白い約束
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『いてっ』
いつものように、少女が保健室で自習していた時のこと。
薬棚を整理していた鷲羽が、不意に声を上げた。
『あッつー……包帯切らずに指切っちまった』
『……ぶきっちょ』
『放っとけ!』
ぼそっと悪たれた声に、素早く反応する。
そもそも、生徒が保健室に寄り付かない理由の一つがこれだ。鷲羽の施す手当てが、何というか、下手すぎるのである。
オキシドールは一瓶まるごと傷口にぶっかけるわ、包帯を巻けば締めすぎでうっ血するわ、大抵の怪我人は余計に具合が悪くなる。
ベッドで横になっていただけの生徒も、そんな彼らの悲鳴で眠ることができず、結果保健室を利用する者は殆どいなくなってしまった。
『傷、見せて下さい』
『え?あぁ……』
今回はどうやら、巻きなおした(ようには見えないほど不恰好な)包帯の、ほつれた先端を切ろうとしていたらしい。
そんな複雑な作業であるとは到底思えないが、鷲羽の左人差し指からは、鮮やかな赤い血がぷっくりと盛り上がっていた。
少女はその指に自分の手をそっとかざし、祈るように目を閉じる。
『あ……!?』
と、同時に少女の身体が淡い光に包まれた。ように見えた。
誰かの体温のような心地良いぬくもりが、傷口を通って鷲羽の全身に拡がっていく。
何だか懐かしい。羊水に包まれている時の感覚って、もしかしてこんな風なのだろうか。
思い出せるはずのない遠い記憶を、鷲羽は無意識の内に探ろうとする。
それは、きっとほんの数秒のことだったのに、何故か十月十日の夢の中にいるような気がした。
『すごい……治ってる。あんた一体……!?』
『………………』
きれいに塞がった傷口。いや、元から傷なんてなかったかのようだ。
にわかには信じられないが、しかし実際目の前にして疑う余地も無い。
いつになく昂揚する胸を抑えながら、鷲羽は少女が口を開くのを待った。
『……ふーん、魔女の末裔ねぇ』
少女の話を一通り聴き終わって、しみじみと呟く。
人間と魔女の歴史。共存と迫害。分断された世界と世界。人間の世界に残り、世代を重ねるにつれて魔力を失っていった魔女達。
まるで、物語か映画の話でも聴いているような気分だ。
けれどそれが紛れもない現実だということは、今ここにいる少女の顔を見れば一目瞭然だった。
『でも、魔法が使えたのはご先祖様だって。今は誰も使えないって、聞いていたのに』
『あんたは使えちまったというわけだ』
困惑と悲しみに満ちた表情。どうして自分がこんな力を持っているのか、一体何のために。
消えたはずの力。望まない力を持て余して、苦しんでいる。そんな風に見えた。
『前に……友達の前で、この力を使ったんです』
ぎゅっと膝の上で結んだ拳が、震えている。
『ブランコから落ちて血がいっぱい出てたから、つい……でも、それからいじめられるようになって』
『なるほどね』
『みんな、この力が気持ち悪いんです。あたしが嫌いなんです』
ひとりぼっちで、寂しくて、それでもまだ泣くことも許されずに、俯いているこの幼い少女。
そんな彼女を、鷲羽はやりきれない思いで見つめていた。抱きしめてやりたいと思った。
けれど、今しがた事情を知ったばかりの自分が中途半端な同情を見せたって、余計に疵付けるだけかも知れない。
そう思ったら何もできなくて、自分の無力さにまた嫌気がさす。
いつだってそうだ。昔から。
『……違うよ。そうじゃない』
そんな気持ちを掻き消すように、鷲羽は首を振った。
『人間は弱いからね。見たことないものには、怯えもするさ。でも、ちゃんと向き合えば判ってくれる。ゆっくりと時間を掛ければね』
綺麗事なのかもしれない。でも、言わずにはいられなかったのだ。
鷲羽自身、ほんの僅かでも信じたいと思う気持ちが残っていたし、何よりも信じて欲しかった。
自分のようには、なって欲しくなかった。
彼女の芽はまだこんなに小さくて、どんなかたちの花だって咲かせられるのだから。
『せんせぇ……先生はあたしと……あたしと、友達になってくれる……?』
『友達?』
視線を下に落としたままで、少女が問う。
絞り出すようなその声は、消え入りそうに小さかったけれど、とても大きな何かを含んでいた。
閉ざされた扉を開く鍵、それになりうる何かを。
『困ったねぇ。あたしは人と馴れ合うのは苦手だし、友達なんていたことないんで判らないけど』
『………………』
『友達ってのは、頼まれてなるもんなのかい?』
それは、思ってもみなかった答えだった。
少女の中で、長い間押し殺していた感情が息を吹き返す。
『少なくとも、あたしが一日の中で一番喋る相手はあんただ。あんたはあたしのケガも治してくれたし、秘密も見せてくれたよね』
『は、はい……』
『だからあたしだって、あんたの話は何でも聞く。あんたがケガすりゃ、下手くそだけど手当てする。いつだって味方になる』
鷲羽の口調は、いつの間にか必死になっていた。
ずっと悩んできた。どんな言葉が正しいのか、どうすることが正解なのか。それは、大人になった今でも判らない。
ただ、この思いが少しでもこの子に届いたら。この子の中に入ることができたら。
『あたしはいつもここであんたを待ってるから』
そうしたらこの子も、そして自分も、変われるのかもしれない。そんな気がした。
『どぉ?これって、友達って言える?』
『うっ……!うえぇ〜〜〜〜〜〜ん』
『あぁもう、泣くなってコラ!』
縋り付いてきた少女の身体を、しっかりと受け止める。今度は、躊躇いはなかった。
少しは、彼女の支えになれたのだろうか。ほんの僅かでも、誰かの居場所になることができたのだろうか。
今まで堪えてきたものすべてを預けて、泣きじゃくっている少女を、鷲羽はいつまでも抱きしめていた。
そして、翌日。
『今日は来てない……か』
いつものようにチャイムが鳴った後、鷲羽がドアを開けると、そこに少女の姿はなかった。
やっぱり、駄目だったんだ。そんな虚無感が胸を過ぎろうとしたその時だ。
『先生』
背後からの声に、振り返る。
そこには、真っ白なワンピースに身を包み、はにかみながら立っている少女がいた。
何だかまるで、今日が大切な記念日であるかのようだ。
『おはようございます』
『……おはよう。遅刻だよ』
そう言って、微笑み合う二人。
目には見えない絆が、確かに存在した瞬間だった。
『似合ってるじゃないか』
『え?』
『そのワンピース。あんた、白がよく似合うね』
保健室に入って、間もなく。
何気なく言った鷲羽の一言に、少女が待ってましたとばかりに食いついた。
『あっあのね!』
『お?』
『白はね!友達の色なの!』
『な、何で?』
『だって、だって……』
普段と違って興奮状態の少女に、少々圧され気味の鷲羽。
自分が鷲羽に勝っていることにも気付かず、少女は少し照れくさそうに、そしてとても嬉しそうに笑いかける。
『鷲羽先生の白衣の色だから』
何だそりゃ、と目を逸らした鷲羽の顔は真っ赤で、彼女よりもっと照れた様子だ。
そんな鷲羽を見て少女は、さらに声を上げて笑ってしまった。
そして、やっぱり白は鷲羽先生の方が何倍も似合うと、密かに思ったのだった。
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