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阿笠博士はマグカップにドリップしたてのコーヒーをコナンのために注ぎながら、渋い顔をしていた。
哀は帰って来るなり、人込みに酔ったから工藤君に後を頼んで先に帰らせてもらった、と言ったきり閉じ篭って口をきかないし、コナンはコナンで、デパートから博士の家に戻ったのはいいが、玄関先で頼んだ進物の配送伝票控えとレシートを渡し終えるなり、ろくに目を合わせず帰ろうとする。いつもの新一らしくないと不審に思い、博士が無理やり引き留めたのだ。作ったばかりのパソコン用新作ゲームの出来具合を見て欲しい、急ぎで仕上げなければならないからとコナンに頼みこむ。急ぎだと言われると断るに断れない。彼はしかたなくリビングに入った。
蘭が心配するといけないので探偵事務所に帰りが遅くなることを電話した後、コナンはデスクトップ型パソコンの前に座る。ゲームの画面を見ているものの、心ここにあらずといった風情だ。塞ぎ込んだ面持ちで、これまた一言も口をきかない。
「いったいどうしたのじゃ?哀君は一人で帰って来るし、君は君で元気がないし、何かあったのかね?新一君?」
マグカップをコナンの傍に置く。
「いや…べつに……何もねえよ。ちょっと人込みに酔って疲れただけで」
と気だるそうに言いながらコーヒーを一口飲み、カップから香り立つ湯気をぼんやり眺め小さく吐息をついた。
本当に疲れた。ただでさえ土曜日のデパートは混むのに、こんな小さな身体でたった一人で慣れない進物選びをするハメになり、心身共に疲労感でいっぱいだった。いくら中身が高校生とはいえ、見た目は小学校低学年の児童だ。売り場の商品が商品なだけに、最初は迷子だと疑われるのか、ほんの一瞬だが不審そうな目で見られる。「おじいちゃんに頼まれたから」と届け先と依頼主の住所を書いたメモを見せてやっと安心してもらえる。本当は高校生なんだと言いたい気持ちを押さえて、いつものように小学生を演じ続ける。慣れたとはいえ、やはり不快極まりない。同じ状況の哀とふたりならば、心細さも少しはマシだっただろうが「あんなこと」があった後ではそれも…。身体の疲れだけならまだ楽だったのに…。
「人込みに酔った…て、哀君もそんなこと言っておったのう…」
博士もコナンのすぐそばの椅子に座る。
「すまんかった。わしが行ければよかったんじゃが、このとおり、急ぎの仕事がはいったから出るに出られんで。ほんとに悪いことをした」
「気にすんなよ。今日はたまたまだ。風邪も流行ってるし…」
と、とりあえずひいてもいない風邪の所為にする。
「それより、灰原はどうしてる?あいつ、途中で帰っちまったからな…」
人込みに酔った、なんて嘘だ。でもその嘘をつかせたのは自分の所為だと、コナンは胸を痛めた。自分がもう少し冷静に行動していれば、あんな意地の悪いことさえ言わなければ…。彼女を追いつめずにすんだのに…。買い物の間中気になっていた。
「それが…、地下室に入ったきり出てこんのじゃよ。夕食だと呼んでも食欲ないって言うし…」
「…そうとう疲れたんだろ……。そっとしといてやろうぜ」
その原因は自分だとも言えず、それでもそれを悟られてはいけないと彼女の嘘に付き合った。自分が彼女を傷つけるような事を言ったから落ち込ませてしまった…だけだったなら博士に話すことは出来る。でもコトはそれだけじゃない。彼女の心のプライバシーに深く関わってしまう。哀は自分の気持ちをずっと隠しとおしてきたはずだ。コナンに告白してしまうまでは…。そしてその気持ちは他の誰にも悟られたくないはず。本当はコナンにも伝えるつもりはなかっただろうに…。彼女は、彼が誰のことを想っているか、重々わかっているのだから。自分を愛していないとわかっている相手に、気持ちを告白なんて、普通ならとてもそんな勇気は出て来ない。ましてや普段から自分の感情を表に出さないタイプの人間ならなおさらだ。
また罪悪感に苛まれる。暗く沈みそうになる気持ちを博士に気取られないように目の前のゲームに集中してみせた。その甲斐あってか、博士はふたりとも人込みで疲れただけだということを信じたようだった。
「そうじゃの。ゆっくり休めばすぐ元気になるじゃろ。ところで新一君、夕飯食べていかんかね?ゲームのチェックをしてたら時間かかるし腹も減るじゃろう」
「せっかくだけど遠慮しとくよ。オレも今そんなに腹減ってねえし。メシは帰ってから食うよ。さっき電話したら蘭、オレの分作ったって言ってたし…」
「そうか、それなら蘭くんの手料理を食べんとなぁ」
博士は少しからかうような口調で言ったがコナンはあえて無視をした。怪訝そうな顔をしている博士に構わず、パソコン画面に集中する。早く片付けて帰らないと…。それに今日はここに長居をしたくなかった。哀と顔を合わせたくない。というよりどんな顔すればいいというのだろう。それがわからなかった。会ってしまえば、キスされた時のことを思い出してしまう。
本当は博士の頼まれ事を済ませた後に、蘭へのホワイトデーのプレゼントを買うつもりでいたのだが、とてもそんな気分にはなれなかった。いくら自分からではないとはいえ、蘭以外のひととキスしてしまったすぐ後では、なんとなく後ろめたさを感じてしまって、プレゼント選びに集中出来ず、結局今日買うのはやめることにした。別の日に改めて来たほうがよさそうだと思った。
そういえば来週の土曜日、蘭は園子とふたりで映画と買い物しに渋谷と代官山へ行くと言ってたな、と思い出した。ちょうどいい、来週にしようと思い、そして米花町の博士の家に直行したのだ。
2時間ほどしてゲームを終了させた。パズルタイプのゲームだが、やりだしたらキリがない。
「まあ、いいんじゃねえの?」
コナンは背筋を伸ばしながら言った。
「適度に難しいし根気もいるから、ハマるヤツはハマると思うよ」
そう言いながら玄関に向かう。ドアの手前で一度止まって振り返り、博士の方を見た。
「そうか、そうか。新一君がそう言うのなら大丈夫じゃな。遅くまで引き留めてすまんかったのう」
「いや、それはかまわねえけど…」
靴の紐を結び直し終えて立ち上がり、博士の顔を真顔で見る。
「…灰原のこと、よろしく頼むな……」
いつになく真剣な声のような気がして、博士は驚いてコナンの顔を見る。
「どうしたんじゃ?やっぱり今日の君はなんか変じゃぞ?」
「変って…、オレはべつにいつもと変わりねえよ。…ただ、調子悪いって言うから……。勘繰るなよ。深い意味ねえんだからよ」
とコナンは微笑した。そうは言うものの、博士には彼の笑顔の中に一瞬だが影がよぎったような気がしてならなかった。でも何でもないと言うからにはそれなりの事情があるのだろう。それ以上は追求出来なかった。
同じ頃、哀も地下室で思い悩んでいた。
『何であんな事言ってしまったんだろう…』
一生心の中にしまっておくはずだった彼への気持ち。言えば相手を苦しめてしまうだけの何処へも行き場のない想い。「愛」は想う相手を幸せにするものとは限らない。お互いを求め合って初めて幸せと結びつくものだ。彼とあの娘の間にある感情はまさしく幸福へと形を成すもの。でも、自分のこの想いは…。彼の心を混乱に陥れる凶器みたいなものだ。決して彼を安らぎに導いたりなどしない。それがわかっているからこの想いは凍結して、心の奥深くに葬り去ろうと思っていたのに。なのに何故…!
