プロローグ〜約束のあと
−前編−
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今にもぶち破りそうな勢いでドアを叩く音が、建物内に響き渡っている。
同時に被さるのは、それをも掻き消すほどの金切り声だ。
「ここから出せっ!出せ出せ出しやがれ!!」
もともとクセのある赤い髪を、一層逆立てて怒鳴り散らしているのは、小塚鷲羽。
小柄な身体もお構いなしに、さっきから全力でドアに殴り掛かっている。
その腕っ節は、華奢な見た目からは想像できないほど強く、鍵なんかとっくに壊れててもおかしくないと思えるくらいだ。
しかし、いくらやっても扉が開くことはなかった。何故なら、この扉を閉ざしているのは、鍵なんかじゃないからである。
「もぉ……いい加減にしてよ」
衣斗紀はうんざりした表情で、暴れる鷲羽の傍に立っていた。
彼女こそ、今、魔力をもってして扉を押さえている張本人だ。
巫女である衣斗紀の力は、強いと言える部類に入る。それでも、一定量の魔力を長時間消費することは楽ではなかった。
それなのに鷲羽ときたら、尚も開くはずのないドアに挑み続けており、一向に諦めそうにない。
まったく、その身体のどこにそんなパワーが余っているのだろうか。
この威嚇しっぱなしの野良猫みたいな生き物を持て余して、衣斗紀は溜め息を吐いた。
「それはこっちの台詞だよ!さっさとここから出せってんだ!」
「あのねぇ、何も監禁しよってんじゃないのよ。あんたの素性が判るまで、ちょっと待っててほしいだけ。なのに、どーしてそんなに逆らうの?」
「ふざけんな!ドアが開かなきゃ立派な監禁だろーが!」
敵意剥き出しの剣幕で、隙あらば飛び掛からんとする。
喋れるぶん、猫よりもっとタチが悪い。しかも、聞く耳は持ちあわせていないのだから、最悪だ。
「大体ちょっとちょっとって、もう3日も閉じ込められてんだぞ!こんな豚の餌みたいな飯食わせやがって、あたしは家畜じゃねっつの!」
「あたしだって飼育係じゃないわよっ。でもこう言っちゃなんだけど、今のあんたはどっから見ても動物レベル。ううん、豚の方がキレイ好きなだけまだいいかも」
「てンめぇ〜〜……!」
別に衣斗紀は、挑発しようと思ってこんなことを言ったわけではない。ただ、見たままを口にしただけだ。
何しろ鷲羽はさっき、衣斗紀が運んできた食事の膳をその場でひっくり返したのである。
だから、足元のそこら中に皿や器が散らばっているし、こぼれた中身で床はぐちゃぐちゃ。
そしてその時に、自らも頭からスープを引っかぶり、動く度にその雫を滴らせている鷲羽。
元より泥で汚れていた服も、更に酷い状況になっている。
そんな光景を目にしたら、厭味のひとつくらい言いたくもなるってもんだ。
「まったく、少しは感謝してほしいものだわ。行き倒れのあんたを保護したのはあたしよ」
「頼んでないだろ」
「大体、アテもないのに人間が魔女の世界まで来るっていうのが有り得ないわよ。あんた一体、何者なの?」
「………………」
訊かれると、途端に黙り込む。たった今まで威勢よく吠えていたのは、何だったのかと思うほどの沈黙っぷり。
実際、衣斗紀はこの鷲羽という女のことを、まだ何も知らなかった。どんなに尋問しても、絶対に口を割らないのだ。
仕方なくこちらで調査を進めているわけだが、名前しか情報がないのでは、時間が掛かっても仕方のない話だった。
つまり、こんな風に軟禁状態が3日も続く羽目になったのも、半分は鷲羽が自分で招いた結果なのである。
それを棚に上げて好き勝手に喚き散らしているのだから、とんでもない。
「……ま、いいわ。とにかく巫女長様のお許しが出るまでは、ここでおとなしくしててよね」
こんな女、拾うんじゃなかったかな。一瞬、後悔にも似た思いが衣斗紀の胸によぎった。
けれどその一方で、誰に命令されたわけでもないのに、毎日三度の食事を鷲羽の部屋まで届ける自分がいる。
どうしてだろうか。誰も信用せず、誰にも頼らない。見るもの、触れるもの、自分に触れようとする何ものも。
そのすべてを拒絶して、守って、たった一人で。そんな疵だらけの彼女を見て、放ってはおけなかった。
でもそれは、同情とも違う。それより、試されているような気分だ。この人間を見捨ててしまったら、自分の中の何かを失う気がして。
何だか面白くない。さっきよりも厳重な結界をドアに施して、衣斗紀は部屋を後にした。
――そして、その数時間後。
「小塚鷲羽!」
衣斗紀は再びその封印を解いた。
その声色は、心なしか浮かれた調子だ。
「喜びなさい!ここから出る許可が……えっ!?」
しかしそれも束の間で、すぐにまた険しい顔付きに戻る。
