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 7月1日。

 曇り雨。

 夕飯の買出しは、兄弟で交代制だった。というか、家事はほとんど交代制だ。
 大体、家の外の仕事と中の仕事とで分けているのだが、唯一風呂掃除だけはもめた。
 露天風呂だから家の外になるか、それとも風呂だから家の中になるか。
 そんな不毛な争いが1時間続いて、アンナがキレた。
 結局「屋根続きだから家の中よ!」というアンナの一言で、争いは終結したのだった。
 鶴の一声、というよりは鬼の怒声のようだったが。

「あ、しまった」

 洗濯物をたたみながらそんなことを考えていたら、ふと、つられて忘れていたことを思い出した。
 買出しついでに、買ってきて欲しいものがあったのだ。

「あいつは?」
「もう出掛けたわよ」

 アンナがせんべいをかじりながら、生返事のような口ぶりで答える。
 こうやって二人が家事に勤しんでいても、何の悪気もなくテレビの前に陣取っている彼女は、やはり鶴というよりは鬼だ。
 美しい鬼ほど始末に終えないものはない。何せ、苛立つことさえ儘ならないのだから。

「メールしとくか」

 今回も特に文句は言えず、大人しく携帯と向かい合うことにした。賢い判断だ。
 慣れというのは大したもので、メールを打つスピードは今や人並み以上になっている。
 もうそろそろ機械オンチの汚名も返上だろうか。
 画面を開くと、勝手知ったる手つきでポチポチとボタンを押した。

『BOBの限定復刻版レコード買ってきて』

 BOBは、仲間内では言わずと知れた葉の一押しアーティストだ。これを聴いたハオもまた、彼をいたく気に入った。
 そんなわけで最近は、どちらがCDを買うかで水面下の戦いが激しい。
 スキを見ては、お互いがお互いにどうにかして買わせる方向へ持っていこうと必死なのだった。

『欲しいなら自分で買え』

 思った通りの答え。
 けれど、それくらいでひるんでいては到底勝ち目はない。
 幸い、今財布を持って外出しているのは向こうだ。少し押せば、割り勘には容易く持っていけるだろう。

『じゃあ聴かせない』
『割り勘!』

 間髪いれずに返ってくる。まるで、声まで聴こえてきそうだ。
 ちょっと笑いながら、リズムよく、

『OK』

 とだけ返した後で、ふと思い立ってもう一度返信画面を開いた。
 こういうことはきちんと言っておかないと、後からアンナが怖いのだ。
 お使いに行った当人はもちろんボコボコだが、急かさなかったという理由で、留守番のこっちにまで火の粉が飛んでくる。
 というわけで。

『アンナが早く帰ってきて飯作れってうるさいぞ』

 そう送ったっきり、返事はなかった。
 でも、別に妙だとは思わなかった。
 そこで終わってもおかしくない内容だったし、歩きながらメールをいちいち返すのも面倒だったのかもしれない。
 胸のざわつきを、そんな理由で誤魔化した。
 双子は第六感で繋がっているとか、最初に言い出したのは誰なのだろう。
 気付けなかった。いや、気付いていたのかもしれなかった。
 どちらにせよ、もう遅すぎる。

「……ねぇ、いくらなんでもあいつ、遅すぎない?」

 歩道の脇に転がっていた携帯電話。
 使い方を覚えやすいように、機種は二人で同じ。
 でも、さすがにペアは恥ずかしいので、色違い。
 壊れて半分滲んだ液晶。メールの返信画面。
 文字は読み取れた。

『もうすぐ帰るから、』

 そこで、途切れていた。


















































 覚えてるかどうかなんて問い、あんまりにも下らない。
 時は止まったように埃をかぶって、両脚ごとうずめてくれた。
 お陰でちっとも動けない。まるですべてが昨日のことみたいだ。
 だけど、あれ、あいつの声はどんなだったっけ。

「覚えてるに……決まってるだろ」

 口ではそう言いながら、もう随分と、記憶が色褪せていることに気付く。
 そうか、あれからもう10ヶ月と10日が経ったのだ。
 何だか目の前がぼーっとする。

「そう?」

 思い出すなんてことは有り得ないと思っていたのに、今、確かに思い出していた。

 何処まで行っても五月闇。

 空さえも泣かないから、ただじっと、身を硬くしているだけ。

 忘れられてうなだれた、鯉のぼりは泳がない。

 降りそうで、降らない雨。

 世界は脆い。そう、身をもって知ったはずだったのに。

 今は、世界の前にただ無力な自分。

 切れた言葉を繋ぎ合わせようと、何度も霄を掴んだ。

 あんなにみんなを困らせて。

 周囲を引っ掻き回すだけ引っ掻き回して。

 あまりにもあっけなく、あいつは死んだ。

 あれは、不幸な事故だったのだろうか。

 どんなに考えてみても、納得できる答えは見つからない。

 世界があいつに復讐したとしか、思えなかった。

 そんな莫迦なこと。

 だって、魂さえも残らなかった。

 不自然に曲がった身体は、自然なくらいにただの人間で。

 もう、ただの人間だったのに。

 世界があいつを連れてった。

 あいつが、歪めようとした世界。

 あいつが、滅ぼそうとした世界。

 あいつに狂わされかけた世界が、あいつを赦すわけもない。

 ツケが回って来た。それだけのこと。

 だけど。

 だけど、どうか、かえして欲しい。

 帰ってこようとしていたあいつを、かえして欲しい。

 一瞬だけでもいい、もう一度。

 おかえりって、もう一度、言ってやりたいんだ。

「明日は誕生日ね」

 その言葉に、ぎくりとする。
 答えようとしたけれど、声が出なかった。
 取れない耳鳴りは、もはや頭痛になっていた。
 ズキン、ズキン。
 問いかけは追い討ちをかけるように。

「ねぇ、覚えてる?」

 繰り返される。

「本当に覚えてるの?」

 なぜ、そんなことばかり訊くのだろうか。
 何だか無性に泣きたくなった。

「……髪、少し伸びたんじゃない?」


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