また涙が溢れてきた。もう泣かないと決めたのに。自分に出来ることは、今ここでコナンに工藤新一の人生を返すための薬を作ることだと、そう思ってこの部屋に入ったばかりなのに…。目の前のパソコン画面からの明かりは、泣き腫らした目には眩しすぎた。射抜かれたような激しい頭痛を感じ、試作段階のアポトキシン4869の解毒剤のデータが表示されているその画面を終了させ、電源を切った。パソコンからの明かりで辛うじて明るさを保っていたこの部屋は、闇に落ちて行く。彼女は机に突っ伏した。今日はとてもこれ以上続けられそうになかった。
これは神が私に与えた罰なのだろうか。幸せはすべて掌から、指の間から零れ落ちていくような気がしてならなかった。いつも失ってばかり。両親を失い、たったひとりの姉も殺され、そして「宮野志保」として生きてゆけなくなり…。
『バカね…。「灰原哀」は自分から選んだ人生なのに、何被害妄想に浸っているんだろう。自分で蒔いた種なのにね…』
そんなふうに卑屈になった時、そっと支えてくれていたのが「工藤新一」だった。初対面の時でこそ彼は敵意剥き出しにしていたが、いつの頃からか、今となってはもうわからないが、気がつけばいつだって挫けそうになる自分を励まし続けてくれた。あのぶっきらぼうだが優しさにあふれた声で。大きな濁りのない真っ直ぐな瞳で。屈託のない笑顔で。同じ薬でこんな身体になってしまった身でありながら、底抜けに楽天的なあの強さは何処からくるのだろうと不思議に思っていたが、その強さに救われている自分に気づくのにそう時間はかからなかった。
彼の存在がこんなに大きなものになってしまうなんて、思ってもいなかった。いつまでも彼のそばにいたい。人恋しいなんて感情、とっくに捨てたはずなのに、何故自分はこんなにも彼を求めているのだろう。胸の痛みを庇うように両腕を自分に絡ませる。この感触が彼から与えられたものならどんなにいいか…。夢見れば見るほどますます孤独を感じてしまう。彼に抱き締められることなど決してありはしない。頬に伝う涙が彼女の口唇に落ちて来た。しょっぱい…。哀はその涙を指先で拭った。ふと、もう一度口唇に指をあててみる。指先は冷たかった。でも…。彼女は思い出した。彼の温もりを…。
あの時、気がつけば奪ってしまっていた彼の唇。どうしてあんな大それたことをしたのか、それは彼女にもわからなかった。夢中だった。あのまま彼が消えてしまうような気がした。彼を失う…。その恐怖に耐えられなくなり、そして……!
『でも、別のもの、失ったみたいね…』
自嘲気味に笑う。あの後の彼の瞳、怒りと少し傷ついたような…そんな瞳をしていた。
彼にとって予想外のことだったのだったのだろう。本当に困った顔をしていた。まさか、哀から告白されるなんて…。蘭への愛情と新一として蘭の傍にいてやれない苦しみを抱え、それだけで精一杯の彼にまたひとつ悩みを増えさせただけ…。そんなこと、わかっていたはずなのに、自分はなんてバカなことをしてしまったんだろう。黙っていれば、せめて彼の信頼だけは繋ぎとめておくことが出来たのに。もしかしたら、それすら失ってしまったかもしれない。恋愛に関して純粋無垢な彼の心に、自分の気持ちを無理矢理刻み込んでしまったことと引き換えに……。
明日は日曜日、彼に会わずにすむ。だけどその次の日は?自分はどんな顔して学校に行けばいいのだろう。江戸川コナンとは同じクラス。しかも席は隣同士だ。
『どうしよう……』
急に身体が震え出した。両手で顔を覆い嗚咽する。彼がいるから、辛うじて正気を保っていられたのに、その安らぎの場すら失ってしまった。
『怖い…!』
−いいかげん薬なんか作ってないで、恋人の一人でも作りなさいよ。お姉ちゃんは大丈夫だから−
そう言って微笑む生前の姉の姿が脳裏に甦る。哀はその面影に問いかけた。
「お姉ちゃん、私、…どうしたら…いい…の?」
でも「彼女」は、何も答えてはくれない。喪失感が膨らむばかりだ。
『あの時あのままガス室の中で殺されていればよかった…。こんな…こんな思いするくらいなら……!』
暗く、物音ひとつしないこの部屋で、彼女の押し殺した泣き声だけが悲しく響いていた。
コナンが帰った後、阿笠博士は哀の様子を見に地下室へ降りた。部屋のドアをノックするが返事が返ってこない。もう一度ノックする。やはり返事はない。彼女が帰って来た時の様子を思い出す。なんだか心配になりドアを開けた。部屋の中は真っ暗だった。
「なんじゃ、明かりも点けずに…」
といいながら机に突っ伏している哀に近づきハッとした。彼女は眠っていたが、部屋に差し込む階段の電気の明かりが彼女を照らし出し、哀の寝顔が博士の視界に入る。博士は息を呑んだ。涙の痕を見てしまったのだ。
さっきのコナンの様子といい、哀の泣き腫らした寝顔といい…
『…ま、まさか……?』
ある予感が博士の胸中をよぎる。
『そ、そんなことが…?い、いやしかし…』
今浮かんだ予感がもし事実なら、ふたりの様子がおかしかったのも合点がいく。
『…可哀相に……』
ふたりの呪われた運命を思い、博士の表情が曇った。そばに置いていたブランケットを彼女にそっとかけてやると、博士は物音をたてないように静かに部屋を出て行った。
毛利探偵事務所にコナンが戻って来たのは、夜の9時を少し廻った頃だった。コナンは
おそるおそるドアを開ける。電話で遅くなるとは言ったものの、塾通いじゃあるまいし、小学一年生の帰って来る時間ではない。
「ただいまー…」
「おかえり。コナン君、もう少し早く帰ってきなさいよ。電話あったって心配するんだから……!」
ほんの少ししかめっつらをした蘭がコナンを迎える。
「ご、ごめんなさい…」
