プロローグ〜約束のあと −後編−

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 チョークのあとが消えない黒板。
 配線が剥き出しになったスピーカー。
 きっちり並べられた、机と椅子。
 まるで、列からはみ出すことは許されないのだと言うように。
 そのうちの一つに、少女は腰掛けていた。

『鷲羽先生、来てくれたんだね』

 宵の入りなのか、それとも夜明けなのか。薄暗く、人気のない教室。
 かつて、鷲羽が足を踏み入れなかった場所。
 そこに今、立っている。

『……ああ』
『ありがとう』

 判ったような、気になっていた。
 そんな幻想は振り捨てて、あの時ここに来ていれば。
 踏み込んで、その手を掴んで、強引にでも引き寄せていればよかった。
 なのに、そうしないことが正しいのだと、言い聞かせて。
 少し離れたところに立って、見守っているような気でいながら、本当は何も見えていない。
 誰もがそう。貫きたい自分の正義だけを見て、他のものには目を瞑る。
 それが間違いだったと気付いた時には、何もかもが終わり過ぎ去った後。何もかも、遅すぎるのに。
 少女が床に降り立って、鷲羽の方に歩み寄る。白いワンピースの裾がふわりと揺れた。
 その姿は小柄な鷲羽よりもまだ小さく、折れそうにか細い。無邪気な笑顔が似合うだろう、あどけない顔立ち。
 けれどその表情は、喜びと悲しみが混ざり合い、妙に大人びた雰囲気を醸し出している。

『……約束』
『え?』
『約束、守れなくて、ごめんなさい』

 それは、あの手紙の言葉と同じ。
 一緒に魔女の世界に行こうと、そんな夢物語みたいな約束。
 破られる日が来るなんて知ることもなく、きらきらと光っていた。
 信じてる、なんて結局、口先だけ。信じたかったのは、自分の正しさだけだ。

『なん……で……。あんたが謝ることなんて何も……』
『ごめんなさい』
『止めな。怒るよ』

 そう言いながら、鷲羽は、泣いていた。
 支えだとか、居場所だとか。そんなものになれた気がしていた。
 本当にそれらを必要としていたのは、きっと自分の方だったのに。
 いつもわざと遠ざけてきたのに、思いがけず届きそうになった途端、欲しくてたまらなくなった。
 けれど手にしてしまったら、きっと二度と離したくない。失うのが怖い。それで、結局動けない。
 だからあの時も、何もできなかった。
 だから、今はもうこんな夢現の世界でしか、話すことも叶わない。

『悪いのはあたしだ……!あんたをひとりにして……あんな目に遭わせて……最低だ……っ』
『先生……』
『ごめんね……っるして……ゆるして……』
『泣かないで、先生』

 おかしな話だ。今度会った時は、笑って抱きしめようと思っていた。
 なのに今、こんな小さな子に泣いて縋る大人は、自分だ。
 けれど少女は、そんな鷲羽を優しく受け止める。
 まるで、そうすることが当たり前のように。

『先生。先生は優しいね。あたし、先生が大好きだよ』

 鷲羽を覗き込むその顔は、あの日々と何も変わらない。
 このままやり直せたら。だけどそれは、叶わない。

『先生があたしをひとりにしたって言うんなら、あたしだって先生をひとりにしちゃった』
『!そんな……』
『でも大丈夫。だって魔女の世界はね、とっても素敵なところなの。先生もきっと好きになる』
『……あんたが居なきゃ、意味ないよ……』

 答えはなかった。
 ただ少し、寂しそうに笑う。
 もう二度と交わらない時間に、名残を惜しむかのように。
 その笑顔が、消えていく。
 どうしたって追いつけない場所へ。

『待って……そっちへ行くな!』

 無駄だと判っている。夢だと知っている。
 だけどそれでも手を伸ばす。
 あの時、伸ばせなかった、手を。

「行かないでっ……!」

 掴んだ影が、擦り抜けた。
 はずだった。

「!」

 なのに突然、確かになる感触。
 握り締めた布の肌触り。
 少し硬めのマットレスと、柔らかい毛布。
 見知らぬベッドの上で、焦点が合わずに、ぽかんとする。
 覚めきらない目を凝らして、考えた。
 何だろう。誰かの顔だ。誰かの顔が、今、ものすごく近い。
 鷲羽に襟首を引っ掴まれ、息ができずに歪んだ顔。
 その顔が、苦しげに喋った。

