「先に風呂、使えよ」
「……あなたね、ここはあなたの家じゃないのよ」
阿笠邸に戻ると、少し空けただけなのに部屋は冷えきっていて、暖房でもつけたいほどだった。もしかしたら実際はそんなに寒くはなかったのかもしれない。しとしとと降る雨が、外界からのすべての熱を遮断しているような錯覚。単にそれだけだったのかもしれない。
「着替え、ここに出しとくわよ。皺になるといけないから」
言いながら哀は、ベッドの上に大きなシャツを広げた。
博士のだからだいぶ大きいけど、と付け加えて笑う。
「昔ならあたしの服でも着れたのだろうけど、今じゃさすがに無理ね」
「でも、ちょっとでかすぎんじゃねーの」
シャツの端をつまみあげてコナンが言った。寝袋にでもなりそうだ、とも言ったので、哀がさも可笑しそうに、言い過ぎよ、と吹き出す。
それは前触れが無かった。
「あ」
短く驚きの声を上げて、哀の身体はシーツに沈んだ。それに覆い被さるようにして、コナンは哀の瞳を見た。頬にまとわりついた髪が冷たい。しかし躰の奥、心の一番深いところは、熱く燃え上がるようだった。
「……ちょっと……ベッドが濡れちゃうわ」
「別々に生きようって言われたとき……おまえを失った、って思った」
「………………」
「恐ろしいほどの喪失感と、恐怖に襲われたよ。厭だって……おまえが離れていくのは厭だって。……おまえはどこにも行かせない」
「ちょ、ちょっと待って……待ってよ、あたし、雨でびしょ濡れだし……」
「待たねぇ」
会話が途切れる。
「―――ん……」
長く合わさっていた唇が離れて、哀は吐息を洩らした。
信じられない、と思った。今こうしていることそのものよりも、自分がこんなに幸せを感じていることが。
「ごめん」
突然言われて途惑う。今の行動を謝っているのなら、そんなこと、詫びてほしくはない。
しかしコナンの真意は違っていた。
「……ごめん、な」
「何?」
「おまえの所為なんかじゃ、ない」
その言葉は、すべてだった。
すべてを解き放つ言葉だった。
長い長い間、哀を束縛していた枷から解放する言葉だった。
「あ……あたし……」
「あんなこと、言うべきじゃなかった……謝っても謝りきれねぇけど……」
「……ごめん……なさい……」
「え……?」
縛られていた。
赦されていなかったから。
赦されるはずもなかったから。
だけど。
「ごめんなさい……ずっと、言いたかった……赦して欲しかったの」
「泣くなよ」
そう言われて初めて、哀は自分が泣いている事に気付く。
悲しいのではなかった。
絶望でもなかった。
ただ、救われた気がした。
「おまえは何も謝ることなんか無いんだ、おまえが謝ることは無いんだから」
コナンが繰り返して言ったけれど、哀の涙は止まらなかった。
哀のその小さな身体をしっかりと抱き締めて、コナンは気付く。
彼女がこんなにも小さかったことに。
そして、もう何年も愛し合っている恋人にするような仕草で髪を撫でた。
頬に触れた。
首に口付けた。
愛してたんだ、と囁いた。ずっと愛していたんだ、と。
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