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白い約束 −1−

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 晴れた空。
 混じり気のない朝の空気。
 まだ人もまばらな細路地に、アスファルトを蹴り上げる音が二つ、こだまする。
 その軽快なリズムとは裏腹に、鷲羽の足取りはどこか重い。

「ったく……何であたしがこんなことを……」

 無機質な地面の感触は、既に懐かしくさえ感じる。と言っても、あまり思い出したくない類の懐かしさだったが。
 ましてや、これから向かう目的地のことなど、考えただけで気が滅入る。命令でなければ、進んで近寄ったりしない場所だ。

「それは、鷲羽が語りべの中で、学校に潜り込むことのできる数少ない教員免許保持者だったからです」

 一目見れば不機嫌と判る相手に向かって、神経を逆なでするかの如く、ただ淡々と事実だけを述べる。
 そんな大門の態度に、鷲羽が苛立ちを隠さないのは毎度のことだ。
 今回も例にもれず、ともすれば噛み付きそうな勢いで悪態をついた。

「チッ。じゃあ先に潜り込んでたおまえは何なんだよ。木偶の坊か?」
「私ですか?私はしがない用務員……生徒達に近付くのにも限度がありますからね。さしずめ鷲羽のサポート役ですよ」

 その回答に対して、あからさまにムッとする鷲羽。
 サポートと言えば聞こえはいいが、そもそもこの男は鷲羽より先輩だ。
 恐らく鷲羽が命令に背いて勝手な行動に出ることのないよう、上の奴らが予防線を張ったのだろう。
 とにかく、どこを取っても彼女には面白くないことだらけの任務なのである。

「はっ、つまり見張り役ってわけね」
「そんな身も蓋もない……」
「……ここか」

 半ば呆れ顔の大門を無視し、鷲羽は目の前にそびえ立つコンクリートの塊を睨み付けた。
 ここが、今回の任務遂行の拠点になる場。伊佐奈小学校だ。
 とりあえず、狙いが付いているのは二人。他に何人いるか判らないが、とにかく乗り込むしかない。

「無事に全員と接触できるといいですね」
「ああ。さっさと終わらせて帰りたいからな」
「鷲羽……」

 大門の苦笑いが、溜め息と一緒に吐き出される。もう呆れを通り越して諦めているらしい。
 でも、その方が鷲羽にとっては好都合だ。
 とやかく口出しされるより、いくらかいい。
 特に、やりたくないことを嫌々やらなきゃならない時は。

「ふん、いい迷惑だよ。先生なんて、二度とやるつもりなかったのにさ」

 吐き捨てるように言いながら、鷲羽の脳裏にはかつての日々が蘇っていた。

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『あんた、また居るのかい』

 ガララッと立て付けの悪い音がして、保健室の扉が開いた。
 ここが鷲羽の職場。一日の大半を過ごす場所だ。
 普段なら、ここで朝っぱらから彼女が誰かに話し掛けることなんて、滅多にない。
 軽い怪我をした生徒か、少し気分が優れない生徒が来た時だけ、必要最低限の会話をするが、それもあまりないことだった。
 何故なら、みんな保健室を怖がっているからだ。いや、正確に言うと、保健の先生を怖がっている。
 口は悪い、目つきも悪い、おまけにまともな治療を受けたという話がない。生徒達が保健の鷲羽先生を避けるには、充分な条件だった。
 しかし、ここ数日はちょっと事情が変わってきているのだ。

『………………』

 さっきから、だんまりを決め込んでいるこの少女。
 患者用の椅子と机を陣取り、筆記用具を広げて自習モードだ。
 彼女が鷲羽のテリトリーに入り込んで以来、どうも調子が狂いっぱなしなのだった。

『どーでもいいけど、担任には許可取ってんだろね。面倒はごめんだよ』
『先生』
『んー?』
『遅刻だよね』
『!!』

 時計の針は、8時40分。
 確かに遅刻だ。言い返す言葉は何もない。

『こンのガキ……!』

 顔中引き攣らせてひくひくと震えている鷲羽を、実に爽やかに知らんぷりする。子供のくせに、なかなかのやり手だ。
 野放し状態をいいことに、今まで自由にやってきた鷲羽にしてみれば、遅刻を告げ口されて監視が付くのは堪ったものではない。
 毎日チャイムが鳴る前に職員室で出勤チェック、なんてことになったらそれこそ面倒だ。
 鷲羽はしぶしぶ受話器を取ると、担任に報告を入れた。

『はい……はい。ええ、そういうわけで、こちらで預かってますので。はい。じゃ、失礼します』

 電話が切れると同時に、深い溜め息を吐く。
 他の教師達との交流など、普段から皆無に等しい。だから、電話一本掛けるにしても気疲れしてしまうのだ。
 そんな鷲羽なので、もちろん職員の間でも浮いている。