「は、はぁ……判りました」
「!!?……っ、ぎゃああああああ!」

 状況が飲み込めた瞬間に、一寸の迷いもなくグーで殴り飛ばす。
 例の怪力パンチをお見舞いされた顔は、一瞬で鷲羽の視界から消え、それとほぼ同時に少し離れた場所で呻いた。

「な、な、な、何だテメー!!」
「訊くなら、殴る前に訊いて下さい……」

 そうは言っても、反射神経で生きているような鷲羽である。嘆くだけ無駄だ。
 というか、こんな血の気の多い奴、まともに相手してたんじゃ身が持たない。
 攻撃的な態度には、攻撃的な態度でもってして臨む。
 この数日で、衣斗紀は既にそのことを充分心得ていた。

「ちょっとこの暴力女!大ちゃんに何すんのよ!あんたを心配して、付いててくれてるっていうのに!」
「衣斗紀……そんな子供相手に本気で怒らなくても」

 けれども、それを知らないのがこの男。“大ちゃん”と呼ばれた、長身の若者だ。
 痛む左頬をさすりながら起き上がると、フォローのつもりでそう言った。のだが。
 その言葉に再び逆上した鷲羽の拳が、今度は右の頬に飛んだ。

「誰が子供だ!」
「ひ、ひはふんへふは……?」
「大ちゃーん、そいつそう見えて一応、保健の先生やってたのよ。子供じゃないわ」

 顔が腫れ上がって、もはやちゃんと喋ることすらままならない。
 男の短く切った銀髪の乱れを直してやりながら、衣斗紀は呆れ顔で言う。

「ねぇもういいじゃないよぉ。この女なら放置したって死なないわよォ。今だって結局3日間ほとんど何も食べないで平気なんだから」
「だからさっきも倒れたんじゃ……」

 裏の森を抜けたところ、断崖絶壁の淵で倒れていた鷲羽を、ここまで運んできたのは彼だった。
 その事実を鷲羽が知ったら、被害は顔面だけでは済まなかっただろう。
 何せ、他人の顔が傍にあっただけで、これだけ強烈な拒絶反応を示す彼女である。
 無防備な状態で、知らない男にベタベタ触られたと知れれば、どんなヒステリーを起こすか判ったものじゃない。
 しかし幸いなことに、気を失っていた鷲羽がそんな耐え難い現実を知るわけもなく、二人のやりとりにふてくされた表情を見せただけで済んだ。

「ふん、3日くらいなんだ。あたしは普段から5日は食べなくても何ともない」
「え゙っ」
「7日目過ぎたくらいになってどーしても腹が減ったら、カップラーメンかバナナ食ってたな」

 当然のことのようにのたまうが、 仮にも自立した大人の行動とは思えない。
 カップラーメンは論外として、確かにバナナは栄養価も高いし、ご飯代わりにできなくもない。
 でも、いい大人が自炊もせずにそればかり食べているというのは、いかがなものか。
 一人暮らしの大学生だって、もう少しマシな生活を心掛けているだろう。

「そりゃ身長も止まるわ」
「こんな不健康な保健の先生、嫌ですね」
「おまえらな〜……」

 もっともな意見である。だが、赤の他人に言われる筋合いはないというのが鷲羽の言い分だ。
 わなわなと打ち震える身体を抑えようともせず、鷲羽はベッドから身を乗り出して理不尽に怒鳴った。

