を離れないでいる。彼女が泣く姿を見るのは初めてではない。前に一度、姉を想って号泣する彼女を自分はただ見ているしかなすすべがなく、自分のポロシャツをぎゅっと握り締め肩を震わせている彼女を黙って立ち尽くしたまま見ていた。だけど今、記憶の中にある彼女の涙は自分の所為だ。いた堪れない気持ちを振り切るかのように顔を横に振った。
『どうすればいい?どうするのが一番いいんだ?』
わからない。本来なら絡んだ糸が少ないうちに早く結論を出すべきなのだが、通常の人間関係と違って「それ」をするということは、蘭に自分の正体を明かさなければならなくなる。それは、禁止事項だ。何も策がない以上、このままの状態を続けるしかないのか?
――迷宮入り――
初めて、それを意識してしまった。でも迷宮入りさせてはならない。これ以上もう逃げることは、許されない。考えろ、考えるんだ。そんな調子で今日まで過ごしてきた。
昇り慣れてしまった目の前の階段を見ながら、ふと
『この階段、こんなに長かったっけ?』
なんて思ってしまう。気のせいだな、とかぶりを振り一歩一歩昇って行く。脚が、重い…。

「ただいまー…」
事務所のドアを開けた。だが、人の気配がしない。毛利探偵は仕事かマージャンか、とにかく出掛けているようだ。
辺りを見渡す。蘭も、いない。鍵は閉まっていなかったから家の中にはいるだろう。コナンは3階へ上がった。
リビングに入り、蘭の部屋の方を見る。やはり、家にいた。部屋の扉が半開きになっている。それでも一応ノックした。女の子の部屋に入る前の礼儀である。
「蘭姉ちゃん?」
だが、彼女はボンヤリとしていてコナンの声に気付いていないようだった。
 蘭は机の上に立てたスタンドミラーの前で、手にした細長い小箱を物憂げに眺めていた。やがてその小箱のリボンを解いて包装紙をはずし、蓋を開けた。中にはグリーンジルコンのプチペンダントが入っていた。蘭の瞳が少し大きくなる。ペンダントを取り出し、暫く眺めた後、それを身に着けてみた。スタンドミラーに映った自分の姿を見ながら、蘭は何を思っているのだろう。消え入りそうだ…と感じたコナンは、そっと部屋に入って彼女に再び声をかけた。
「蘭姉ちゃん?」
「コ、コナン君!?」
蘭は驚いて声のする方を向いた。
「びっくりするじゃない。コナン君」
「ちゃんとノックしたし、声もかけたよ。蘭姉ちゃんこそボーッとして…」
「あ、そうだったの?ごめんね、気付かなかった。ねえ、それより、ケーキ、食べよっか。おやつの時間だよね」
と蘭は立ち上がった。
うん、と答えたコナンの視界に彼女の机上が映る。ケースをラッピングしていた包装紙とリボン…。
「どーしたの、蘭姉ちゃん、それ…」
胸の内のざわめきを感じながらコナンは聞いた。
「プレゼント?誰から?」
誕生日はまだ先だから母親からではない。小五郎のおっちゃんでもない。もちろん自分はそんなもの蘭に贈ってない。…となると、まさか…、まさか……!イヤな予感が駆け巡る。頼むからハズレてくれ……!コナンは…新一は願った。
「新出先生からよ」
そのまさか、だった!足元が揺らぐ感覚に襲われた。動揺する気持ちを抑えながら、コナンは必死で平静を装おうとしたが、何故か今日はうまくいかない。
「えっ?!な…なんで?誕生日でもないのに?」
『落ち着けよ!声が上擦っちまってるじゃねえかっ。蘭に変に思われちまうだろ!』
と自分に叱咤する。
「ホワイトデーよ。この間のヴァレンタインデーにチョコあげたから、そのお礼だって」
という蘭の答に、更にコナンは(新一は)動揺する。
「え〜〜っ?!!あ…、あげたのォ?!なんで!?新一兄ちゃんとおっちゃんだけじゃなかったの?チョコ、二人分しか作ってなかったじゃない」