『まったく……あんたも物好きだよ。生徒どころか教員の連中だって、誰もここには寄り付きゃしないってのに』

 もっとも、鷲羽自身はそんなことは気にも留めていない。
 それよりも今は、自分の世界に突如現れたこの小さな侵入者が、一番の関心事なのだ。
 しかし、鷲羽の言葉を聞いているのかいないのか、当の本人は黙々と机に向かっていた。
 そして鷲羽もまた、それ以上深く干渉しようとはしなかった。
 次の日も、その次の日も同じ。
 始業ベルが鳴り終わって鷲羽が保健室に着くと、決まって先客がいる。
 でも、いるだけだ。どちらかがどちらかの邪魔をするなんてことはなく、ただゆっくりと時間が流れるだけ。
 時折校庭から歓声が聴こえたり、笑い声が廊下を通り過ぎていったりした。
 けれど、それ以外はまるでこの場所だけ切り取られているみたいに静かで、穏やかな時間。
 そんなことが続くうち、だんだんとそれが日常の光景になって、二人は以前より頻繁に言葉を交わすようになっていた。

『今日も保健室登校?』
『先生は今日も遅刻?』
『向かい風が強くて進めなかったんだよ。不可抗力だ』

 いけしゃあしゃあと言うが、言い訳にもなっていない。当然、少女は抗議の目を向けた。

『……嘘吐き』
『大人は嘘を吐くもんだ。覚えとけ、授業よりよっぽど役に立つ』

 思わず呆気に取られる。
 これが、仮にも教職に就いている者の口から出る言葉だろうか。
 変な先生だということは知っていたし、だからこそ自分もここに来ている。
 しかし、大人が嘘吐きだなんてことを授業より大切だと説くなんて。

『ぷっ……クスクスッ。変なのぉ』
『……初めて笑ったね』
『!』

 そう言われて少女が驚いたのは、いつの間にか笑ってしまっていた自分にではない。
 こっちを向いて微笑みかけている鷲羽の笑顔こそ、今まで見たことのないような顔だったからだ。
 他人を寄せ付けないぶっきらぼうな口調と、無関心そうな瞳。普段のそれからは想像も付かない、今の優しい笑顔。
 何となく、本当に何となくだけれど、少女はこの教師に自分と同じようなものを感じ取っていた。
 誰からも関わられたくない。疵付けられたくない。
 でもそれ以上に、誰かを疵付けてしまうことを、極端に恐れている。
 だから人に距離を置いて、人から遠ざかって、ひとりでも平気なふりをするのだ。
 そして今も、鷲羽の表情にはすぐにいつもの皮肉な笑みが戻っていた。

『女は笑ってる方がモテる。これも覚えときな』
『えっでも……』
『何か質問でも?』
『じゃあ何で先生は実行しないんですか?笑った方が素敵なのに』

 今度は、鷲羽が呆ける番である。
 笑った方が素敵、だって?そんな口説き文句、男にも言われたことがない。
 しかも、実行しないんですかと来た。大きなお世話だ。

『ぶっ!ぶははははは!!何を言い出すかと思ったら……!』
『えっ、え?あの、あたし何か変なこと言いました?』
『いやいや。悪いけど、あたしは世渡り下手だから手本にゃならないよ。それに……』

 肩を震わせながらも何とか笑いを堪えた鷲羽は、ウインクをキメて言った。

『あたし、笑顔で男に媚びるよーなタイプの女が一番嫌いなのぉ』

 いきなり声のトーン高め。
 怖い。わざとと判ってはいるけれど、その変貌ぶりが怖い。それに……。

『言ってることが矛盾してるような……』
『うるさい。大人はたーっくさんの矛盾を抱えながら、必死に生きてんだっ』
『えーっ』

 不満そうな彼女の主張を一蹴すると、たちまち元のペースに戻った鷲羽は保健室だよりの原稿に目を落としてぶつぶつ言い始めた。
 小塚鷲羽というこの先生は、つくづく不思議だ。面倒臭そうに文字を追う鷲羽の瞳をこっそり盗み見ながら、少女は思う。
 自分よりもずっと大人で、どうにもならないことがあるってことも、それをうまく諦めていく方法も、きっと知っている人。
 なのにどこか不器用で、無力な子供みたいに、何かが通り過ぎるのをじっと待っている。
 そしてきっと、それすら受け入れて生きている、そんな人。
 強いのか弱いのか、よく判らない。だけど少なくとも、何もかもにそっぽを向いている自分よりは、遥かに強い女性だろう。
 脆さと強さを併せ持ったこの変わり者の教師を、少女は憧れにも似た気持ちで見つめていた。

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