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 私の部屋に、金魚が一匹、やって来た。
 今まで生き物なんて飼ったことがなく、ましてや実験の対象としてしか見ていなかっただけに、正直どうしたものか、困っている。
 それにしたって、突然金魚鉢ごとプレゼントしてくるなんて、変わった人間もいたものだ。或いは、馬鹿なだけかも知れないが。
 この奇妙な贈り物は、直接手渡されたものではなかった。ドアの前に置かれていたのである。
 一緒に添えてあったカードには、「for you」の文字と、そういえば見覚えのあるような名前が書かれているだけだった。
 顔こそ思い出せないが、どうもそんな名前の男子がクラスにいたような気がする。
 けれど、私は深く考えようとも思わなかった。金魚もその贈り主も、私にとってはどうだっていいことだったのだ。
 問題は、贈り主にとって、どこにこんなものを贈る理由があるのかということだった。

(花言葉みたいに、何か意味があるのかしら)

 でも、金魚の魚言葉、なんて聞いたこともない。
 金魚で知っていることといえば、彼らは記憶を5秒ほどしか保てないということだけ。
 これもどこで聞いたのか定かではなく、どこまで信じて良いものか。
 ただ、これが本当ならば、金魚は水槽の壁にぶつかってもすぐ忘れてしまうから、そこが狭っ苦しい水槽であろうと、彼らは気にならないんじゃないだろうか、と思ったことがある。むしろ、自由な河川であると思って、水槽の中を泳いでいるのかも知れない。

(自分が囚われているということにすら、気付けないでいるなんてね)

 私は冷めた心で、鉢の中の哀れな魚を見ていた。
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「どういうつもりかしら」

 翌日、下校前に金魚の贈り主を捕まえて、問いただすことを試みた。名簿を見ると、やはり彼の名前があったのだ。
 私は初めてそのクラスメイトの顔を正面から見た。
 黒い瞳。僅かに焼けた肌。癖のないまっすぐな髪が、耳と線の細い頬に少しかかっている。

「何が」
「金魚のことよ」

 私が食ってかかるように言うと、彼は、ああアレね、と笑って髪を掻きあげた。
 その仕種が、何だか馬鹿にされているようで、気に障る。

「別にぃ……。宮野さんが気付けばいいと思ったんだ」
「嫌でも気付くわよ、ドアの前にあんな堂々と金魚鉢置かれたらね」

 厭味を言ってやっても、彼はにやにや笑うだけ。今初めて喋ったばかりだというのに、何なのだ、この男は。

「おれ、宮野さんが思ってるより、宮野さんのこと知ってると思うよ」
「言ってることが、よく判らないわ」
「例えば、身を置いてる組織のこととか」

 身体が凍り付いたように動けなかった。
 でもそれは、彼の鋭い視線に貫かれたからじゃない。
 私を金縛りにしたのは、恐怖。
 頭の中に、浮かんでは消える疑問。
 何故?何故?何故、知っているの?絶対知られてはいけないことなのに。知られるはずないのに。
 その時、目の端に人影がチラついた。

(聞かれた……!?)

 今のは一体誰だったのだろう。目を凝らしたが遅かった。
 通りすがりの生徒ならまだいい。もし、監視役の組織の人間だったとしたら……。
 その先は、考えるのも恐ろしかった。

「どうかした?」

 彼の声で我に返る。
 体中の脈が打つのを何とか鎮めて、私は彼の方へ向き直った。

「……馬鹿ね、そんなこと、口に出してしまうなんて……。思っていても言わない方がいいことも沢山あるのよ、覚えておきなさい。じゃなきゃ、あなた、死んだって知らないから」
「へぇ、そりゃ怖ぇな」
「あなたねぇ……」
「構うもんか。人間、死ぬときゃ死ぬし。おれはただ、宮野さんに気付いて欲しかっただけさ」
「あなたまさか、自分の存在を知らしめるためだけに、あたしに金魚を贈ったんじゃないでしょうね」
「ははっ、おれの事はどーでもいいんだよ」

 ますます判らなくなる。彼はどういうつもりで私に金魚なんか贈ったのだろう。
 結局、答えは判らないまま、その日は家に帰った。
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「もういいじゃないの!自由にして!」

 不意に怒鳴り声が聞こえた。私の部屋からだ。
 そういえば、姉が今日、用事で近くまで来るから少し寄って行くと言っていた。じゃあ、あれは姉の声だろうか。

「志保は私の妹よ!あの子は私が守るわ……!!」

 扉を開けようと近付けた手が、ノブに触れるより先に、ドアがひらいた。
 大きな眼を丸くして私を見つめるのは、姉。
 妹が言うのもなんだけど、姉は可愛い。そんな顔でじっと見つめられたら、男なら誰だってコロッといってしまいそうだ。
 私がそんな的外れなことを考えている内に、姉は口を開いた。

「……志保」
「お姉ちゃん、帰るの?」
「え、えぇ……また日を改めて来るから。ごめんね」

 すまなそうにそう言って、階段の方へ走っていく。
 姉が行ってしまってから、私は、玄関に立っているもうひとりの人物に声をかけた。知らない顔だが、見るからに組織の人間だ。

「何しに来たのよ」
「おまえに忠告しにわざわざ来てやったら、あの女がいた。姉だか何だか知らんが、住人が不在の時に他人が家に入れるっていうのは感心できねぇな」
「彼女は姉よ。他人じゃないわ」
「どっちでも同じさ。それよりおまえ、学校で何かやらかしたのか」
「……何ですって?」

 私は咄嗟にそう答えた。金魚をくれたあの少年の、きれいな顔が頭にチラつく。
 誤魔化せるのならば誤魔化し通したかったが、しかし、私の身体が一瞬強張ったのを彼は見過ごしてはいなかった。

「おまえ、自分が組織の人間だとバレたら、どうなるか判ってんのか?」
「言ってることが判らないわ」
「フン、まぁいい。今後気を付けろ」

 部屋の中へ入ると、私はすぐベッドに身を預けた。
 どっと疲労が押し寄せる。
 金魚の彼は何故、組織のことを知っていたのだろう。何も思い当たらない。話したこともないのに。
 何だか疲れている。頭が回らない。咽喉に何かが詰まっているみたいだ。何なんだろう。
 棚を見ると、嫌でも朱い金魚が目に付いた。思い出したようにエサをやったが、食べない。病気か何かだろうか。
 だとしても、どうでもいい。
 悠々と広い湖を泳ぐように、鉢の中をくるくる回る小さな金魚。

(オマエなんか、私の気まぐれでいつだって殺せるのよ)

 どうしたってそこから出られないのに、気付いていないのか、気付かぬふりをしているのか。
 永遠に?

(非力な魚。平気な顔していられるのも今の内だわ)

 私は鉢を睨み付けて、テレビのリモコンを取った。

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