『だから、落ちつけっての!』
言葉と理性のバランスが崩れてゆくのを懸命に支えようとする。そんなコナンを怪訝そうに蘭は
「コナン君にもあげたでしょう?」
「あ…」
そうだった。少年探偵団とお揃いの手作りチョコ、そういえば、あった。彼らと一緒に賑やかにもらったもんだからすっかり忘れていた。それに、ヴァレンタインデーは過ぎていたし、あまりにおやつ感覚に渡されたものだからムードも何もあったものじゃない。義理とはいえそれなりのムードあっても…なんて思いながら、義理っていうのもなーと溜め息ついた日の事を思い出した。
『ま、仮面ヤイバーチョコよか、マシだよな…』
「もしかして、コナン君、折角のチョコ忘れちゃってたの?もう、作り甲斐ないわねー」
と少し不機嫌になる蘭。
「あ、お、覚えてるよっ。美味しかった、蘭姉ちゃんっっ」
「もう…」
慌てふためくコナンの姿に蘭は内心微笑ましく思った。コナンのこういう焦った姿もなんとなく可愛くて憎めない。一時コナンのことを、実は新一ではないか、と疑った時もあったが、新一とコナン(実は哀がコナンの変装をしていたのだが)が二人そろっているのを見て以来、コナンが本当に弟だったらなといつも思っていた。
「もしかして、手作りのを先生にも作ってたの?どうして先生にあげたの?」
一番気になる質問をした。今の自分は、コナンを演じることによって辛うじて理性を保っている。さっきよりは口調が冷静になってきた。よし、この調子だと自分に言い聞かせる。
「先生のは買ったのよ」
「え?いつの間に?ボク知らなかったよ?」
「そんなこと、コナン君にいちいち言わなくてもいいでしょ?」
「…そりゃー…そうだけど…サ」
距離を感じる言葉にコナンは俯いた。たとえ手作りじゃなくても、蘭が先生の為にチョコを買う時間を作ったという事実が彼の心を千々に乱れさせていた。言うに言われぬ想いを抱えたまま、蘭の次の言葉を待つ。「新一」と「コナン」の間で引き裂かれそうな痛みを懸命に耐えながら…。
「それに、新出先生にはお世話になっているでしょ?」
「ふーん…。じゃあ、他の先生にもあげたの?保健室の先生よりよっぽどお世話になってるじゃない?お勉強教えてもらってるしさ」
あくまで小学生の顔してとぼけたこと聞いてみる。なんだかだんだん自分がイヤなヤツになっていくと惨めな気分になってきた。いったい自分は何をしてるんだろう。こうなったのは、すべて自分が撒いた種なのに…。蘭は困った顔しながら答える。
「あー…、だから…、セーター借りたから……ほら、新一のセーター編む時にお手本に借りたじゃない。その時のお礼だからー…」
そんなこと、わかっていた。だけどもう一度蘭の口から聞きたかったのだ。本来わかってることを何度も聞くのはしょうにあわない。なのに、聞かずにはいられなくなった自分に驚愕した。いったい自分はどうしたというのだろう。こんなの、らしくないじゃないかと言い聞かせるそばから、口が勝手に動く。
「ふーん。お礼渡したのにまたもらったんじゃ、お礼の意味ないよね」
自分でも驚くほど、イヤミな口調だ。頭の中でヤメロと叫ぶのに、もはや気持ちがついて来ない。自己嫌悪にどっぷりと漬かってしまった。
腰に両手をあて、コナンの目線に合わせた蘭が
「何よ、コナン君?やけに絡むじゃない?」
と、思い切り不審そうな顔をした。
コナンは焦った。こんな態度、誰がどう見たって不自然極まりない。普通の小学一年生の言動じゃない。
「あっ!い…いや…そっ、そのォ…」
しどろもどろになり、あとずさる。
「それに、コナン君には関係ないでしょ?それに、コナン君?こういう話するのは、まだ早いわよ」
と軽くたしなめる。
