. 6月30日。 雨。 雨は嫌いじゃない。しとしとと降り注ぐその雫は、日常のあらゆる音を掻き消してゆく。 見慣れた景色が、まるで別物のようなふりをして静かにそこに居る。 もしかしたら、静寂っていうのは、イコール音のない状態とは限らないのかもしれない。 色んな音があちこちから聴こえてくるから、気になるのだ。 同じ音がずっと続くだけなら、それはそれで静寂と言えなくもないだろう。 現に今も、露天風呂の屋根に遮られた雨粒が苛立たしげな音を立て続けているが、うるさいとは感じない。 まぁそんなことを考えても仕方ないか、と頭の中で呟いて、ハオは浴槽の岩にもたれ掛かった。 「もしも明日、世界が終わるって言われたら、どーする?」 ちゃぷん、と水音を立てて、振り返ったのは葉だ。 ハオに向けられたイタズラっぽい眼は、やっぱり二人よく似ている。 「何だい、藪から棒に」 「時々考えちまうんよ。オイラは大事なもんが多すぎるなーって」 どこから舞い込んだのか、湯船に浮かぶ小さな花弁。 それを摘み上げながら、葉は独り言のように話していた。 この癖もよく似ているんだよな、とハオは思う。 二人は双子だが、産まれてから一緒に育ってきたわけではない。 それなのに、どうしてこんなに似ているんだろう。 「例えば大地震が来たら、何を持って逃げようかとか思うと、もうそれは持ち切れんほどに出てくるわけだ」 「欲張りなんだよ、おまえは」 「だからもし、明日で地球は爆発します!とか言われたら、どうするかなぁと思ってな」 「どうでもいいこと考えてるね」 「だろ」 弟の"独り言"に相槌を打ちながら、ハオも考えていた。 もしも世界が終わるなら。自分はどうするだろう。物理的な世界の終わり。 その時、精神は無力で、シャーマンだろうが人間だろうが、なすすべもなくそれに従うしかないのだろうか。 「ま……もし本当に明日世界の終わりが来るなら、僕はどう足掻いても不幸なままでそれを迎えるしかないだろうね」 「あ?何でだよ?」 「おまえが欲張りだからさ。おまえが持ってっちゃうんだよ、僕の大事なものまで」 「何だそりゃ。オイラ、そこまで意地汚くねぇぞ」 「汚いだろ。ずるいよな、そのくせ絶対ひとりぼっちじゃないんだから」 「???」 顔中で「判らねぇよ!」と訴える葉が面白くて、つい悪心が芽生える。 「だっておまえさぁ」 「ん?」 「……ま、いいや」 「んあ??」 「いいんだよ、それでさ」 「何がいいのかサッパリ判らん」 「自業自得、因果応報、カルマの法則」 「ますます判らん……」 不満を述べる葉に構わず、ハオは曖昧な言い方で続けた。完全にからかい半分だ。 自分で振った話題ではあったが、考えるのが面倒になって、葉は鼻の上まで湯船に潜った。 そもそも、こんな話をしたのがいけなかったのだ。世界の終わりだなんて、考えたら怖くなってくる。 葉がそんな後悔をし始めた時、突然かしこまった語り口調でハオが口を開いた。 「過去において自らがなした行為は、それが良い行為にせよ悪い行為にせよ、いずれ必ず自分に返ってくる」 「えっ?」 「僕はそれだけのことをしてきたんだ。惨めな最期は仕方ない」 「………………」 「見ろよ、葉。世界の終わりだなんて、冗談言えるくらい平和な夜だろ」 「ああ、少なくとも、今ここは」 「だから僕は、時々いたたまれなくなる」 何だか、遠い昔を思い出すような心地。 じっと見つめる水面には、自分の顔が映る。 遥か千年も前、自分はどんな顔だったのだろうか。五百年前はどうか。そして今は……。 「平凡で、穏和で、幸せな日々……そんなものの中にいる自分が、疑わしいよ」 俯き加減でそう言ってから、面を上げる。 湯の中で、ハオの長い髪が揺らめいた。 「何たって、一番良く知っているのはこの僕なんだからね。世界はちっとも平凡じゃないし、穏和じゃないし、まして幸せでもない」 「……あぁ」 「気の遠くなるような時間をかけても、人間の言う平和なんて、陳腐な言葉以外の何ものでもないんだ」 それは、葉だってよく知っていた。 