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 江戸川コナンと灰原哀は今、阿笠博士に頼まれた用事で杯戸百貨店に行こうと街を歩いていた。
「…ったく、人の祝いばっかしてねえで自分が祝ってもらえるようにしろっての。いいかげん早く嫁さんもらえばいいのによ」
両腕を頭の後ろに組み、面倒くさそうにぼやく彼を横目に、哀はクスッと笑う。
「まあいいんじゃない?博士の恋人は目下のところ発明することそのもの。べつに悪くないと思うけど?」
これまたどうでもよさそうに話す哀にコナンも軽く溜め息をつく。
「ほとんどガラクタだけどな。しょっちゅう爆発して黒焦げになってりゃ、命幾つあっても足りねえぜ」
口は悪いが、これでも一応心配しているのだ。当の本人はいたってのんびりしたものだが…。
「ええ…と、友達の結婚祝いと友達の奥さんの出産祝い…だっけ?何がいいのかさっぱり見当もつかねえや」
「お店に行けば何とかなるわよ。まず品物見てみないことには…」
「わあってるよっ」
少し拗ねたような顔をしているこの少年を、彼女は和んだ表情で見ていた。
この穏やかな日々が永遠に続くといい。たとえ小学生のままのこの姿でも…。いや、むしろ彼女はそれを望んでいた。仮の姿で過ごす「今」こそ哀にとっての安らぎなのだから…。忌まわしい「昔」から逃れる唯一の手段。それに…彼女にとっての「特別」でもあった。決して口にしてはいけない密やかな。
「何だよ。人の顔じっと見て」
ぶっきらぼうに問いかける声に、哀は我に返った。同時にいつもの無表情に戻る。
「…べつに」
「あっ、そ」
小憎らしい程に淡々とした口調だ。しかたのない事とはいえ、もう少し温かな言い方してくれてもいいのに、と彼女は思う。誰かさんには決してそんな風に言わないくせに…。そこまで思って哀は苦笑した。
『何考えてるんだろう。私、こんなの似合わないのに。バカみたい』
想いを振り切るように彼女は真っ直ぐ前を向いて言った。
「ほら、もうすぐ着くわよ」
「おうっ」
コナンも気分を変えてデパートに足を向けた。
ふと何気なしに、角の喫茶店を見やる。
『ん?…あ、あれは…!』
ウォッカだ!
でも、今日は何故かジンはいない。どうやら単独行動のようだ。コナンの瞳が鋭く光り、標的を逃すまいと視線を黒服の男に照準を合わせる。
「工藤君?」
彼のただならぬ形相に哀もその視線の先を追った。
「……!」
コナンの足が一歩進む。獲物を見つけ、意気揚々となっているライオンのようにしなやかに…。顔面蒼白になった哀はあわてて彼の肩に手をかけ振り向かせた。
「やめてっ、工藤君!」
凍りつきそうな心を必死で押さえ、彼女は目の前の少年を引き止める。彼女自身の頭の中で非常警報が鳴り響く。パニック寸前だ。逃げ出したい衝動を堪え、彼を真っ直ぐ見据える。
−彼の暴走を押さえなければ…−
「自分が今何をしようとしてるか、わかってるの!?」
「あぁ、いつもジンと行動を共にしてるヤツが、見ろよ。今はひとりだ。危険は半分減ったって事。つまりヤツらの行動を探る貴重なチャンスってわけだ」
口の端が上がり、今にも飛び出して行きそうな彼の肩を強く押さえる。
「よしなさい」
「…って言われてハイそうですかってやめられっかよォッ!」
と哀を睨みつける。彼の目つきに小さな胸の痛みを感じながら、それを見事な仮面で覆いつくす。
「あなたっていつもそう。組織の事が絡むとすぐ頭に血が昇って浅はかな行動をとる。それでいったい何度危険な目に遭ってるの?少し頭を冷やすことね。」
「なんだと、テメ…ッ!」
「よく考えてって言ってるのよ。妙だと思わないの?いつも二人組で行動してるのに今日に限ってひとり。どう見たってプライベートで動いてるって風じゃないわ。それにジンだけならともかくウォッカだけだなんて…」
言われてみてコナンはハッとした。たしかに冷静さを欠いていた。普段なら、そんな事言われなくても自分で気づいてる。哀の言うように自分は今ムキになっている…。
それにしても何故?彼女の言うとおり、このまま何の準備もなしで行くには危険すぎる。でもこのまま見過ごしてしまっていいのか?薬のデータを手に入れる為の糸が目の前にあるのに…?
