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 5月11日。

 曇り。

 もうすぐ、今日が終わる。
 明日が来れば、また一つ、年をとる。
 今まで生きてきて、それは当たり前のことだった。
 未来へいき急いでいた時も、迷い立ち止まった時も。
 12日は背中を押して、笑いながら通り過ぎていった。
 あいつにとってもきっとそうだったんだ、と思う。
 そう、思っていた。これからは、それを確かめられると思った。
 いつだって二人で、明日を迎えれば。
 明日が来れば、一つ年をとる。
 あの日から、一歩も前に進めないのに。
 だって、だってあいつは。
 あいつは、もう年を取らないんだ。
 今年もまた同じように誕生日が来るのに、あいつはもう、年を取らない。
 同じように産まれたのに、あいつだけ。
 あの夏の日、あいつは死んで、あいつの時間は止まった。
 なのにどうして、それでもまた同じように5月12日が来るのだろう。
 あの日、世界は終わったのに。

「もうすぐね」

 ふすまの開く音がしたと同時に、声が入ってくる。
 顔を上げると、まだ微かに頭に響いた。
 もう痛みは無いのに、何だかすっきりしないのは何故だろう。耳の奥の方、頭の中が、疼くような不快感。
 目の端で反射光がちらついて、ふと彼女の手にしているものに気付いた。

「何だよそれ」
「あら、プレゼントよ」

 それは細いハサミだった。
 子供用の持ち手の広いものではなく、特に安全なようにも作られていない。
 先の鋭く尖った、鈍い光を放つハサミ。

「プレゼントって、物騒だな」
「髪を、切ってあげようと思って」

 にこりともせずに、言う。
 何だか妙だ。

「何で……突然」
「だって伸びてきて、そのままじゃ煩わしいでしょう」
「別に、いつも自分で……」
「遠慮することないわよ」
「ほっとけって……!」

 彼女が伸ばしかけた手を、思わず跳ね除けた。その拍子にハサミが滑り落ち、音を立てて足元に転がる。
 タイミングが悪ければ、足に刺さっていたかもしれない。
 しまった、と思ったけれど、出来ることといえば気まずい沈黙に耐えるくらいだった。

「……そうやって」

 その沈黙を切り裂く言葉。
 少し怒りを含んだような語気。

「いつまで逃げてる気?」
「なん……だよ、それ……」

 釣られて、こっちも喧嘩腰になっていた。

「逃げてるもんか……逃げてなんか……!」
「じゃああんた、何を探してたの?誰を見付けようとしてたのよ!?」
「……っ、判ってる!探したって見付からない!魂は留まらなかった……あいつはもう」
「あいつって、誰よ……!?」

 その言葉の意味が掴めずに、硬直する。
 あいつって誰だって?
 あいつは、あいつに決まっている。
 双子で、半身で、姿かたちは瓜二つで。機械が好きじゃないところとか、音楽の趣味とか、実は似てて。
 だけど全然違ってた。
 人間を滅ぼして世界を作り直すこと。
 このままの世界を守り、受け入れた上で変えていくこと。
 二つは全然違うことだ。
 でも、それでも、想いは同じだった、と言ってもいいだろうか。
 静まり返った部屋に、携帯の受信音が鳴り響いた。

「メールだ……」

 別に誰に急かされたわけでもないのに、受信トレイの画面を開こうとする指が焦る。
 デジタルの時計は、ちょうど0:00を表示している。
 5月12日だ。

「……!!」

 電話を握り締めた手が、震えた。
 何の音も聴こえない。
 ただ、自身の鼓動だけが鼓膜の奥に響く。
 無機質な液晶画面に、たった一言だけの言葉が浮かび上がっていた。
 何度も何度も目で読み返す、送信者の名前。
 それでもまだ、疑いそうになって、声に出そうとして咽喉がつかえた。
 あの日以来、口にしたことのなかったその名前。
 だけど確かに、今、それが目の前にある。
 止まっていたはずの時間が動いている。
 十月十日の産み月を越えて。
 動き出す。

「これって……」

 覗きこんだアンナの身体が、少し強張ったのが判った。
 送信日は一年前の6月12日。
 指定日時は、今日の0時。
 グリーティングって何だい?電話とメールが出来りゃ充分だろ?
 そんな他愛もない会話を交わしたあの日。
 そんな取り留めのない日々の記憶が、意識の片隅を過ぎったけど、頭の中はたった一言でいっぱいだった。
 届くはずのないメール。
 呼ぶことのない名前。
 もう聴けるはずのなかった、あいつの言葉。
 あんなにみんなを困らせた。
 周囲を引っ掻き回すだけ引っ掻き回した。
 人を滅ぼそうとした、そんな僕を、憎むでもなく、畏れるでもなく、憐れむでもなく。
 ただ一人、笑って赦そうとしたあいつの。