いくら平和を口にしても、現状はちっとも変わらない。 いや、変わってはいるのかもしれないが、悪いことが善くなれば、どこかで善いことが悪くなる。 いつだって、どこかで何かが生まれ、何かが傷付いていく。 その繰り返しだ。 「だけど……。最初から、星はそれを許していた」 「ハオ……」 「それを捻じ曲げようとした罰ってやつさ」 「……何の話だっけ」 「だから、もしも世界の終わりが来たらって話」 にっこり笑って、ハオは言った。 「その時は僕は、さぞかし憐れな死に方で逝くんだろうな」 その笑顔を見るたびに、未だに葉の胸は疼く。 「な……んで……おまえはそういう後ろ向きな考えしか出来んかなぁ」 「そんなに後ろ向きかな?」 「だって、罰なんてよ……別にお前が悪で他が正義って事でもないだろうに」 「はは、そりゃそうさ。悪も正義も決まった定義なんてないし、僕は別に、僕が間違っていたと思うわけじゃないよ」 「そんなら……」 「ただね」 人は結果の上を歩きながら、選択を続けている。 選択に、正しいも間違ってるもない。けれど。 「僕は僕の行いを、清算しなくてはならない。そんな気がするんだ」 そんな気がする……それだけでもう充分な理由なのだ。 人の数だけ選択があり、選択の数だけ結果がある。 結果には理由が付けられ、そして人は行き着くまで判らぬ道をまた歩いてゆく。 理由は心が決める。そこには嘘も偽りもない。他ならぬ自分自身が出した「答え」なのだから。 「ま、だからといって今僕が自主的に動く必要はないし、時が来ればどうにかなるだろ。それこそ、世界の最後に不幸者になるとかね」 「……それの意味がいまいち判らんのだが」 「ツケは、必ず回ってくる。そういうものさ」 結局よく理解できないままの葉を尻目に、ハオはそそくさと湯から上がった。 ――欲張りなのは、僕の方かもしれないね。 呟きは、雨音の向こうに消えた。 思い出す日々は昨日のことのようで、それが妙な安心感を連れて来る。 似たような毎日を繰り返すなら、それもまたいいと思う。 けれど時は刻々と過ぎ行き、同じであるものなど一つも無い。 判っているのに、時々、疑いたくなる。 同じ場所でずっと、足踏みを繰り返しているような気がして。 いつしか聴かなくなったレコードが、部屋の隅で埃をかぶっている。 そこだけ、時が止まっているみたいだ。 そんなことは、有り得ないのに。 「ねぇ、訊いてもいい?」 「んん?」 顔を上げると、テレビに目を向けたままのアンナの後頭部が目に入った。 頬杖を付いている肘の細さに、何となく気まずいような気持ちになる。 「あんた、さっき、どこ行ってたの?」 「……横茶基地」 それは、旅の始まりの場所。 ここから始まって、物語はハッピーエンド。 誰かに読み聞かせるお話ならば、それでよかった。 だけどこれは、童話なんかじゃない。 それにしても耳鳴りが治らない。 ジェット機の離陸音がこびりついて、何かのシグナルのように響き続けている。 「ふぅん……そう。で、どうだったわけ?」 「何か、静かで……がらんとしてて……何もなくて、寂しかったな」 「じゃあ、お目当てのものは見付からなかったのね」 「そう、だな……何にも」 何にもなくて、何にも守れなかった。そんな自分を思い出すのは、罪のようで。 だって、思い出すというのは、それだけ時間が進んでいるということだ。 そんなのは、許せない。 忘れちゃいけない、立ち止まらなくちゃ。 すべては昨日のことのよう。 レコードはもう聴かない。 いい曲だ、とあいつが言った。 「7月1日」 不意にアンナが口にした。 「覚えてる?」 鼓膜の辺りが痛い。 覚えてるか、なんて、そんなのは愚問だ。 忘れることが有り得ない。 思い出すなんてことも。 すべては昨日のことのようだった。 BACK≪ ≫NEXT |