雨が降っていた。こんな日は何故か、胸が少し痛むような気がする。視界が蜃気楼の様に歪むのは、雨粒が見せる錯覚だろうか。さっきまで哀がいた所を、ピュアホワイトのセダンが水溜まりを跳ねて走り抜けた。
「……ねぇ、どうしたの?」
薄暗い道に入ってすぐ、哀が問いかけた。最近見つけた細い路地裏。家へ帰る近道。哀が見つけたのだ。教えた時コナンは感心して、「へぇ、オレも知らなかったのに」と言った。
「へ?何がだよ?」
突然どうしたのと訊かれても答えようが無い。コナンは目を丸くして哀を見た。
「最近、元気無いみたいだから……今日も様子が変だったし」
「そ、そうか……?」
「そうよ、サッカーでろくに攻めもせずパスが回ってもボーッとして……これを異常と言わずして何と言うの?」
「っておい、それが基準かよ」
あら当然よ、と哀が言い、2人で顔を見合わせて少し笑った。
いつからだろう、こんな風に笑えるようになったのは。
「何でかなー、別に態度に出してるつもりは無いんだけどな」
「吉田さん達も心配してたわよ。あなた、判り易すぎるんじゃない」
「マジ?」
「22歳が12歳に見抜かれてちゃ世話無いわね」
思いがけずコナンが黙り込んだ。軽く流してくれるものと思っていた哀は、やや狼狽えて、
「で、何なの?名探偵さんが大好きなサッカーもしたくなくなる原因って」
「いや、ちょっとな、大した事じゃねーんだけどさ……ほら何てっか、いわゆる………………」
躊躇うような、間。
「失恋してよ」
「………………え?何?」
2回も言わせるか、普通?と文句を言うと、コナンは赤い顔で哀を睨んだ。
「だーかーらー、振られたんだよ!ついに!」
「振られたって……あの子に?」
「他に誰が居んだよ」
「そんな……」
と言ったきり、哀は俯いてしまった。
「こないだ電話したら、何か妙に沈んだ声でさ。変だなとは思ったんだ。そしたら急に泣き出すじゃねーか」
オレ、どうしていいか判んなかったよ。
青い傘を傾けて、空を見上げる。コナンの横顔が壊れそうに見えた。
「もう限界だって。泣くんだ、蘭が。今すぐ帰ってきてって。じゃなきゃもう駄目だって。でもオレ、何も言えなかった」
その場凌ぎの嘘ばかり。
もう吐けない。
嘘吐きは、もう終わり。
「言えるわけねーじゃんかよ。何て言うんだよ。言う事なんかもう何もねーよ」
伝えたい事がたくさんあった。あった筈だったのに。
「よく……耐えててくれたよ、アイツは。だから、オレ、何も言わないまま受話器を置いた」
だってこれ以上、苦しめられないから。
好きだから。
触れたい。本当の手で。触れられない。
もう、傷を増やすわけにはいかない。
「これで……良かったんだよな。もう傷付ける事しかできないなら」
「随分、諦めが良いのね」
コナンの顔が強張る。何か、脅威を見たような顔つきで哀を凝視している。
「どーゆう意味だよ、それ?」
「汚い人だって言ったのよ」
「だからどーゆう意味だよ!!」
赤い傘が微かに震えた。俯いて、顔を隠して。見られないように。
「……判らないわよ、あなたには。判りっこないわ」
「ふざけんな……」
コナンが哀の腕を掴んだ拍子に、傘が手から滑り落ちた。パシャッと音を立てて転がった、赤い傘。押し殺したような、低い声。
「一体誰の所為でこんな事になったと思ってやがんだ?」
「………………」
哀は答えない。拾おうとした傘を、コナンが蹴飛ばす。その場に片膝をついたまま、哀は身動きが取れなかった。
「な……何するの……」
「解毒剤」
ハッとしたように、コナンを見上げる。
「出来てたんだろ?ずっと前に、オレが訊いた時。おまえ、解毒剤は作れないって言ったよな。それで、もう研究は止めるとも言ったな」
そうだ。解毒剤は出来ない。オレは元の身体には戻れない。工藤新一を失って、そして5年が経った。このままで居られる筈がなかったんだ。いつか、何もかも壊れるって判ってた。
コナンは溜息と同時に、言葉を吐き出した。
「でも嘘だ。ホントは出来てた。違うか?」
「……違うわ」
「じゃあ何なんだよ!」
静かな怒りを湛えたコナンの眼に、ふと悲しみの色が浮かんだ。
「これは何なんだ」
ポケットから取り出した物。それは小さな瓶に入れられた、たった一つのカプセル。
「それ……」
「何日か前、博士ん家の地下室で見つけた。すぐ察しは付いたよ……これ、解毒剤なんじゃねぇの?」
「………………」
すぐには答えられなかった。間を置いて、だったら、何?とだけ言った。だったら、何?
「おまえの事、信じてた」
「………………」
「バーロォ!!」
コナンは瓶を地面へ叩き付けた。ガラスが砕け散る。悲しい音だった。その音は哀の胸をえぐって、そのまま消えた。
「……もう顔も見たくねーよ」
≫NEXT
|