白い約束
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『うわっ、どうしたの!?』
珍しく(というのも何だが、事実なので仕方がない)、鷲羽の方が少女より早く登校した、ある日のこと。
保健室に現れた彼女の格好を見て、鷲羽は目を丸くした。
服はところどころ不自然に汚れ、足や腕の至るところに痣ができている。
中でも鷲羽を一番驚嘆させたのは、額にできたコブと、そこににじむ血であった。
『さっき階段で転んじゃって……』
『あーもードジなんだから!』
言いながら、手当たり次第に消毒液やら脱脂綿やら包帯やらを掻き集める。
もちろん鷲羽自身は充分落ち着いているつもりだ。
しかし、よく見ると絶対必要なさそうなマスクとか、体温計なんかも混じっていて、慌てているのが判った。
養護教諭としては本来致命的だが、ただでさえ手先は器用じゃないうえに、普段から怪我人の一人も滅多に来ない。
そんなわけだから、手当てにはあまり慣れていないというのが正直なところである。
だが、上手い下手は別にして、それでも怪我人や病人が来た時はかなり冷静に対処できていた。
けれど、怪我をしたのがこの少女で、しかもそれが尋常じゃない状態だとなれば、思わず心乱されてしまっても仕方ないだろう。
『……先生』
『何?』
『あたし、教室に行こうかな』
『えっ』
要領の悪さが丸見えの手つきで、何とか最後の絆創膏を貼り終えようとした時だ。
鷲羽の耳に入ってきたのは、意外な言葉だった。
この怪我といい、今日は唐突なことが多い。何となく不穏なものが、鷲羽の胸をよぎる。
『随分と突然だね。何か、あったのかい』
『ううん、ただ……』
少女は、そんな鷲羽の心配を払うかのように首を振り、
『転んだ時にね、周りの子が心配してくれて……思ったの。あたし、今まで皆のこと避けてばかりいたから……ちゃんと話したりした方がいいのかなって』
そう言うと、じっと足元を見つめた。何かを決意する時のような瞳。
鷲羽にはそれが、真剣な眼差しに見えた。
もしかしたら、彼女は少し無理をしているのかもしれない。
けれど、痛みを恐れてぶつからずにいたら、いつまで経っても堂々巡りなのだということも、鷲羽は知っていた。
そして、そこから抜け出そうとするそのことが、どんなに難しいことかも。
でも、少女は今、それに立ち向かおうとしている……そんな風に思えた。
『いいじゃない、行っておいで』
それを邪魔しちゃいけない。
この子はきっともっと強くなれるし、それだけのやさしさを持っている。
それで、もしもまた同じように疵付くことがあったって、自分のように動けないでいるよりずっといい。
もしも彼女が進む道を見つけ、もう自分の元へは戻らなかったとしても、それは誇るべきことだ。
だからせめて、この子がいつ帰って来たいと思ってもいいように、この場所を守り続けていたい。
それが今の自分にできる、ただひとつのことだろうから。
『言ったろ?あたしなら、いつでもここに居るからさ』
強張っていた少女の頬が、少し緩む。
きっと、うまくいく。
麗らかな春の陽気のようなその微笑みに、鷲羽は根拠もなくそう思ったのだった。
『せーんせ!』
少女が保健室登校を止めて、2週間。
鷲羽の日常は、またひとりきりで始まるようになっていた。朝、遅れてドアを開けても、遅刻だとからかう声はない。
それでも、毎日とまではいかないが、彼女は休み時間ごとにちょくちょく保健室に顔を出しに来ていた。
とはいえその間隔は少しずつ広がっており、今日二人が会ったのは実に4日ぶりのことだ。
『お、久しぶりだねぇ。ちゃんと教室行ってるかい?』
『先生っ、先生みたいなこと言わないでよ〜』
どことなく照れ隠しのように笑いながら、いつもの場所に腰掛ける。
こうしていると、何もかもが以前と変わらないようだ。
昨日もおとといもこうして少女はここに座っていたような気がするし、明日もあさっても同じようにこの部屋へ来るような気がする。
実際はまた暫くその姿を見ることはないのだろうが、いざ少女を目の前にすると、それすら忘れてしまうほど鷲羽の心は満たされた。
それが、毎朝繰り返されるほんの少しの寂しさをも、幸せの一部に変えてしまうのだ。
『魔女の世界に行ってみたいなぁ』
そんな鷲羽の想いを知ってか知らずか、夢見るように呟く少女。
この危うく果敢無い存在を、自分以外の誰が守ってやれるというのだろう。
独りよがりだと判っているのに、ついついそんなことを考えてしまう。
『魔女の世界?』
『うん。こっそり読んだお家の本に、書いてあった。とってもきれいなところなんだって』
無邪気に語る口調は、ともすれば弾みそうになるのを何とか抑えているといった感じだ。
まるで、見つけた宝物の在り処を、鷲羽だけにこっそり教えているかのような。
『人間の世界よりも平和で自然がいっぱいで……喧嘩なんてない。みんな仲良しで暮らしているの』