 胸に激痛が走った。関係ない。確かにそうなんだけど……。離れていた時間の分だけ、いやそれ以上の距離を感じてしまう。ふたり共に過ごした頃の思い出さえ遥か彼方のように思えてコナンは…新一は淋しくなった。彼女の中にいる新一はまだ変わらずそこにいるのだろうか…。それとも、少しずつ色褪せていってるのだろうか…。それならそれでしかたのない事だが、でも……。
「新一兄ちゃん…」
俯き加減のコナンがボソッと、か細い声を洩らす。
「え?」
蘭には少し聞き取りにくかったようだ。ともすれば震えそうになる声を、子供のフリをする事でその場を取り繕いながらコナンは蘭に確かめる。
「新一兄ちゃんからは…貰ってないの?」
「え?」
唐突に聞かれて蘭は面食らった。
 コナンは、新一としてのヴァレンタインデーのお返しを、蘭にちゃんと贈っていた。彼女に似合いそうなパステルブルーのスカーフを。勿論、配達日指定で。ホワイトデーは一昨日だった。当然もう届いているはずだ。だが、コナンはそれを受け取った蘭の反応をまだ見ていなかった。喜ぶ顔が見たいのに…。何事もなかったかのように日々をおくる蘭。以前のように「新一」という名を口にしなくなった。何故?
上目遣いに蘭を見上げて答を待つ。
「あ、あぁそういえば一昨日宅急便で届いてたわね」
普通に答える蘭にまた不安を感じる。
「ふ…ふーん……。で、何だったの?お返し…」
知っている事をまたわざと聞いた。
「スカーフよ。綺麗なブルーの」
「じゃあ、そのスカーフ、してみてよ。ボク見てみたいなあ…」
突然そんな事を言い出すコナンに蘭は首を傾げる。
「どうしたの?今日のコナン君、何か変よ?」
「べ…べつに…。新一兄ちゃんからのをしてるとこ、見てみたかっただけなんだけど…?に、似合うかなぁー…なんて。ハハハ……」
と笑って誤魔化す。ペンダントをはずして欲しいから…なんて、口が裂けても言えない。コナンは愕然とする。自分がこんなにヤキモチ妬きだったなんて……。
「変なコナン君。…ちょっと待っててね」
クローゼットからスカーフの入った箱を取り出す。蘭はそれを持ってスタンドミラーの前に行き、ペンダントをはずした。それから蘭はスカーフを丁寧に箱から取り出し、ふわりとそれを身に付けた。少し照れたように頬をほんのり染めコナンの方を向く。
「…どう?」
やっぱり思ったとおりだ。そのスカーフは、彼女によく似合っていた。抜けるような白い肌に碧の黒髪、涼しげに輝く大きな瞳をした蘭の美しさが際立つ。コナンは…新一は彼女に見とれていた。子供の身体でさえなかったら…と彼は後ろ手に組んだ両手の指にグッと力を込める。
「コナン君?」
蘭の声にハッと我に返る。
「う、うん。すごく似合ってるよ、蘭姉ちゃん」
「そう?ありがとう」
と微笑む蘭に、また鼓動の高鳴りを感じる。
『ほんとうに、綺麗だよ…蘭……』
心の中で彼女にそう語りかけてから
「いいの貰って、よかったね、蘭姉ちゃん」
とコナンは子供らしい声で言った。
「うん」
そう答えながら彼女はまた鏡を見る。
「でも……」
鏡に映った彼女の姿が儚げに揺らいだのを、コナンは見た。同時に彼も俯き唇を噛み締めた。どうして自分はいつも彼女にこんな顔をさせてしまうのだろう。蘭にはいつも笑っていて欲しいのに。
「手渡しで…欲しかったなー…」
彼女の声がだんだん潤んでくる。
「チョコレートだって、本当は手渡ししたかったのに…。逢いたかったのに…逢いたくてたまらないのに……!どう…して……」
顔を覆って嗚咽した。
また、蘭を泣かせてしまった…。どうして、いつもこうなんだろう。彼女の涙は見たくないのに。無意識の内に彼女の方に腕を伸ばしかけたのに気付き、コナンは寸前で引っ込めた。今、彼女に触れたら…「コナン」でいられなくなる!
