. 6月12日。 晴れ。 何の変哲も無い、平凡な一日。 けれど、平凡が何よりも失いやすく得難いものであるということ。 少なくともここにいる二人や、彼らを取り巻く人々は、それを充分に知っていた。 時は刻々と過ぎ行き、同じであるものなど一つも無い。 それなのに、人はそんなことには気付かずに、無闇やたらと新しいものや変化を求める。 でも、誰しもよく見れば判るはずだ。 今日は昨日と違う。『今』は、確実に『さっき』とは違うということに。 「まったく大したものだよ、人間ってやつは」 仰々しい仕草で、ハオが溜め息を吐いた。 「文明とは、飽くことを知らない人間の欲が生み出す、最愛の子供なのかもしれないね」 「あのな」 芝居がかった物言いに、葉が茶々を入れる。 二人の手には、揃って携帯があった。形からして同じ機種だ。 「かっこつけて言っても、ちっともかっこよくないぞ。携帯買って1ヶ月で初めてメールしてるっていう事実はな」 「冷たいなぁ、もっと祝ってくれてもいいじゃないか」 「いや、祝うっていうかおまえ……大体何なんだよ、これは!」 そう言って、携帯の液晶画面をハオの鼻先に突きつけた。 受信メールの本文画面。そこに書かれた文章にはハオにも見覚えがある。 何しろ、自分が初めてメールというものを作成し、たった今弟に送った文面なのだから。 「『件名:魚食べたい』って、意味が判らん!!」 「適当な文章を送っただけだから意味なんてないさ。強いて言えば、僕は今晩魚が食べたいという気持ちだって意味かな」 「おま……!まぁいい、百歩譲ってそこは突っ込まないでやるとしてもだ。何で件名にそれを書く!?でもって何なんだ『本文:ハオより』って!?」 「署名」 「違う!!本文って指定されてんだから素直に本文を書けよ!魚食べたいって書け!」 「そんなのどこに書いたっていいだろ、読めれば」 あっけらかんとして言う兄を見て、今度は葉が溜め息を吐く。 自慢にはならないが、葉はかなりの機械オンチだ。しかしハオはそれ以上だった。 いや、オンチというよりはちまちました操作が嫌いなだけかもしれない。やる気がないみたいだ。 「名乗らなくても、オイラの方に登録してあるから名前は勝手に出るんよ」 「ふぅん」 署名は要らないのか、と独り言のように呟いて、また画面と向き合う。 その姿は、かつて人間を滅ぼすと息巻いていた人物のものには到底思えない。 ふらふら出歩く放浪癖が治らないので、連絡が取りやすいようにと誕生日に贈った携帯。 しかし一向に使おうとせず、痺れを切らした葉が無理矢理に基本操作を教え込んだ。 着信通話、発信を経て、やっとメールに辿り着く頃には誕生日から既に1ヶ月……つまり今日。 しかし昨日までメールの受信すら出来なかったのだから、この進歩は大したものである。 葉がそんなことを考えている間にもハオは携帯と格闘していたが、ふと顔を上げて、 「葉」 「ん?」 「このグリーティングって何だい?」 「………………」 人に教えるという行為が、ここまで疲れるものだとは。 この携帯に、そういう機能が付いていることは一応知っている。 確か、相手に届く日時を指定してメールを送信することのできるグリーティングカードのような機能だ。 しかし何にせよ、これ以上、自分も苦手な機械操作を教え続ける自信も根気もない。 「もうおまえ、必要ないもんはいじるな。悪いこと言わんから、な?電話とメールが出来りゃ充分だろ?」 「……君、僕のこと相当バカにしてるだろう」 ぎくり、とした。 その口調から、ハオがちょっと怒っていることが判ったからだ。 これ以上本気で怒られたら、手に負えなくなる。怒りに身を任せたハオの勢いは、それこそ怒ったアンナと肩を並べるほど。 だからこの二人が喧嘩でもしようものなら、一瞬にして地獄絵図が……という話は、また別の機会にするとして。 とにかく今は、最悪の事態を回避すべく、葉は手元にあった冊子を掲げた。 「だって見ろよ、このぶっとい説明書!オイラだってまだ全部理解してないんだぞ!?」 「うーん……」 「機能のひとつひとつ教えてたら、それこそ次の誕生日が来ちまうって!」 ぽんとハオの肩を叩き、宥めるようにそう言う。説明書の分厚さが決め手になったのだろうか。 少し不服そうにしながらも、ハオは折りたたみ式の真新しい携帯を二つに折ったのだった。 どうしていつだって、人は答えを探してしまうのだろう。 雲ひとつ無い空の完全な青さ。この青以上に完璧なものなんてあるのだろうか。 やっと肩に届くくらいの髪を、いたずらに風がもてあそぶ。 後どれくらい探し続けたら、完璧な答えに辿り着く? この髪が、腰まで伸びたら? そんな願掛けが下らなくて、どうせまた切ってしまうんだろう。 閑散とした平地に、吹き抜ける風の音。 「…………………」 色々な道を歩いて、色々な場所を通って、それでも最後には自然と、ここに足が向いていた。 導かれたとか、直感だとか、そんなものでもなかった。 ただの、意志だ。勝手に何かが決まることなんて、有り得ないのだ。 今こうやってここに立っていることも、隣におまえが居ないのも。 全部、結果だって判っている。 人は結果の上を歩きながら、未来を選択してる。 最初から、答えなんてない。 それなのに、どうして、いつか辿り着けるなんて期待をしているのだろう。 『おまえらってさぁ』 頭の中に響く声。 それが思いのほか遠くて、焦りを感じた。 こんなに歩き回っても、ちっとも近付いていない。全然、近付けない。 『そんなどうでもいいような事が気になるほど、ちっちぇえの?』 そうだ。いつだって、どうでもいい事ばかり考えている。 答えなんて出るわけないと判っているのに、懲りずに探し続けてる。 仕方ないんだ。だってそれが、人として生きるってことだろう? なのに、おまえは、今どこに居るんだよ。 問いかけたら、もしかすると答えてくれるんじゃないだろうか。 そんな期待をかき消すように、ジェット機の飛び立つ音が耳をつんざく。 「ったく……仕方ねぇな」 口に出してみたら、語尾がかすれた。 何だか、懐かしい声を聴いた気がして振り返るけれど、そこにあるのは見知った風景だけだった。 最初からそうなることは決まっていて、見付けるべき答えなんてない。 ここにおまえは居ない。 でも、でもきっと、どこかに居るはずだ。何故だかそう思った。 今日なら会える。だって、今日は記念日なのだ。 だから。だから探さなくちゃ。 さっきの爆音が尾を引いて、耳の奥で離れない。 「……ちっちぇえよ」 今度は、声はかすれなかった。 ただ、何だかとてつもなく長い間、嘘を吐いている気がした。 BACK≪ ≫NEXT |