「何か引っ掛かるのよ。バスの時といいアニマルショーの時といい、最近何か変な感じがして…」
哀は思わず身震いする。両肘を抱え、蒼ざめた顔をコナンに向けた。彼女の感情がダイレクトに伝わる。
『…アニマルショー……か…』
コナンも全く不安がないわけではない。
『赤井…とかいったか…あの男…』
彼の探偵としてのアンテナにも引っ掛かっていた。でもそれを口にするとますます引き止められてしまう。
フッとコナンは笑みを洩らした。
「考え過ぎだって。もし仮にそうだとしてもだ、逃げてばかりじゃいつまでたってもデータなんて手に入らねーぜ?」
「……!」
薬の事を言われると、哀も弱い。彼女自身も何としてでも早く手に入れたいと思っている。そして一刻も早く解毒剤を作って、このひとの身体を元どおりにしてあげたい。
−だけど、元に戻ったその後は…?−
「…バカね」
今度は哀が冷たく笑う。
「そんなに焦って追いかけて、彼らに捕まって殺されたりしたら元も子もないじゃない」
「だから死なねーよーに気をつけっから…」
「組織を甘く見ないことね!」
突き放すような強い口調にコナンはたじろいだ。
「気をつける気をつけるって言って今までどれだけ無謀な行動をとってきたと思ってるの?今度こそ生命を落とすかもしれないわ。組織にいた私が言うんだから、厭でも忠告は聞いてもらうわよ」
と、背を向けて行こうとする彼の腕を掴んで踵を返し、路地に彼を引き込んだ。
「は…離せよッ!ヤツを見失ってしまうじゃねえか!」
「イヤよ。このままあなたを行かせやしないわ。人が殺されるのはもうまっぴら!」
 さっきから頭ごなしの物言いを続けている哀にうんざりしていたコナンはとうとうキレた。
「いいかげんにしろよ、灰原」
くぐもった声に怒気が籠もる。
「いつもいつも後ろ向きなことばかり言いやがって。イライラすんだよ!」
「なッ…!」
「オメーはいいよな。元にもどろーがもどらまいが帰りを待ってるヤツ、いねえんだろ?だからそんな暢気に構えてられンだろ!」
「……!」
弾かれたようにコナンを凝視し息を呑んだ。
 彼女の瞳にさっきまでのクールな光はない。眉間に苦悩の証が刻み込まれた。コナンは言い過ぎたと瞬時に感じたものの、溢れ出てくるもうひとつの感情を止められないでいる。
「早く蘭に本当のオレの姿を…二度と縮まないオレの身体で逢いたいんだ!会って本当の声で…工藤新一の声でオレの本音を伝えたいんだ!長い間心配かけてすまなかったと謝りたい。ずっと…ずっと一緒にいて、アイツを安心させてやりてーんだよ!生命をかけてもなァッ」
冷水を浴びせかけられたように感じた哀の手から力が抜ける。コナンの腕も離れた。
−蘭、毛利蘭。彼、工藤新一の想い人−
その名前を聞いた瞬間、哀の内部で何かが崩れ落ちた。彼女はそれでも歯を食いしばった。口唇から洩れてきそうな一言を寸前で堪える。でも…
「…暢気だなんて酷いこと…言うのね、工藤君……」
コナンは罪悪感を感じ、目を叛けた。それでも素直に謝ることも出来ず、彼女に背を向けた。意地になってる。それはわかっているけれど…。
 ふと喫茶店に目をやると、ウォッカは中で待ち合わせの相手と出会ったところのようだった。テーブルから離れレジに向かっている。それを見た途端、コナンの心はまた弾け飛んだ。
『しまった!見失っちまう!』
焦ってその場を立ち去ろうとするコナンに哀はハッと我に返り、叫んだ。
「ダメ!工藤君、行かないで!」
−クドウクン、イカナイデ−
 その瞬間、コナンは再び腕の自由を失った。哀が彼を自分の方へ半ば強引に向かせたのだ。
『えっ?』
 コナンは今、自分に何が起こったのか、すぐには理解出来ないでいた。
 目の前には彼女の顔が…瞼を閉じた彼女の顔半分が、そして…そして、自分の唇には…温かい…優しい感触が……
『な…っ!』
やっと状況がわかった。慌てて彼女を突き放す。
「な、何すんだッ…よ…」
最後までは怒鳴れなかった。
「は…灰…原?」
彼女は、哀は泣いていた。瞳にいっぱい涙を溜めて…。耐え切れぬ想いを止めることなく次から次へと頬に涙を伝わせていた。
 哀は、困惑の色を浮かべている少年の見開かれた真っ直ぐな瞳に俯いてしまった。
「…きなのよ…」
掠れた声で彼女は呟く。コナンは聞いてはいけない事を聞いていると思いながら、意に反して聞き返してしまった。
「え?」
覚悟を決め、哀は顔をあげた。
 今度はハッキリ口にする。
「あなたのことが好きなのよ…!」
コナンは、いや、工藤新一は後ろから思いきり殴られたような衝撃を受けた。
「は…灰原…おまえ…」
今の言葉…まさか、灰原が?オレを?