やっぱりな…と思いながら、ドアを閉める。相変わらず蘭は心配性だ。以前からそうだったが、新一が行方不明になってからさらに拍車がかかった。淋しくて、不安で押し潰されそうになるのをやっと耐えている。それが痛いほどわかるだけに、コナンは蘭に対して新一の時以上に気にかけている。幼い頃から彼女のことは気になっていたが、新一の姿を失い、「蘭」と声に出して呼べなくなって初めて、自分がどれほど彼女を好きかということを思い知らされた。蘭の涙を見るのはコナンにとって身を八つ裂きにされるも同然だった。
−オレは、ここにいる…!−
そう叫びたい衝動をいったい何度堪えただろう。でも言えば最後、蘭を生命の危険に晒してしまうことになる。
工藤新一が生きてることがあの謎の組織に知られると、新一は勿論のこと、彼に関わるすべての人間が生命を狙われてしまうからだ。それを思うと正体を明かすわけにはいかない。今彼に出来る事といえば、蝶ネクタイ型変声機を通し「新一」の声で時々蘭に電話をかけて安心させることぐらいだ。だが、それもいったいいつまでもつだろう。逢いたい気持ちは、声を聞くぐらいじゃおさまらなくなってくる。現に今まで何度も「会いたい」と今にも泣き出しそうな彼女の声を電話の向こうから聞いている。その度に嘘を塗り重ねてきた。どうして、好きなひとにこうも嘘ばかりつかなければならないのだろう…。コナンの胸に痛みが走る。
『ごめんな、蘭…』
台所で味噌汁を温めなおす彼女の後ろ姿に、声にならない声で語りかけた。
「どうしたの、コナン君?ぼんやりしちゃってー…」
「え?あっ、な、何でもないよっ」
ふいに声かけられて我に返ったコナンは慌てていつもの子供らしい声を出す。
「何でもないって…、でも元気ないわよ、コナン君?」
ヤバイ!彼女の勘は恐ろしく鋭いのだ。これ以上心配させちゃいけない。とはいうものの、咄嗟にいい言い訳が思いつかない。
「ち、ちょっと、博士ン家の前に行ったデパート、今日す〜っごく混んでたからー、ちょっと疲れただけだよ」
と博士についた嘘と同じ嘘をついた。でもこの嘘も効果的ではない。今度は身体の心配をされてしまう。焦った。思ったとおり、蘭が心配そうな顔をしてコナンに近づいて来る。まずい…!コナンは後ずさりながらさらに言葉を続ける。
「だ、だからね、きょっ、今日はおふろ入ったら早く寝るよっ」
早々にその場を立ち去ろうとしたが、ちょっと待ちなさいと引き留められる。
「……顔色、悪いわね。コナン君?」
と蘭はコナンの前髪をさっとあげて額と額を合わせた。
『うわっ…!』
突然の彼女の顔のアップにコナンの心臓ははねあがった。目のやり場に困り、思わず目をギュッと閉じる。脈拍がいっきに早くなり、蘭に自分の鼓動が伝わるんじゃないかとうろたえた。
「少し…熱があるみたいね。大丈夫?コナン君、熱測ってみようね。ちょっと待ってて」
と、蘭は立ち上がると救急箱を取りに行った。
『…バッ、バーロ〜ッ!今ので出たんだよっ!』
……とは、言えない。今の自分は新一じゃない。正体だけでなく、自分の気持ちも隠さなければならないことを思い出した。この姿でこの気持ちがバレたら…。
『…シャレになんねーぜ……』
溜め息をつき、頭をかかえた。
蘭が部屋に戻ってきた。救急箱を開け中から体温計を取り出しコナンに渡す。
「ちゃんと測るのよ」
「は〜い…」
情けない気分のまま間延びした返事をし、体温計を腋の下に入れる。
結局、微熱があった為ご飯を食べてすぐ寝ることになってしまった。
『…嘘から出た真…ってか?何だかねー……』
そういえばさっきから咽喉が少し痛む。本当に風邪をひいてしまったようだ。パジャマに着替えたコナンは布団を敷き始めた。寝室に蘭が入って来た。
「ここはいいからコナン君、薬飲みなさい。まだ、飲んでないでしょ?」
と風邪薬とコップに汲んだ水をコナンに手渡した。素直に受け取って薬を飲み、そのまま床に入った。コナンに掛け布団をかけながら
「おとなしく寝るのよ。黙ってたらコナン君、すぐ本読んで夜更かしするんだから。今日は絶対にダメよ。風邪はひきはじめが肝心なんだからね」
「…うん…おやすみ、蘭姉ちゃん」
「おやすみ」
優しい笑みを残して蘭は明かりを消して部屋を出た。
ドアが閉まるのを確認し、コナンは呟く。
「…ったくぅ…、ガキ扱いすんなよなぁ……。って、今はガキか…ハハ……」
力なく笑い、大きな溜め息をついた。
一日がこんなに長く感じたのは、身体が縮んだ日以来だ。そして今日ほど「江戸川コナン」の身を厭わしく思ったことはない。コナンを名乗っているが本当は新一。でもこの姿である以上新一でもない。なんて中途半端な存在なんだろう。それが蘭と自分の間以外でこんな弊害が出て来るとは思ってもみなかった。
−あなたのことが好きなのよ…!−
そう言って涙を流す灰原哀の姿が脳裏に浮かぶ。自分が元の姿に戻って、蘭との関係をはっきりさせるか、もしくは彼女自身でふんぎりをつけるかしないと解決しない。子供の姿ではどうにかしたくてもどうしようもない。組織の情報はなかなか得ることが出来ず、薬のデータもない。白乾児の成分だけでは解毒剤は作れない。もしこのまま元に戻れなかったら…。言い様のない不安に駆られる。真実を明かせない以上、蘭に気持ちを伝えることもままならない。蘭に待ってて欲しいといっても、人間そういつまでも待つ事が出来るほど強くない。いつかは愛想つかし、新一を待つ事を諦める日が来るに違いない。
蘭を、他の男に取られてしまう…!心の片隅にあった危惧感がみるみる間にコナンを支配していく。今までにもその不安を感じた事はあったが…。そう、たとえば帝丹高校の校医・新出先生。
蘭は、彼が着ていたセーターを見ていたと言ってたが、その時の視線が妙に引っ掛かった事を思い出す。今は彼女の言い分を納得しているが、でも、このままの状態が続くといつか、彼本人を見る日が来る可能性だってある。そんな事、とても耐えられない。数年間の想いをそう簡単に諦められるはずがなかった。新出先生に限らず、他のどんな男にだって渡したくない。早く本当の年齢の身体に戻りたいのに、これでは片想いも同然だ。