「もう!出てけよ!」
「あ」
「え?」

 その拍子に、掛けてあった毛布がめくれる。
 途端、何故かやや下向き加減に集中する二人の視線。
 つられて鷲羽が目を落とすと、

「うっ……」

 そこにあったのは、下着の上にキャミソールだけのあられもない自分の姿だった。

「うひゃああっ!?」
「曲がりなりにも病人ですからね。検査はさせてもらったわよ。2、3日安静にしてれば問題ないけど。まったく無茶なんだから」

 慌てて毛布の中に戻った鷲羽を見ながら、溜め息まじりに衣斗紀が言う。
 その口調は、厭味っぽいながらもどこか心配しているような声色だった。
 しかし、動揺しまくっている今の鷲羽に、果たしてそれが届いていたかどうか。
 多分、届いていない。

「かっ、か、勝手に人の服を……」
「別にいいじゃない」
「あ、因みに汚れが酷かったので、洗濯させてもらってます」
「!?」
「後でお風呂も入った方がいいわよん」
「風呂って……!」

 おどける衣斗紀に反して、鷲羽はとうとう言葉を失ってしまった。
 もうわけが判らない。怒りと羞恥で顔が熱くなる。ただでさえ干渉されるのは嫌いなのに、こんな仕打ち、あんまりではないか。
 気絶してるからって、どうして他人に服を脱がされ、洗濯され、下着姿を見られ、しまいにゃ風呂まで強制されなきゃいけないんだ。
 そもそも、ここは一体どこなんだ。自分の足で歩いてここまで来た記憶はない。
 ということは、誰かに運ばれてきたってことだ。それじゃあ、誰に……。
 そこまで考えたところで、思考がストップした。
 既に、鷲羽の自尊心はボロボロ。これ以上はさすがにまずいと判断した彼女の自己防衛機能が、そうさせたのだ。
 そうとは知らない衣斗紀は、鷲羽が黙り込んだのをきっかけに、キリをつけようと切り出した。

「じゃ、あたしは帰るね」
「お疲れ様です」
「え、え?……お前は?」
「私はここの人間ですから……」

 その『ここ』がどこなのか判らないのだが。
 それでも判るのは、どうやら自分はこの見知らぬ男とここに取り残されるらしい、ということ。
 冗談じゃない。鷲羽は背筋が寒くなった。こんな変態と二人にされるなんて、たまったものではない。
 実際問題、初対面の相手に、変態も何もないものだ。
 だが鷲羽にとっては、寝ている女に必要以上に近付いたり、その服を断りもなく洗濯したりする男は、立派な変態だった。
 知らないとはいえ、助けてくれた人物に対して酷い言い草ではある。
 まぁ、知ったところでまた「頼んでない」と突っぱねるのがオチだろうが。

「ちょ、ちょっと待て!行くんならコレも回収していけ!」
「ヒドイですねぇ、コレだなんて。さっき“行かないで”って言ったのは、あなたですよ?」
「ふざけんな!誰がそんなこと!一体どういう……」
「小塚鷲羽!大ちゃんはあんたの教育係なんだからね!間違っても夜這いとか掛けちゃダメよ!」
「するか!ってか普通は逆の心配……っじゃなくて!教育係って何なんだよっ!?おい!!」

 必死の抵抗も虚しく、軽快に手を振って衣斗紀は部屋を出て行ってしまった。
 代わりに答えをくれたのは、見知らぬ男改め鷲羽の教育係だとかいう男の彼だ。

「あなたを語りべにするための指南役です」
「語りべ……?」

 聞きなれない単語に、眉をしかめる。
 それからたっぷり30分、鷲羽は『語りべ』というものの役目について聞かされる羽目になった。
 もともと無愛想な彼女の顔が、話が進むごとにどんどん不機嫌になり、気に入らないと思っているのが一目瞭然だ。
 大筋の説明が終わって一息吐くと、上目遣いに男を睨み付けながら鷲羽は一言、

「嫌だ」

 と言った。
 しかし、だからといってそう易々と引き下がるわけにはいかない。
 まったく厄介な者の指導を任されたものである。

「そう言われましても、魔女の世界に住む人間は語りべとして……」
「フン。魔女は人間にこんなヒドイことされてきたんですよーってか?そんな昔の話をウジウジと……あたしゃ嫌だからね」