鷲羽の姿が見当たらないのだ。
扉は確かに閉まっていたし、結界を抜けた形跡はない。散らかった床も、先ほどと変わりない。
違うのは――――――窓だ。窓が開いている。
けれど、この部屋は高層階にあり、窓からの逃走は不可能に思えた。
だからこそ、衣斗紀も窓にまでは魔法を掛けなかったのだ。
ただでさえ窮屈な部屋なのだから、窓くらい好きに開けさせてやってもいいだろうという考えもあった。それが裏目に出るなんて。
ふと、もうひとつの違和感に気付く。窓が開いているのは判った。でもまだ何か、何かが違う。
外から吹き込んできた風が、強張る衣斗紀の頬を撫で、その汗を穏やかにさらっていく。
見晴らしがいい。そう、とても……妙なくらいに。
カーテンが、なくなっていた。
「あの……バカ!」
込みあげる苛立ちとやりきれなさに、衣斗紀が思わず毒吐いていた頃。
鷲羽は、ちょうど地面に足を着けたところだった。
もともと運動能力は低くない。加えて身軽な体型。それらを活かし、カーテンを裂いて作ったロープで、窓から伝い下りたのである。
「けっ。誰が馬鹿正直におとなしくしてるかっての!」
脱出が成功したからには、長居は無用だ。
行く宛はないがとにかくここから逃げ出すのが先決と、さっそく走り出そうとしたのだが、
「どこに行くつもり?」
「ぎくっ!」
怒気を含んだ声が、鷲羽を引き止めた。
いつの間にやら、後ろに衣斗紀が立っている。
こうもあっさり追い付かれてしまうなんて、魔法ってやつはフェアじゃない。
と、心の中で愚痴ってみたものの、当然反論はなかった。
そんなことより、万事休すだ。
「まったく……油断も隙もありゃしないんだから!」
「衣斗紀」
どこからか、美しく透る声が聴こえた。
「下がりなさい」
衣斗紀の後ろから現れた、一人の女性。
この女性が衣斗紀と同じ巫女であるということは、一目見て判る。しかし、それだけではない。
畏怖すら感じさせる、厳かな口調。それと相反するように、その立ち姿はしなやかで、気品にあふれていた。
周囲には数人の巫女がかしずくように取り巻き、彼女が只者ではないことを表している。
魔女の親玉――巫女長だ。鷲羽はそう直感した。
「あなたのこと……調べさせてもらいました」
「何……?」
「悪く思わないで。あなたがこの世界に留まるに相応しい人物なのか、見極める必要があったのです」
「ハッ!人の価値を勝手に決めるたぁ、魔女の世界の住人ってのは、ずいぶん上から目線なんだな」
「あんた、巫女長様に向かって何て態度なの!人間界にだって他国に入る時は入国審査があるでしょ!それとおんなじよ!」
「魔女の世界は、それ自体が一つの国みたいなものですからね。だから、言葉や文化の違いによる争いがないのです」
声を荒げる衣斗紀を制して、巫女長は優しく微笑んだ。
「人間と魔女……住む世界が分かれているのは、二つが相容れない存在だから……」
その笑顔のまま、話し続ける。
「あなたが人間である以上、私たちにはリスクを回避する義務があります」
「リスクだと……?」
「怨みや憎しみ、妬み、怒り……魔女の世界の住人は、そういった醜い感情に惑わされることがありません」
何だろう。何だか判らない。判らないが、鷲羽は違和感を感じた。
自然と魔法が織り成す、争いのない魔女の国。心を乱す負の感情、そういうものが存在しない世界。
それはきっと、理想郷にも似た素晴らしい世界のはずだ。
「でも、人間は違う……小塚鷲羽、あなたなら判るでしょう」
けれど今、鷲羽を見据える澄んだ瞳の奥には、どこか人間を蔑むような暗い光が潜んでいるような気がした。
「あなたの大切なものは、そういった醜い感情の犠牲になったのですから」
「!!」
「そんな怖い顔をしないで下さいな……言ったでしょう?調べさせてもらったと……」
あくまでも落ち着いた調子で、巫女長は言う。その物腰からは、悪意や嫌悪といったものは感じられない。
そのことが一層、ちらちらと見え隠れする闇の不気味さを引き立たせた。
「見たところ、あなたに危険な要素はないようです。辛い思いをされたでしょうが、あなたの選択は正しかった。我々はあなたを歓迎します」
それは、小塚鷲羽、その人を認めるという意味。
この世界に、人間を受け入れたということ。
醜い感情にまみれていようが、自分達と相反する存在であろうが、快く迎える、と。
「共に理想の世界を築いていきましょう」
なのに、何故だろうか。鼓動が早くなる。
鷲羽の心は、取り乱していた。
要らないものは持たなきゃいい。見たくないものは見なきゃいい。
誰も疵付けず、誰からも疵付けられない。
そうやって生きようとして、結局しくじった。
だからここで、今度は完璧に?そんな、理想の世界?