『…ちくしょう……っ!』
コナンは掛け布団を頭からすっぽり被って体を丸めた。彼と蘭の間に出来てしまった肉体年齢差の壁が大きく立ちはだかる。そのどうしようもない事実に、気が遠くなるのを感じた。
それにしても、哀のことだ。応えて欲しいとは思わない、と言っているが、このままでいいはずない。あんな別れ方をしてしまったのでは多分、彼女のことだから、更に必要以上に自分を責めているに違いない。背負っているものがコナン以上にキツイのに、これ以上重荷を背負わすのはあまりに残酷すぎる。
勿論、彼女の気持ちに報いることはできないが、せめてどうにかして負担を軽くしてやりたい。アポトキシン4869を作ってしまった罪悪感だけでも、なんとかしてあげたいと思う。これ以上自分のことで悩む人間を増やしたくない。いずれにせよ、彼女とゆっくり話をする必要があった。だが…
『アイツのことだ、学校、休んじまうかもしれねえな……』
学校では話せない。それに…元太たちがいる。休み時間はいつも一緒だ。ふたりだけで話す機会がない。彼らに自分たちの正体を知られるわけにはいかないのだ。…となると、博士の家は……
『ダメだ!「あのこと」知られてしまう可能性がある…!』
それに、よけいな心配をかけたくない。
『しかたない。あまり気はすすまねえが…』
何処か別のところにふたりで出掛けるしかなさそうだ。出掛けた先で蘭や元太たちに会わないよう、祈るしかない……。
月曜日、案の定、哀は学校を休んでいた。欠席理由は風邪だったが…。
『でも、まぁ…風邪は本当かもしれねえな……』
流行ってるし、コナンもひいている。まだ熱はあったが、もし哀が学校へ来ていてコナンが休んでるのを知ったら、ひょっとすると気にするかもしれない、と思ったので少し無理をして来たのだ。こんなことなら自分も休めばよかったと少し後悔した。頭痛がするし、授業休んだって勉強の心配なんかしなくてもいい。それに、もともと通いたくて来ている学校じゃない。
『さて…と、プリント持ってってやっか…』
コナンは、元太・歩美・光彦に見つからないうちにさっさと下校しようとすばやく教室を出た。見つかると面倒だ。彼らのことだから、お見舞いと称してついて来るに決まっている。いつもなら構わないが、今日は困る。
校門を出て暫くしてコナンは後ろを振り返ってみた。どうやら、うまくいったようだ。ホッとしてコナンはそのまま博士の家に向かった
博士の家に着き、ランドセルの中からプリントを取り出しながら
「灰原の調子、まだ悪いのか?」
と博士に聞いた。今寝室で寝ていると聞かされたのだ。本当に風邪だったようだ。
「まだ熱が下がっておらんのじゃよ。昨日よりはマシになったみたいじゃがの。」
とコナンにコーヒーカップを手渡した。
「それよりなんじゃ、新一君。君も声が変じゃぞ?」
「ああ、オレも風邪ひいてっからな。こないだも言ったじゃねえか」
「こないだ…のぅ……」
と意味有り気な調子で言いながら、博士はコナンの額に手を当てた。
「ふむ、少しあるようじゃの」
「…ンだよ?奥歯に物挟まったみてえに…」
「熱があるって言ったんじゃよ」
「熱、じゃねえ。その前に言ったこと。何か気になる言い方したから聞いてんだよ」
と博士を見る。博士は真剣な面持ちでコナンを見ていた。気になる事が事だけに、聞くのが躊躇われた。おそらく尋ねたところでコナンは全てを話さないだろう。わかってはいても、ふたりのあんな様子を見てしまっては、聞かずにはいられない。迷いを振り切り尋ねた。
「新一、正直に答えて欲しいんじゃが…」
コナンの瞳を真っ直ぐ見ながら声のトーンを低くして聞く。
「おととい、哀君との間に何があったんじゃ?」
ギクッとした。正直に、と言われたあたりでイヤな予感はしていた。もしや…と思ったことが当たってしまった。だが、コナンはそれを認めるわけにはいかなかった。
「はぁ?」
とぼけた調子で博士の言葉をかわす。
「何ヘンなこと聞いてンだよ?それより、アイツ、今起きてるか?渡さなきゃなんねぇものと小林先生からの言伝があっからよ、何処にいるんだ?ちょっと渡してくるよ」
「あ、あぁ…起きてると思うが、寝室におるからのう…」
「ノックして確認するよ」
と、博士に背を向けリビングを出ようとした。
「これ、新一。まだワシの質問に答えとらんじゃろ。どうなんじゃ?ワシの目は誤魔化せんぞ。行くなら答えてからじゃ」
いつになく厳しい口調に、コナンは驚いて振り向いた。コナンを凝視する博士を見て、何でもないと言っても通用しないことを悟った。でも…どうしても言えないことがある。そのことを省いて話すしかないか。よけいな心配はかけたくないのだが…。
博士は、目を逸らし躊躇している彼に近づき肩を掴む。
「新一君、ワシは、赤ん坊の頃からの君を知っておるのじゃぞ?」
とコナンの顔を真剣な表情で見つめる。
「ウソをついても無駄じゃよ」
コナンは目を閉じ俯いた。もう、これ以上誤魔化しきれない。だが、守らなければいけない領域が彼にはあった。
「…灰原は…アイツは、何か言ってたか?」
「何も言わんよ。だから君に聞いておるのじゃ。あの日、泣きながら眠ったようじゃったからの…。何もなくて泣くはずないんじゃからな」
コナンの胸が痛む。多分、彼女にはもう限界が訪れているのだろう。何もかもに…。
「そうか…。やっぱりな」
顔をあげたコナンは重い口を開いた。
組織がらみの出来事、そしてそれが原因で口論になったことだけを淡々と話す。勿論、告白に関することはコナンの胸の内だけにしまってある。組織の事だけでもふたりにとっては大事件なのだから、それで博士には納得してもらおうとコナンは考えた。
「なんじゃと?奴らに会ったのか?」
