灰原哀は11歳だった。いや、もしかしたら12歳なのかもしれない。彼女は自分の誕生日を口にしなかった。彼女が灰原哀になったあの夏の日、あの日が誕生日なのだと哀は言った。
江戸川コナンは、12歳になっていた。漠然と組織を追いつつ、どこかこの日常に慣れきっている自分を否定し、工藤新一を演じているという事に嫌悪しながらも、5年が過ぎた。そう、あれからもう、5年もの年月が過ぎたのだ。
『なんで、ぼけっと鏡見てんだ』
『……忘れないように』
いつか、哀がそう言っていた事を、コナンはふと思い出した。
あの日以来哀と口を聞かなくなって、もう1週間経つ。歩美達は未だに心配しているようだった。
「コナン君、哀ちゃんとケンカしたんでしょ?」
「なんで?」
「だって……哀ちゃん、コナン君と全然喋んないし……わたし達とは喋るのに」
「みんなで行動する時もひとりだけ抜けちゃうじゃないですか!明らかに様子が変です」
「まさかコナン、おまえ気付いてなかったのかよ?」
喋んないっつったって……あいつが勝手にオレを避けてんじゃねーか。
コナンは、ひとり離れた所で窓の外を見ている哀の後姿を睨みつけた。
「気付かねーわけないだろ。いいんだ、放っとけよ、あいつがそうしたいんだから」
そりゃ、避けたくもなるよなぁ?
コナンは頭の中で哀に問いかけた。
だって解毒剤は出来てたのに、嘘吐いて、オレを騙してたんだから。楽しーか、おい?
けれど、返事があるはずもない。代わりに返って来たのは、歩美の言葉だった。
「哀ちゃんがね、話があるって」
放課後。
人気のない、理科室。骸骨の模型やら何かのホルマリン漬けやら。
ま、告白にはおよそ不向きなシチュエイションだよな。コナンはそんな事を考えながら、切り出した。
「話って何だよ」
「……話があるのは、そっちの方なんじゃないの?」
「は?呼んだのはおまえだろ?」
「だから、話す機会を作ってあげたんでしょう、わざわざ」
その言葉にむっとして、思わず声を荒げる。
「何なんだ、その態度!」
「………………」
「いい加減にしろよ!誰の所為だと思ってやがる!」
「あたしの、所為よ」
コナンは凍りついたように、その場に立ち竦んだ。
はっきりと、言った。なんの躊躇いも無く。
「あなたが言わないのなら、言ってあげるわ」
吐き捨てるように。
「もう、終わりにしない?」
俯いているから、顔が見えない。見えない。気持ちが。真意が。
哀の問いには答えず、コナンは言った。
「……なんで」
聞きたかった、ことを。
「なんで、隠してたんだよ」
知りたかった、答えを。
「……だって、あたしは、そうしたかったんだもの」
だって、あたしは、そうしたかったんだもの。
哀は心の中で反芻した。告げたくはなかった。解毒剤の完成は終わりであり始まりでもあったが、哀は知っていた。新しく始まるストーリーでは、自分は生きられないということを。
「もう、止めましょう」
落ちついた口調だった。
「あたし達、別々に生きるの」
静かに。
「解毒剤は、あげるから。……遅すぎたけど」
「……遅いよ」
息を吐き出すように、コナンが言った。言葉が、頭の中に溢れ返る。
だって。だって随分前に出来ていたんだろう?
なのに、隠してたんだろう?
ずっと隠していたんだろう?
蘭が「もう限界」と、電話越しに泣いたあの瞬間。
オレが、何も言えずに受話器を置いたあの瞬間も。
コナンは無言で哀を睨んだ。
その視線に、哀が答える。
「……ごめんなさいね、今まで」
やっぱり素直に言えない言葉。
どうしてもひねた言い方になってしまうけれど。
でも、ずっと、何度でも謝りたかった。
(この人を、一番苦しめてるのは私)
一番笑っていて欲しかった人を。守りたかった人を。追い詰め、疵付けているのは、紛れも無く自分なのだ。
(この人の傍にいるべきなのは、私じゃないのにね)
どうすればいいんだろう。どうして私は罪ばかり犯してしまうの?
こんなはずじゃなかった。
こんな結果、望んでいなかったのに。
鏡に映る自分の姿。偽りの姿だと言い聞かせてみても、判ってしまう。
これは偽りなんかじゃない。
これが真実。
私の罪のあかし。
忘れないように。
忘れてはいけない。
でも、少しだけ。
少しだけなら、逃げてもいい?
「さよなら」
抱かれたことは、無いから。
抱き締めてくれたことは、無いから。
あなたを想っても、思い出すのは別のぬくもり。
今でも鼻腔の奥に思い出せる、煙草の匂い。
何となく、MDの音量を上げた。
あまりメジャーでない(と、哀は思ってる)洋楽が、部屋いっぱいに広がった。
シンガーが、美しい声を惜しげも無く響かせて、「わたしを解き放って」と歌っている。
解き放って。私を、自由に。いいえ、違うわ。
私は囚われてなどいないもの。私は、私は好きで繋がれているのだから。
いつまでも過去に心を置いて、ただひたすら、待ち続けてる。
嘘吐きなあの男は、最後まで私に嘘を吐かなかった。
私を好きだと言わなかった。
だから私は泣けない。
何もかも投げ出して、泣くことは出来ない。
繋がれているから。
繋がれているけど。
それでもあなたは、私のすべて。
いつまでも、あなたは私のすべて。
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