震える彼女の背中を見つめ、コナンは…新一は、声にならない声で…慟哭にも似た想いで叫ぶ。
『蘭…オレだって、おまえに逢いたいよ…本当の姿で……!』
「プレゼントなんて…欲しくない。新一…新一さえ帰って来てくれたら……私、何もいらないよ……!なのにあいつ、何もわかってない…」
『わかるよ、わかってるよ…!いつもおまえを、傍で見てるから』
「新一、早く…帰って来てよ…」
『オレも帰りたいんだ、蘭。おまえの元に…!本当の声でおまえの名前を呼びたいよ……』
「新一…何処にいるの?電話の声だけなんて私、もう耐えられない…傍に…傍にいてよ…新一……!」
『ここに…ここにいるよ、蘭…!でもこんな姿じゃ…「ただいま」は言えねえんだよ…。おまえを抱きしめたいのにそれが出来ねえんだよ……!』
「ねえ、いつまで…いつまで待ってればいいの?ずっと…ずっと待ってるのに……!」
『すまない…すまない、蘭…』
「私…も…う……疲れちゃったよ……!」

―………!―

新一の封じ込めていた感情が堰を切って流れ出してきた。どうしようもなく激しい勢いで。もう、止められない。だけど…!彼の顔が苦痛に歪んだ。
『もう待つな。オレなんか、もう、待たなくていいから…!』
コナンは、蘭を、思いきり、抱きしめた……!
「ちょ、ちょっとコナン君?!」
不意の出来事に蘭は驚いてコナンを見た。
「ボクが…ボクが傍にいるから。新一兄ちゃんの分まで、傍にいるから…。もう、泣かないで…」
声を絞り出し、蘭のVネックセーターをギュッと握り締める。
「もう見てられないよ。こんなに苦しんで、こんなに泣いて。蘭のことが好きなのに……!」
「コッ、コナン君?!」
蘭の声が衝撃のあまりひっくり返る。コナンは、ハッと我に返った。
『し、しまった!つい…!ヤバイッ!』
慌てふためいて蘭から離れた。顔がサーッと蒼褪め、蘭から目を逸らし、口を手で押さえる。今、何だかとんでもない事を言ってしまった。好き?…どうしよう。全身に震えがきた。その言葉は、元の姿に戻った時の為に、大切にしまい込んでいたものなのに!しかも、これではまるで、コナンまで蘭の事が好きで、新一とはライバル関係…なんて途方もなくデタラメな図式が出来上がってることになるではないか!蘭を混乱させてしまう。コナンとして今まで築き上げてきた関係が、壊れてしまう。それだけじゃない。彼女の生命を守る為についてきた嘘……努力が水の泡だ。非常にマズイ!