「いや…正確には見かけた、だ。…で、オレが灰原曰くムチャな追跡しようとしたから、それでケンカになっちまったんだよ。ちょっと言いすぎちまった」
と決まりが悪そうに言った。溜め息ひとつつき、さらに続ける。
「アイツ、薬の件でだいぶ責任感じちまってるみたいで……。たぶん、今までもひとりで罪悪感に苦しんでいたんだろう。オレがそれを知らずに刺激しちまったんだと思う。悪い事した…。ホントはそれを謝りたくてここに来たんだ。」
「なるほど…」
「それに…、ただでさえ実年齢と身体の年齢が十近く離れてるんだ。情緒不安定になっても不思議はない。そう言うオレだって、時々苦しくなるんだ。なおさらアイツにはキツイだろ。泣きたくもなるさ。…そういうコトだから。謝ってくるよ」
と言い残し、博士に次の言葉を言わせる時間を与える間もなく、早々に彼はリビングを去って行った。
博士はコナンが出て行った方向を鎮痛な思いで見た。彼はウソは言わなかったが本当の事全ては話していない、と思った。それだけの話なら、隠し事にするほどのことではない。あんなに悩んで話す事じゃない。むしろ、博士はふたりとも組織に狙われていることを知っているのだから、その日のうちに話しててもいいことだ。いつもの新一なら話していたハズだ。やはり、予感は的中している…ということか?だが、コナンの後ろ姿は、博士がそれ以上聞く事を全身で拒んでいた。ならば、黙って見守ってやるしかない。そう思うとますますふたりが可哀相でならなかった。
コナンは寝室のドアの前で深呼吸をした。博士に威勢良くああ言ってここまで来たものの、やはり彼女と顔をあわせるのには勇気がいる。告白の後、彼に背を向け去って行く彼女の姿を思い出す。哀だってコナンと顔をあわせ辛いだろう。そう思うとどうしていいか、わからない。でもここでぐずぐずしていると、博士に変に思われる。それはまずい。さっきは何とか誤魔化したものの、おそらくあれで納得はしていないだろう。赤ん坊の頃から知っていると言われると、下手な嘘はつけなくなってしまう。コナンは重い心を引き摺りながら、ドアをノックする。
返事がない。
『寝てんのかな?』
念の為もう一度ノックする。やはり返事はなかった。
『しゃあねえな、出直すか…』
とリビングに戻ろうとしたその時、中から微かだが、物が落ちるような音がした。何の音か確認しようと、コナンは寝室のドアを開けた。
「…!灰原……っ!」
驚いて彼は部屋の中に飛び込んだ。彼女がベッドから転げ落ちた音だったのだ!
すぐに駆け寄ると彼女を抱き起こした。
「おい、灰原!どうしたっ?!しっかりしろ!おいっ…!灰原ァッ!!」
哀は胸を両拳で押さえて前屈みになっていた。頬は紅潮し発汗がある。深くて速い呼吸。息を吸うばかりでほとんど吐いていない。
『もしかするとこれは……!』
「灰原、落ち着いて、息を止めてみろ。大丈夫だから。口を閉じて…」
沈着冷静に声をかけて彼女の背中を押すようにさする。だが、哀は思うように口を閉じれないでいた。痺れが来ているのかもしれない。他に苦しいところや痛みがないかを聞いたが、哀は激しく息を吸い込むばかりで問い掛けに答えられずにいた。やはりこれは…。
「どうしたんじゃ、新一君!」
コナンの叫び声に驚いた博士が部屋に駆け込んで来た。哀の様子を見るなり
「哀君!」
と駆け寄ろうとした。
「博士っ、紙袋だ!紙袋持って来てくれ!」
と背中をさすり続けながらコナンは叫ぶ。
「きゅっ、救急車、呼ばんと…」
「それは後だ!先に紙袋持って来てくれっ。少し大きめのやつ。救急車はそれからだ!」
「わ…わかった!」
バタバタと博士は紙袋を探しに戻った。その間にもコナンは背中をさすり続けながら辺りを見渡す。他に使えるものはないか。とりあえず、すぐそばのベッドから片手でシーツを引き摺り出す。それを軽く哀の口元へ当ててやる。間もなく博士が紙袋を持って部屋に戻ってきた。コナンは紙袋を受け取ると、すばやく紙袋の口を小さく絞り、それで彼女の口と鼻を覆った。紙袋の中で呼吸を繰り返す哀。
「博士、救急車を頼む。症状は、呼吸困難と痺れだ。他にもあるかもしれねえが、口きけねーみたいだからそれ以上はわからない。とにかくオレはこの紙袋を当てたり外したりして様子みるから、博士は救急車を呼んでくれ!」
と哀の様子を用心深く見ながら振り返らずに言った。
「わかった。あとを頼んだぞ」
と博士は電話をかけに行った。哀の呼吸困難はまだ治まりそうにない。どうやら症状のピークがきているようだ。コナンは引き続きマッサージと紙袋再呼吸法を試みた。吸気のみ行われることにより、血液内の酸素が過剰になり、反対に二酸化炭素が不足した状態になる。その為、呼吸性アルカローシス(血液がアルカリ性になる事)を起こす。これを改善する為に、紙袋内の自分の息を再度吸い込むことによって二酸化炭素を取り入れるのだ。おそらくこれで楽になるはずだが、万一のこともある。時々紙袋を外し、様子を見てまた当てる。その動作を何度も繰り返した。
博士が戻って来た。
「あと10分程で来るそうじゃが…哀君の様子は?」
と心配気に覗き込む。
「…少しずつ、マシにはなってきてるよーだな。まだ安心できねえけど…」
「何で紙袋を当てっぱなしにしないんじゃ?過換気症候群じゃろ?だったら当てっぱなしにしたほうが……」
「いや…。そうともいいきれねえ。たぶんオレも過換気症候群じゃねえかとは思うけど、オレは医者じゃねえ。素人判断は危険だ。もし他の病気だった場合、紙袋再呼吸法は逆効果になる。症状を悪化させ、最悪の場合死に至る可能性だってあるんだ。灰原から正確に症状全てと既往症を聞けないでいる現段階では、なおさら絶対過換気だとは断言出来ねえ。だから、念の為時々外してんだよ」
「なるほど…」
5分程経ち、哀の呼吸に少し改善が見られた。