「う…ウソ…だろ?」
そう思いたかった。
 自分は到底その気持ちに応えることが出来ない。いつものように、思わせ振りなセリフの後のお決まり文句「なーんてね」という言葉を期待した。
(時々そーやってオレをからかうんだよな)
なあ、灰原、頼むから…。
 しかし、それはすぐに裏切られた。
「嘘じゃないわ、工藤君。本当よ。あなたを愛してしまったの。」
 彼女の真摯で静かな、それでいて悲しげな口調にコナンの頭の中は真っ白になった。もう、何も言葉が出て来ない。後に続く彼女の言葉をただ聞くしか為す術がなかった。
「最初は薬の影響を受けた特例としてしか見ていなかった。そして、私の未完成の薬の所為であなたの人生をメチャクチャにした事への罪悪感。なんとか責任をとらないと…。これ以上あなたに危害が及ばないように私が守っていかないと…。そんな使命感のようなものだけだった。…でも、みんなと生活していくうちに…あなたと普通の小学生の暮らしをしているうちに…わかっちゃったのよ」
涙を浮かべたままの瞳で彼を見つめる。コナンは息苦しくなってきた。
「わかった…って…?」
コナンの声が渇いていく。そうだと知らずに、自分はさっき彼女に酷いことを言った。おまけに謝りもしていない。いたたまれなさを感じ、哀のことをまともに見ることが出来ない。
「あなたを守りたいこの気持ちが、もはや罪滅ぼしの為なんかじゃなくなってることが…。私自身があなたを失いたくないと思っていることが…!」
また哀の頬に、溢れてきた雫がとめどなく伝う。
「こんなこと、思っちゃいけないことぐらい、わかってる。でもあなたを失うぐらいなら小さいままでも構わない!もう…これ以上…耐えられないの。生命が奪われていくのを見たくないの!」
彼女はコナンのウィンドブレーカーの胸元を両手でキュッと握りしめもたれかかり、彼の肩に顔を埋めた。涙声で言葉を続ける。
「…この私の所為で…あなたまで…イヤよ…。お願い、だから…だからムチャはしないで!…お願い!」
顔をあげ必死で彼に訴えかける。
「…は…いば…ら、…オ、オレは…!」
 声がうまく出ない。鼓動は高鳴り、血の気が引いていく。どう言えばいいのか、コナンにはわからなくなっていた。そんな彼を哀は悲しげに、そして少し可哀相に思いながら見つめていた。
 彼の気持ち、わかっていながら私、彼を困らせている…。彼女は小さく吐息をついた。
「わかってるわ。もう何も言わないで。あなたはあの娘を愛してる。彼女もあなたを…」
コナンはすまなそうに瞼を閉じた。
「安心して。気持ちを伝えたからって応えて欲しいとか、そんなこと思ってやしないから」
「灰原…」
「…そんな顔しないで。惨めになるじゃない」
 それでも彼の表情は沈んだままだ。哀の両手がコナンの両頬をそっと包み込む。彼の瞼が薄く開いた。その澄んだ深蒼の瞳を覗き込みながら、彼女は幼い子供に言い聞かせるように穏やかに言った。
「あなたを必要としている人達を思い出して欲しかっただけ。ひとりで無謀な事しないで。工藤君、私が言いたかったことは、それだけ…」
哀の手が彼から離れた。それから彼女はついさっきまで彼が追っていた視線の先を、コナンに気づかれないよう、そっと見やる。
 もう大丈夫、あの不吉な男の影は何処にもない。
 ほうっとひと息ついてから、もう一度彼を見た。伏し目がちの彼の双眸。長い睫の間から漏れてくる切ない淡い光。
 もう限界だ。やっとの思いで蓋をした想いが、また溢れてきそうになる。あの娘から、彼を奪いたくなってしまう…!もうこれ以上一緒にいるのは苦しくて息ができない。
「…私、もう帰るわ。悪いけど博士の用事、ひとりで済ませてくれる?」
彼は、何も答えなかった。いや、たぶん口がきけなくなってると言ったほうが近いかもしれない。ほんの僅か、口唇が動いただけだった。
「…それじゃ…」
「あ、あぁ…」
声を詰まらせたコナンに背を向け、疲れた足取りで彼女は歩きだした。二度と振り返りもしないで…。
 コナンはただ茫然とその後ろ姿を見送ることしか出来なかった。複雑な想いを小さな胸に抱えたまま…。
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