『ごまかせ、ごまかすんだ!こんな身体のまま告ってたまるかよっ!』
蘭は目を白黒させて、ただただ唖然とコナンを見てる。
コナンは引き攣った頬に無理矢理笑顔を作り、愛らしい声でフォローし始める。
「あっ…だだだだだだ…だからねッ!し、新一兄ちゃんと一緒にいる蘭姉ちゃんって、お似合いだから、そーゆーの、なんか好きだなー、憧れるなーって思ってサ。新一兄ちゃんと一緒のほうが、ぜったい、ぜ〜〜ったいサマになってるよッ、うんっ」
とても不自然な弁解だと思いながら饒舌になる。蘭はそんなコナンを訝しげに見ている。
『お…思いっきり変に思われてるじゃねえか…っ。どーすんだよォッ』
ますます焦りを感じながら冷や汗垂らし、「言い訳」を紡ぎ出す。
「ほ…ほ…ほら、蘭姉ちゃんの、こ、高校の、学園祭の劇の時だって、蘭姉ちゃん、ウェディングドレス着てるみたいで、キレーだったしぃ、し…新一兄ちゃんと並んでたら、ら、蘭姉ちゃん、新一兄ちゃんのお嫁さんみたいだったよっ」
「し…新一の、お嫁さん?」
その一言で、蘭は顔から火が出た様に赤くなった。
「そ、そんなァ…」
彼女の目がキョロキョロしだす。意識が「さっきのコナン」から離れたようだ。チャンス!と、コナンはたたみかけるように話を続けた。
「ホントッ、すっごくすーっごく、似合ってたよ。いーなーいーなーっ」
「ヤダ、もぉ、コナン君ってばー」
蘭は片方の手を自分の頬に、もう片方の手でコナンの背を軽くパシパシと叩いた。
「お姉ちゃんをからかっちゃダメよー」
「からかってなんかないよ。ホントだもん。先生相手よりずっとずっと似合ってたよっ」
『あー…、振り出しに戻ってるよ…』
と思いながら、この口の勢いはもう止められない。
「やーっぱ新一兄ちゃんだよネ。新出先生なんかダメだよっ。蘭姉ちゃんの相手は、新一兄ちゃんの方がいいな、うん、ぜったい、ぜーったいいいよっ」
息切れしそうになりながら真剣な瞳をクリクリさせてしゃべりまくるコナンに、とうとう蘭は吹き出した。
「やーねー、コナン君ったら。なんか誤解してるよ?」
「へっ?」
ケラケラ笑う蘭を見上げる。
「新出先生は、先生よ?それ以外の何でもないわ。先生だって私のこと生徒としか思ってないわよ?そんなコト、気にしてたの?バカねー、コナン君、気の廻しすぎよ」
目尻から涙を滲ませてまだ笑い続けている。
『…笑いすぎだっつーの……』
気が抜けそうになる。
『ま、いっか。なんとかうまくいったみてえだし…』
「変な心配しないで。私が好きなのは新一だけなんだから」
とコナンの前に屈んで、彼に目線を合わせて微笑んだ。
「ホント?」
「ほんと」
「よかったぁ…」
コナンの顔にもようやく笑顔が戻った。
蘭が笑ってくれた。それが何より彼を安心させた。
彼女もコナンが笑ったのを見て安心したようだった。
「ごめんね。コナン君によけいな心配かけちゃったね」
「謝んないでよ。悪いのは、いつまでも帰って来ない新一兄ちゃんなんだから」
そう言ってコナンは蘭の肩にコツンともたれかかった。
「新一兄ちゃんがいない間は、ボクが蘭姉ちゃんを守るから」
小さな声で呟きながら、ある決心を固めた。
「この間、博士ン家に新一兄ちゃんから電話があって、ボクがその電話とったんだけど、新一兄ちゃん、蘭姉ちゃんの事、とても気にしてたよ」
「新一が?私の事を?」
「うん。新一兄ちゃんに蘭姉ちゃんが淋しがってるって伝えたら…とても辛そうだった。それで、新一兄ちゃん、ボクにこう言ったんだ」
顔をあげて、蘭の瞳を真っ直ぐ見つめる。
「『オレが留守の間、オレの代わりに蘭を守って欲しい』って」
「新一が…コナン君に…?」
彼女の瞳が見開かれる。
「うん。今抱えてる事件、ちょっとタチが悪くて長くかかりそうだからって」
「そう…」