「灰原、もうすぐ救急車が来るから大丈夫だからな。落ち着けよ。博士とオレがついてるから、安心しろ」
コナンの声に哀は弱々しく頷いた。
「…く…ど……くん……あ…り…」
「いいから、しゃべるな」
擦れ声を発する哀にコナンは優しく制した。
やがて救急車が来て、哀は米花薬師野病院に搬送された。
幸い救急車の中で、哀は落ち着きを取り戻した。病院に到着後、念の為、循環器科と呼吸器科に行かされ、血液検査と心電図検査、胸部と頭部のX線写真撮影をすることになった。
結果は、血液がややアルカリ性に傾いていたこと以外に異常はなく、やはり過換気症候群と診断され、抗不安薬を処方してもらった。入院や通院の必要もなく、帰っていいと言われて、彼女は博士の家に戻って来ていた。
今、再び彼女はベッドに寝かされていた。博士は、発明品の製作にかかるからと地下室に行った。寝室には、哀とコナンだけだった。
「オメー、ほんとに大丈夫か?第三内科、かかった方がいいんじゃねえのか?」
彼女のベッドの傍に椅子を持って来て座る。
「あら、心配してくれてるの?」
哀は半分茶化したように言う。
「あのなぁ…。再発防ぐにはちゃんと診てもらった方がいいじゃねえか。そりゃ、確かにこの症状は回復が完全で、後に症状を残さないって医者も言ってたけど、あくまで一回の発作ごとの話だろ。根本的な原因を取り除かないと再発の可能性があるとも言ってたじゃねえか。だから…」
「工藤君」
と彼の言葉を遮り、視線をコナンに向ける。
「原因は判っているわ。だからあとは自分で解決する問題なのよ。下手に病院なんかに行く方がよっぽどストレス溜まるわ」
と言ってまた視線を戻す。真剣に心配するコナンの顔を見ると、嬉しいような辛いような、複雑な心境になってしまう。
「自分だけでなんとか出来る問題じゃねえだろ。そうやって一人で抱え込もうとするからあんな目にあうんだろーが。少しは自分を大事にしろよ」
「…何も判ってないのね、工藤君。原因は判ってるって言ったでしょ。仮にあなたの言うようにカウンセリングに通っても、どうしようもないのよ。そこで私は何を話せばいいの?ストレスの原因は、あなたが一番よく知ってるはずでしょ?」
コナンの身体がビクッとする。そうだ、さっきの騒ぎで忘れていたが、ふたりは重大な問題を抱えていたのだ。言葉の切っ先が彼の喉元に突きつけられる。
「ぁ…」
声が喉に貼り付いて出て来ない。表情が強張り、瞳が心許なく泳ぎ始める。「あの瞬間」を思い出してしまったのだろう。まるでタイムスリップして、あの時が再現されたかのように混乱した彼の姿を、彼女は哀切極まる想いで見つめていた。
『やっぱり私が告白した事、ずっと引き摺ってるのね。彼本来の持ち味が薄れるほど影響与えてしまっていたなんて…』
こんな事になるなら、言わなければよかった。彼をこんな風に変えたくなかったのに…。
あの娘ならきっと彼をこんな風に追いつめたりなど決してしないだろう。同じ愛の言葉で、これほどの違いが出てくるのかと、彼女は今更ながら、彼の内の蘭の存在の大きさに打ちのめされた。なんとか彼の調子を元に戻さなければ…。哀はコナンから視線を逸らした。
彼は自身が混沌とする中、必死で考えを巡らすが、なかなか言葉が定まらない。事実を組み合わせていくいつもの推理とはまったく違う。人の感情を言葉にする困難さをあらためて感じる。
『そうだ、この間の暴言、謝らなければ……。その為にドアをノックしたんだから』
コナンは顔をあげて彼女を見る。
「あ…あのさ、灰原…」
「何考えてるの?私が言ってるのは、組織の事よ」
間髪入れずに彼女はコナンの言葉を遮った。
「え?」
「病院でカウンセリングなんか受けたら、関係のない人たちを更に巻き込むことになるのがわからないの?いくら私が口を閉ざしても、催眠療法されたら私達の正体が公になってしまうわ」
言われてみればそうだ。自分達は「特殊な存在」なのだ。病院に知れたらそれは即、世間に知れ渡ってしまうということを意味する。そうなれば、自分達に関わった全ての人の生命が絶たれてしまう。コナンの中のスイッチが切り替わる。緊迫感が漲り、みるみる間に眼光が鋭くなっていく。哀は、そんな彼の瞳に吸い込まれそうになるのを感じながら話を続けた。
「…事の重大さが、判ったようね。そう、私達は実際には存在しないはずの人物。世間の理解の範疇を超えた存在。だからこそ、この姿は組織に対して隠れ蓑として有効なのよ。なのに自らそれを捨てるなんて、自殺行為もいいところだわ。自殺だけならともかく、彼らの殺人を幇助することになる。つまり、あなたはあなたの大切なひとを、自らの不注意という凶器で殺してしまうことになるのよ?しっかりしなさい。一時の感情に流されたりしちゃ、ダメ」
彼の握り締めた拳に力が籠もる。迂闊だった。自分としたことが、そんなことすら指摘されるまで忘れていたなんて…。
「そうだったな。オレたちは片時も気を抜いちゃいけなかったな」
やっと彼の表情にいつもの勝気な笑みが戻った。哀もそれを見て安心する。こうでなければやっぱり調子が出ない。
「ついでに、もうひとつだけ忠告しておくわ。」
「忠告?」
「これは私の勘だけど、あなた、ひょっとしたら誰かに目をつけられたかもしれないわよ」
「誰かって?」
笑顔がスーッと引いていく。
「それが判ればハッキリ言ってるわよ。わけのわからない不吉な影…とでも言うしかないわね」
「…おまえ、何言ってんだ?」
「バスジャック事件、覚えてるでしょ。あの時感じた何かが、水面下で動いてるような気がするの」
「ああ、あれか。身元不明の奴らはいなかった、と警察から聞いたって言っただろ?オメー、神経質になりすぎだぜ?」
と眉をしかめる。
「だといいんだけど。でも、彼らなら、ばれない身元工作ぐらい簡単にやってのけるわ」
「仮にそうだとしても、それだったらとっくにオレたち全員とっくに消されてるハズだろ?まだ生きてるってことは大丈夫なんじゃねえの?」