 取り付く島もない態度に、これ以上宥めても無駄だと思ったのか、男は一歩引いた策に出た。

「仕方ありませんね。では、人間界に戻られます?」
「!」
「こんなことはあまり言いたくありませんが、それが条件なんです。飲めないなら、帰って頂くまで……」
「何だと……」
「あなたも理由があってこちらに来たのなら、今は巫女長の命令に従うのが得策かと」
「あいつらのいいなりなんだな。おまえの意志ってもんはないのか?」

 鷲羽だって負けてはいない。目一杯の皮肉を込めて言ってやる。
 しかし、この男はそんなもの気にもしていない様子で、きっぱりと告げた。

「私個人の意見としては、あなたには此処にいてほしい」
「え……」
「だからこそ、この役目も引き受けたんです」
「……どういうことだ?一体何を企んでやがる」

 思わぬ懇願の言葉に、一瞬たじろぐ。
 だが、それと同時に、鷲羽の不信感は頂点に達していた。
 突然現れて、教育だの指南だの胡散臭いことばかり。
 あの衣斗紀とかいう小うるさい巫女と親しげだったところからして、こいつも巫女長の息が掛かった奴であることは間違いない。
 大体、このヘラヘラと何を考えているのか判らない顔が、最初っから気に食わなかったのだ。
 現に今も、そんな鷲羽の思惑を見透かしているかのような食えない笑みで、

「企むだなんて。私はただ、あなたと友達になりたいと思っただけですよ」
「はぁ?」
「それに、私は他の連中と違って融通のきく人間だと自負してますからね。語りべとしての誇りなんて強制しませんし、楽だと思いますよ〜」
「何だそりゃ……」

 意味の判らないことを尤もらしく並べられ、鷲羽はげんなりと肩を落とした。
 本当に、むかつくほど掴めない男だ。
 話していると、色んなことがどうでもよく思えてくる。
 この男の真意も、さっきかかされた恥も、此処に来た理由も、変われない自分も。
 本当は全部、どうでもよくない。けれど、のしかかるようなあの重さは、不思議と消えていた。

「なってくれます?私と、友達に」

 そういう気色の悪いことを、よくもまあ平然と口にするものだ。
 こんな怪しさ満載の男、いちいち警戒するエネルギーが勿体無い。元より、信じるだの信じないだの考えるのは性に合わない。
 その点、ここまで徹底した不審人物なら、ハナっから信用なんてせずに済む。
 要するに、ぶん殴りたい時はぶん殴ればいいし、どつきたい時はどつきゃいい。気を遣わなくていいってことだ。うん、そうに決まった。

「い・や・だ」

 そんなことを考えながら、さっきよりも頑固な口ぶりで、鷲羽は言ってやった。

「大体、友達ってのは頼まれてなるもんじゃないだろ」
「!言われてみればそうかもしれません……」

 またこういう反応。いちいち腹が立つ。一見相手の意見を立てているように見せていて、実は自分のペースを守り抜いている。
 この男、どうあっても自分の優勢を崩させない気らしい。
 だったら、こっちだって遠慮はしない。好きにやらせてもらうまでだ。
 そう思ったら、何だか気持ちが楽になった。

「では、なりたいと思うくらいは自由ですか?」
「……勝手にしろ」

 どうでもよさげに言い捨てる。
 けれど、それは嫌になって放り出した言葉ではなくて、もっと自由な風みたいな心地よさを含んでいた。
 そのことに、鷲羽自身は気付いていなかったけれど。

「私は大門……よろしくお願いします、小塚さん」

 その笑顔はやっぱり胡散臭くて、何だか笑えた。
 少女の台詞が蘇る。
 魔女の世界はね、とっても素敵なところなの。
 先生もきっと好きになる。

「鷲羽でいいよ」

 そうなればいい。
 そうなればきっと、今度は夢の中でも、笑っていられるから。
 ぶっきらぼうに答えながら、鷲羽は差し出された大門の右手を自分の右手でぺしっとはたいてやった。
 思いがけず握手を拒まれ、ついつい苦笑いを浮かべる大門。してやったりだ。
 記憶の中の少女の瞳が、微笑んだ気がした。






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