「でも、ボク思うんだ。ハッキリと言葉にはしなかったけど、新一兄ちゃんは蘭姉ちゃんのこと、本当はすごく大切に思っているんじゃないかな…て。だから、ボクに蘭姉ちゃんのこと、頼んだんだと思うよ。ボクならずっと蘭姉ちゃんと毎日家族として暮らしてるでしょ?だからこんなこと頼めるのボクしかいないと思ったのかもしれない。出来る限りの時間、本当は蘭姉ちゃんの傍にいたいんじゃないのかな。でも事件が新一兄ちゃんを自由にしてくれないから…」
コナンの握り締めた小さな拳が微かに震える。
「ボク…子供だけど、男だから、新一兄ちゃんの気持ち理解る…理解ったんだ。だから…だからボク、新一兄ちゃんの気持ち、預かってきたよ、ここに……!」
と拳を自分の心臓の真上にあてて蘭を見上げた。
「だから、もし淋しくなったら、ボクを見て新一兄ちゃんだと思ってくれてもいいから!ここに…ここに……」
自分の胸を指しながら
「新一兄ちゃんがいるから…!新一兄ちゃんの気持ちがここにあるから…!新一兄ちゃんの代わりにボクが蘭姉ちゃんの傍にいるから!…だから、だからもう…泣かないで」
コナンの一途な瞳に、蘭は今までにない愛しさといじらしさを感じた。
『もしかしたら、私とアイツのことで、板挟みの苦しみをこの子に与えてしまっていたのかもしれない…。だとしたら、ごめんね、こんなに気を遣わせてしまって…』
いてもたってもいられなくなりコナンをそっと抱き寄せた。
「やだ…、コナン君の方が泣きそうな顔してるよ?」
「ら…蘭姉ちゃんっ」
彼女の腕の中でコナンは顔を赤らめていた。
「ボクが泣くわけないじゃない。男の子だよ?男は泣かないって相場が決まってんだ。恥ずかしー事ゆーなっっ」
とムキになる様が蘭には可愛いくてしょうがない。
「はいはい」
蘭はコナンの両肩に手を置いて、まだ顔を赤くしているこの小さな少年に微笑んだ。
「ありがとう、コナン君。でもね、コナン君はコナン君よ?名前間違って呼ばれたらイヤなのと同じで、自分の中に他人を見られるのは辛いでしょう?」
「平気だよ。だって、約束したモン。蘭姉ちゃんをしっかり守るって。それとも、こんな子供じゃ頼りない?」
と上目遣いに彼女を見る。
「そんなことないわよ。…そうね、コナン君がいるものね。もう、淋しくないよ。それに、思い出したんだ。私も約束」
「約束?」
「うん。直接アイツとしたわけじゃないけれど、心の中で誓ったの。『必ず、帰って来る』って言葉、信じて待ってる。…ってね」
と明るく片目を瞑った。
『蘭…』
新一は胸が熱くなった。そう、この健気さに、いつも惹かれていた。小さくなる前からずっと…、そしてコナンになってしまった今でも……。
「そうよね、約束はちゃんと守らなきゃね。よしっ、じゃあ、お言葉に甘えて、コナン君にも守ってもらおうかナ〜?男どうしの約束」
「うんっ、まかせて!」
と親指を力強く上にむけ、コナンも彼女にウィンクした。
「ところで、蘭姉ちゃ〜ん」
と首を少し傾け甘えた声を出す。
「何?」
「おやつ、ちょーだい」
「あっ、ごっめ〜ん。忘れてた!ケーキ、すぐ用意するわね。飲み物、ココアでいい?」
「う〜んっ!」
「じゃあ、ちょっと待っててね」
と台所に向かう蘭の姿にコナンはホッと胸をなでおろした。
はなうたまじりにお鍋でミルクを温めている彼女を彼はずっと見つめていた。
『オレも…誓うよ、蘭。元の姿に戻ったら、他の誰よりも、真っ先におまえに逢いにいく。でも、蘭、もしおまえが…待つことに…どうしようもなく疲れたのなら、その時は…その時は……!』
胸の疼痛を捻じ伏せるように、静かに瞼を閉じた。

――オレを忘れて楽になれ…!――

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