「泳がされてるとしたら?」
哀は厳しい目つきになる。ふたりの間に再び緊迫感が走った。
「何でそんなことする必要あるんだよ?奴らだったらそんなまどろっこしいこと、しねえだろ?」
「私たちの他に、彼らの目の前で幼児化した人間がいたとしたら?節操なく例の薬を使っていたらありえない話じゃないわ」
確かに、可能性は否定できない。コナンは顎の下に手をやった。
「あの時の何者かがバスに乗ってきた真の目的が、あなたや私を調査することだったとしたら…。私や工藤新一が幼児化した姿かどうか確証を得る為に追跡していたとしたら…。あなた、彼らの仲間の前で大立ち回りの推理ショーを披露した事になるのよ」
「…ハハ……ンな大袈裟な……」
「大袈裟でもなんでもないわ。考えてもみて。拳銃をやすやすと扱える小学生なんて、普通いる?それに、普通の小学生はああいう状況に陥ったら、泣くか震えるかして何も出来ないわよ?なのに、あなたは犯人の目論みを、いとも容易く見破り共犯者まで割り出した。実に堂々と…。そんなスーパー小学生、興味持たれてもおかしくないわ」
「でも、推測だろ?まだそうと決まったわけじゃ…」
「そう、推測にすぎないわ。でも用心するにこしたことはないでしょ。あなたの周辺に、気のよさそうな新顔が現れたら、気をつけることね。ま、私も人の事言えないんだけど」
「お…おい…、確実な証拠もねえのに物騒な話してんじゃねえよ。相変わらず悲観的なヤツだな、オメー。十円ハゲ出来ても知らねえぞ?」
「あら、私は目の前にいる天然の入ったお気楽君に、緊張感を持ってもらおうと思って言っただけよ。ハゲ覚悟のうえでね」
「するなよっ、そんな覚悟!」
「冗談よ」
とすかした顔して哀は寝返りをうった。
「…あ…そ……」
なんだか疲れてしまったコナンは大きな溜め息をついた。ただからかわれただけかも…と思った。まあ、確かに哀の言うことも考えられなくはないのだが…。今のところ、誰かに後をつけられてる形跡はないようだし、とりあえずは大丈夫だろうと思った。
「ところで、工藤君。何しに来たの?」
しれっとした顔して、哀はコナンに聞く。その一言が更に彼を疲れさせた。
「何しにって……、オメー、ほん…っとカワイクねえなぁー…」
と力こめて言った。
「風邪ひいて休んでるっていうからよー、学校帰りにわざわざプリント持って来てやったんだろーが。少しは感謝しろっての」
と拗ねたコナンを哀は面白そうに見ている。いつもの事ながら、彼の反応は見ていて飽きが来ない。期待したとおりのリアクションが素直すぎるほどに返ってくる。こんな魅力的な素材、他に手渡したくなんかない。
さっきは言わなかったが、病院に知れたら、組織のことがなくても危険なのだ。薬で身体が幼児化するなんて、医学界にとっても衝撃的であり、興味深い事例だ。研究材料として、彼の身体を(哀の身体もだが)多くから求められるだろう。そうなれば国内はおろか、世界各国から目をつけられる。どんな闇ルートから狙われるかわからない。哀のいた組織以外にも凶悪な組織はごまんとある。非合法な生体実験の対象にならないとも言い切れないのだ。
『冗談じゃないわ。彼は、私の研究の対象。身の安全が保証されないところなんかに渡せない。彼を守ることが出来るのは、この私だけ…』
「…そうね、あなたには感謝してるわ。さっきは助けてくれてありがとう」
「なんだ、素直になろーと思えば素直になれるんじゃねーか」
と言いながら彼女の額に手を当てた。
「な…っ、何?」
ドギマギした。彼女にとって、今の彼の行動は予想外だった。
「…まだ熱、高いな」
コナンはランドセルを開けると、中から小さな箱を取り出した。その箱の封を切り、中から一枚冷却ジェルシートを出しフィルムを捲った。それを哀の額にペタンと貼り付ける。
「これ貼って大人しく寝てろ。残りは冷蔵庫に入れといてやっから、4時間ほど経ってまだ熱下がらなかったらまた貼っとけよ。ま、その程度の熱ならたぶんそれ一枚でたりるだろーけど」
帰りの身支度をしながらコナンは哀を見る。
「な、ヒンヤリして気持ちいいだろ?」
ニカッと笑うコナンにつられて哀も笑う。
「そうそう、そうやって笑ってりゃいいんだ。そうすりゃ病気もすぐ治るんだからよ」
じゃあな、とドアの外に出ようとしかけたが
「あ、そうそう」
とまた戻ってきた。
「言い忘れてたけど、もう少し暖かくなったら、一度ふたりで出掛けねえか?」
「え?」
また予想外のセリフだ。哀は訝しげにコナンを見る。
「オメーにちょっと話があるんだけどさ、学校じゃ話せねえし、ここじゃ博士に心配かけちまいそうでゆっくり出来ねえし…」
「…あのことなら、あなたに応えは求めてない、って言ったはずよ」
哀は抑揚のない声で呟くように言った。刹那、コナンの瞳に昏い影がよぎる。
「…その話じゃねえよ」
「じゃあ何なのよ?」
と軽く睨む。コナンは彼女の髪をクシャッと撫で、柔らかく微笑んだ。さっき見た影が嘘のようだ。哀は彼の中に、暗闇の森に浮かぶ月のシルエットを見たような気がして意外に思った。どちらかといえば、太陽のイメージを持っていたのに……。いや、違う。両方の魅力を兼ね備えているのだ。慈愛に満ちた静かな月。新しい発見にささやかな幸せを感じながら彼を見つめる。
「まぁ…そんなに硬くなるなって。いつも閉じ篭ってばかりじゃ、気分が落ち込むだろ。たまには外に出ることだって必要だぜ?特に今のおまえにはな…」
「…同情?」
「ほら、すぐそれだ。前から思ってたけどさ、おまえのその被害妄想、よくねーぞ?とにかく今日は寝ろ。話はまた今度な」
コナンはそう言い残すとドアに向かって歩き、部屋を出る直前、振り返らずそのまま手を振った。
彼が去って行った方向を虚ろな瞳で見ながら、哀は手の甲を額に当てた。彼が貼ってくれた冷却ジェルシート…。