『誕生日おめでとう、ハオ』

 あの日、死んだ葉の、言葉。


















































 なぁ、葉。

 欲張りなのは、僕の方だったよね。
 もしも世界が終わるなら、何一つ、離したくはない。
 自分でも笑ってしまいそうだけど、本当は守りたいものだってあった。
 何一つ取りこぼすことなく終わりたいと、性懲りもなく思った。
 でもそれは、絶対叶わないってことも、ちゃんと知っていたんだよ。

 だって、叶いっこないんだ。
 もしも世界が終わるなら、おまえはきっと、たった一人でその瞬間を迎えようとするのだろうから。
 大切なものが多くて選べないおまえは、持ち切れないと知っているおまえは、きっと世界の最後の日でも日常と同じように過ごす。
 そうして最後の最後には、一人で眠るつもりなんだろう。
 だけど、おまえは決して一人にはならない。
 おまえの傍には、全てを判った上で、寄り添っている人が居るのだから。

 そして僕は、この世で最後の不幸者になる。
 僕は、一番大切なものたちを、この手に留めることが出来ないまま取り残されるんだ。

 でも、だからって、それでチャラだ、なんて。

 やっぱり都合が良すぎたかな。

「……すまん」
「何を謝るの?」
「僕は、葉じゃなかった……」

 そんなこと知ってるわ、と、呆れるでもなくアンナは言った。
 そういえば、一度たりとも彼女に『葉』と呼ばれた記憶は無かった。
 どういうわけだか視界が霞む。何もかもが不確かなものに見えた。

「何で、僕は葉じゃないんだろう……」

 ツケは必ず回ってくる。そんなこと、判っていた。
 時が来ればどうにかなるんだ、と。
 僕が歪めようとした世界。
 僕が滅ぼそうとした世界。
 僕に狂わされかけた世界が、僕を赦すわけもない。
 連れて行けばいいじゃないか。
 どこへなりとも。どんな孤独の果てへでも。
 僕を。僕の身体を。僕のこの魂を。
 くれてやるさ。
 いくらでもくれてやるのに。

「何で今……生きているのが、葉じゃないんだろうね……」
「………………」

 なのに、僕の覚悟とは全然別のところで、世界は動いていた。
 脆いのは、世界でも何でもなく、終わったのも、世界でも何でもない。

「そうね」

 不自然に曲がったのは、誰の運命だったのか。
 ただの日常の出来事。風が吹くみたいに、自然に。
 まるでそれが自然であるかのように、葉の身体は生きることを許されなくなっていた。
 あまりにもあっけなく、あいつは死んだ。
 あれは、不幸な事故だったのだろうか。
 どんなに考えてみても、納得できる答えは見つからなかった。
 あいつはたった一人で死んで、そこには寄り添う者もなくて、それは世界の終わりの出来事なんかじゃなかった。

「でも仕方ないじゃない。あんたはあんたで、葉じゃないんだもの」

 終わったのは、あいつの命とちっぽけな、僕の世界。
 ツケが回って来た。それだけのこと?
 だけど。
 だけど、どうか、かえして欲しい。
 帰ってこようとしていたあいつを、かえして欲しい。
 一瞬だけでもいい、もう一度。
 ただいまって、笑顔で、言ってほしかった。
 僕は髪を切って、世界の前にただ無力な自分を、必死で隠してた。

「正直どうしようかと思ったのよ。切り落として散らばった髪の毛と、その真ん中で突っ立ってたあんたを見た時は」

 まったく馬鹿な真似だった。
 彼女の為に、彼女の愛しい男のふりをしたのなら、まだましだったかもしれない。
 それとも自分の為に、失った半身のふりをしていたのだったら、もう少しまともだっただろうか。
 そのどちらでもない僕は、ただ逃げたかっただけだった。
 探すふりをしながら本当は逃げ続けていたなんて。

「でも、茶番すら出来ないなんてね」

 それで結局、逃げ損ねた。
 馬鹿らしくて、笑おうとして、何だか泣けてきた。
 百年経っても千年経っても、ちっぽけなままの自分。

「やっぱりあんたは、ハオだわ」

 あんたがあんまり不器用だから、あたしがしっかりするしかなかったじゃないの、ほんと駄目ね、情けないんだから。
 たたみかけるように言うアンナの言葉は、きついけれど、何故かどこか優しかった。

「……ねぇ」

 まっすぐに見つめる瞳。

「葉の魂が残らなかったの、何でだと思う?」

 それはとても、真剣な眼差し。葉が愛した眼。
 守りたいものはいつだって尽きなくて、いつだって必死に足掻くのに、結局何にも守れない。
 けど、何も残らなかったわけじゃないって、葉、お前は言ってくれるかな。
 こんなかたちになってしまったけど、お前が守りたかったものが何か、ちゃんと判っているさ。
 だから少しくらい、僕も手伝えたのかな。

「おめでとう。あんたがあんたを見付けてくれて、良かった。あたしは、もう大丈夫――だから」

 そしてこれからも足掻いていく。
 だって、世界はまだ終わっていないんだ。

「誕生日おめでとう、ハオ」

 僕は今日、またここに生まれたのだから。


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