「違う……」
「え?」
「違う!あたしは……!お前に、お前らに何が判る!?あたしの何を知ってるってんだよ……!!」
「ちょっとあんた、どうしたっていうの?」
「触るなっ!!」
「きゃっ!?」
ふらふらと後退る鷲羽の腕を、衣斗紀が掴んだ。それを反射的に突き飛ばす。
衝撃に耐え切れず倒れ込み、身体を強く打った衣斗紀の悲鳴で、巫女達は非難にどよめいた。
「まぁ!」
「何てことを……」
注がれるのは、怒りと軽蔑の入り混じった視線。鷲羽を責めるたくさんの言葉。
気持ち悪い。あの時だってそうだった。誰もが己の正義を振りかざす。無遠慮に、自分勝手に、その演技に酔いしれる。
行き場を失くした心が、押し潰されて吐き戻しても、誰も気にも留めないのだ。
正しい事実達が鷲羽を捕らえようとして、次々に腕を伸ばしてくる。
鷲羽は、弾かれたように走り出した。
「!」
「お待ちなさ……」
「あなた達は追わなくてよろしい」
動こうとした巫女達を、巫女長が止める。
そして、彼女らがいる方向とは別の方を向いて、穏やかに言った。
「あの者を、よろしく頼みます」
命を受けた男は、小さくなっていく鷲羽の後姿を見つめながら、無言で頷いた。
「はあ、はあっ……」
どこを走っているのか、判らない。
だけど、止まることもできない。
本当は此処からも逃げ出したい。
でも、それももう終わりにしなきゃ。
鷲羽は走った。右も左も判らないまま。
ただとにかく、この森を抜けるまで。
『魔女の世界に行ってみたいなぁ』
『人間の世界よりも平和で……喧嘩なんてない。みんな仲良しで暮らしているの』
『先生!一緒に行こうよ!いつか絶対!一緒に行こう!』
もう還らない日常が、蘇っては景色と一緒に流れていく。
声も、笑顔も、他愛のない言葉も。
振り払うように走りながら、もう一度この手に取り戻したくて、探し続けてる。
『今度会う時は、魔女の世界で会えたらいいね』
手紙の文字なら、まるで息をしているかのように生々しくて、そのかたちまで鮮明に思い出せた。
けれど、それがはっきりすればするほど、現実は曖昧になる。
けたたましい群集。大切なものを守れなかった自分。
本当も嘘も、正しさも間違いも、何も見えなくなっていく。
不確かな世界から抜け出すように、過ちを葬り去るために、色んなことから逃げてきた。
きっと、色んなものを疵付けた。
だからもう、此処で最後にしなきゃいけないんだ。
あの子が眼を輝かせて語った、この約束の地で。
「はぁ……っ」
視界が開けた。
「………………来たよ……」
息が苦しい。激しく鼓動する心臓に合わせて、鼓膜がずきずきと鳴り響いた。
その痛みを紛らわせてくれるのは、目の前にある広大な景色。
森と、海と、空。小さな家々。そこに降り注ぐ太陽が、澄み切った空気を暖める。
すべてが完璧。涙が出るくらい、非の打ち所のない美しさだ。
たったひとつだけ、足りないものを除けば。
「あんたは……どこにいるの……」
まっすぐ伸びた水平線が、果てしもなく見えて、眩暈がする。
口に出して呟いたかどうか自分でも判らないまま、鷲羽はその場に倒れ込んだ。
背後に立つ人物の気配には、気付きもしなかった。
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