『残酷な優しさだわ、工藤君…』
傍にいればいるほど傷つくのがわかっていながら、それでも離れる事が出来ない。痛みが快楽に変化するのにも似ている。タチの悪いドラッグのようだ。
『私の作った毒薬は最低だけど、あなたの発するオーラもたいしたものだわ。ディオール顔負けのプワゾンね』
シニカルな笑みをこぼしながら、つい今し方までいた少年のことを脳裏に描いていた。
タンドゥル・プワゾン、優しき毒。甘く瑞々しいその芳香で人々を魅了する。プワゾンが夜の顔ならタンドゥル・プワゾンは昼間の顔。明るく、温かく包み込む陽の光。すべての生命体のエナジー。
『そう、それは宛らあなたの生まれ月の風のよう。その風に誘われて私はここまで来たけれど、甘い罠に嵌ってしまった…。もう、抜け出せない……』
身体の芯から疼くのを感じずにはいられなかった。時の流れとともに変化するその芳醇な存在は身も心も夢中にさせる。
『ならば、ずっと、このままその香りを身に纏っていたい…。あなたのトップノートも、ミドルノートもベースノートもすべて感じていたい。そしていっそのこと…私を酔わせて、狂わせて…。何もかも忘れたいの。忘れさせてよ、工藤君……!』
頭から掛け布団を被り、ベッドに潜りこんだ哀はひとり咽び泣いていた。視界を遮っても、目を閉じて自ら闇に籠もっても、彼の残像は消えてはくれなかった。
「…阿笠と申しますが、平次君は…、ハイ…あ、すみませんなー…」
阿笠博士は、リビングの電話で何やら小声でコソコソと話をしていた。
「おお、平次君か?突然すまんのう…、阿笠…」
と、その時博士の後ろから幼い腕が伸びて来た。その小さな指はいきなり電話のフックをプツッと押さえる。博士の耳に通話の途切れた音が空しく響いた。ふいの仕打ちに博士は驚いて振り向く。
「こ、これ、新一君!子供みたいなイタズラは…」
「どーこへかけてんだよっ」
コナンが両腕を頭の後ろで組み、半開き状態の目で面白くなさそうに博士を見ている。博士はギクッとした。
「あ、いや、そのぅ…」
決まり悪そうに頭をかきながら、コナンに言い訳しようとしたが、言葉が出て来ない。博士は冷や汗をかいた。
「…ったく…。余計なことすんじゃねえよ」
「いや、ワシは、そのォ〜…、とっ、友達に電話しようと…」
「ふぅー…ん、ずいぶんと若い友達なんだな」
「そ…そうなんじゃよー。最近ネットで知り合った…」
「ハイハイ。……で?その『ネット友達』には、オレが腹撃たれて入院してる最中の電話以来、話はしたのか?」
と、少々呆れ気味に博士をチラッと見やる。彼は見ていて気の毒なほど、顔が引き攣り笑いをしていた。コナンはやれやれ、と溜め息をついた。
「平次君って、ちゃーんと聞こえてたぜ?」
「す…すまんのう…。君が深刻な悩み抱えてそうじゃったから、同い年の友達の方が話やすいかと思っての…つまり……」
と博士は人差し指で頬を掻く。
「…いいよ、べつに。怒ってねえから…。ただ、あいつに、相談にのってやってくれ…なんて電話は二度としないでくれよな……」
コナンは正面から博士を見上げて頼んだ。その瞳の中には、やはり、何処か思い詰めたような感じがある。それが、博士にとって最大の心配の種だった。何とかしてやりたいと思うのだが、電話しているのが見つかった以上、もう他にいい手立てがない。
「蘭の事ならともかく、組織絡みの事はこれ以上、誰の手も煩わせたくねえんだよ」
「じゃが、彼なら君の正体知っておるんじゃから…」
「そういう問題じゃねえ。アイツのことだから、博士がそんな電話をすればすぐこっちに飛んで来る。バカがつくほどお人好しだからな。これ以上この問題に巻き込みたくねえんだよ。オレと接触すればするほど、万一のとき、服部や和葉ちゃんたちに危害が及ぶ可能性が高い。せっかく住んでる距離が離れてんだ。なるべく接点をもたねえほーがいいんだよ。奴らから標的にされないためには、な……」
と淋しく笑った。握り締めた拳が心なしか震えてるように見えたのは気の所為か…。
と、その時だ。リビングの電話が鳴り響いた。
ナンバーディスプレイ表示パネルを見ると、072…という番号が表示されている。
「0728…、はて?」
072で始まり、尚且つ、そのあとに8がつく電話番号地区は、大阪府東大阪市の一部と枚方市、門真市、交野市、大東市、四条畷市、寝屋川市…。…寝屋川?
「…げッ、服部!」
コナンの声に博士は焦った。
「どっ、どうするんじゃ!君がいきなり電話なんか切るからじゃぞっ!」
「ンなこと言ってる間に電話出ろよっ」
「…って言ったって用件何を言えばいいか困るじゃろ!君のことは言えんのじゃから」
「だったら、『服部平次お勧め奈良観光ツアー組むとしたらどーゆーコースがあるか?』とでも聞いとけっ」
「奈良!?何でじゃっ?」
「大阪とか京都、神戸のガイドブックはよく見かけるけど奈良はあんま見かけねえしっ。それに寝屋川に住んでんだから、遠足で奈良ぐらい行ったことあンだろ?んじゃ、オレ帰るからっ!」
早口でそれだけ言うと、その場を逃げるように
「ごめんな、博士っ」
とドアに向かって走り去った。
「…新一のやつ〜」
苦虫を噛み潰したような顔しながらも、博士は受話器を笑顔で取った。
−…ほんとに、ごめんな、博士……−
博士の家の門を出て、コナンは後ろを振り返り、心の中で詫びた。博士が本気で心配してくれていること、わかっている。でも、すべて甘えるわけにはいかないから……。
それに…これ以上悲しいカップルを増やしたくなかった。幸せになる可能性を秘めたふたりには、このまま平和な日常を過ごして欲しい。自分達みたいに離れ離れにならないように……。コナンは祈りに似た気持ちでそう思った。
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