『ホントかぁ?』
『ホントだもん!』
『そんなにいいところなら、あたしも行ってみたいもんだね』
それは、自分でも驚くくらい自然と出た言葉だった。
自分ひとりなら、どんな理不尽な苦しみも耐えられる。うずくまって、ただ時が過ぎるのを待てばいい。
下手に動いて大怪我をするより、じっとして小さな疵で済むのなら、その方がはるかにマシだ。
たとえそれが、幾度となくこの身に降り掛かり、その度に刻まれる疵痕が消えなくても、自分だけならどうでもよかった。
無数の小さな切り傷に埋もれて、そのうち消えてなくなってしまえば、それで終わるはずだった。
『じゃあ先生!一緒に行こうよ!』
けれど、今は違う。
屈託なく笑う少女を見て、強く思う。
できることならもう、この子には辛い思いをして欲しくはない。受けなくていい痛みに、苦しんで欲しくない。
この子を守るためなら、立ち上がることなんて簡単だ。どこへだって、行ってやる。
『今すぐは無理だけど、いつか絶対!一緒に行こう!ねっ!』
『あぁ……判ったよ』
そう、一緒なら。守るものが在れば、何からも目を逸らすことなんてない。
どんな強い盾にだって、なれるのだと思った。
『で、どうやって行くんだ?』
『それはまだ今から調べるのー!』
『はいはい、頑張ってね』
『せんせぇ〜信じてないでしょ〜!?』
『信じてるよ』
言いながら思い浮かべるのは、どこにあるのかも判らない魔女の国。
想像の中の美しい場所で、微笑む少女。その姿を、傍で見守る。
そこには押し潰そうとしてくるものは何もない。
ただ安らかで、温かくて、きっとこういうものが幸せと呼ばれるんじゃないかと、遠く思いを馳せた。
『信じてる』
それは焦がれるほどの未来。手にすることなんて、とうの昔に諦めていた。それが今、あそこにある。
まだはっきりとは見えないけれど、手探りなのかもしれないけど、いつかきっと届く日が来る。
そんな想いが、鷲羽の心を掴んで離さない。
だから、鷲羽は、気付くことができなかったのだ。
自分にとって少女がどういう存在になっていたのかも、なぜ彼女が唐突に魔女の世界に行きたいだなんて言い出したのかも、何も。
『あっ!』
それからまた、数日が過ぎた。
やはりまだ少し慣れないのか、鷲羽の横にいた時よりはやや固い面差しで、少女は机に向かっていた。
ふと、何かを察して上げたその顔に、パッと光が射す。
思いがけない場所に、親しい友人の姿を見付けたのだ。
『鷲羽先生!』
『よぉ』
滅多に校内を歩き回らない鷲羽が、教室のドアの陰から顔を覗かせるなんて、一瞬幻覚と見紛うても不思議じゃない。
現に、鷲羽に気付いた幾人かの生徒は、訝しげにこちらを見ている。
しかし、少女はそんなことお構いなしに、休み時間のざわつく教室をすり抜けて、いそいそと廊下に出た。
『来てくれたの?』
『通り掛かったもんでね』
『嬉しい!久しぶりだねっ!』
『ああ。元気そうじゃないか。最近全然顔見ないから、もしかして休んでるのかと思っちゃったよ。でも、誤解だったね』
『あ……』
と、不意に暗くなる声。
『あのね、先生』
『ん?』
その理由は、鷲羽にも判る気がした。
さっきから感じる、いくつかの視線。不審だったり、好奇だったり。
きっと、鷲羽と少女が話しているこの光景が、教室の中では異質なものに映るのだろう。
白眼視にも似たその眼差しは、受ける者にとって決して快いものではない。
そういう眼に慣れている自分はともかく、人一倍敏感なこの少女にとっては、この状況は耐え難いことに違いない。
『う、ううん。何でもない』
『またいつでも遊びに来いよ』
『うん!』
自分のせいで、彼女にまで嫌な思いをさせることはない。
少しでも少女が安心するように笑顔を見せると、鷲羽は教室には入らず、足早に保健室へと帰っていった。
この時の視線が、少女にとってはまったくもって違う意味を持っていたこと。
それを鷲羽が知るのは、もっと後になってのことだった。
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. 不愉快なシャッターの音。目障りなフラッシュの閃光。
胸が悪くなるような黒い斑点が、いくつもいくつも沸いて出て、いつもの景色を塗り潰す。
繰り返すばかりのこの世界で、それはあまりにも唐突で、こんなにも現実味がない。
『学校側はいじめの事実を知っていたのでしょうか!?』
『自宅のマンションから飛び降りたと言われていますが……』
『自殺に追い込まれるまで、放置していたんですか!?』
並べられたお決まりの台詞。
すぐ近くで飛び交っているはずなのに、何だかそれはとても遠くから聴こえた。
くぐもった声が響く。まるで、水の中に居るような錯覚。
すべてが、誰かに仕組まれたことみたいだ。
自分だけがそこから切り離された。
そんなことを、望んだ。
『……めて、止めてください!離して!』
けれど、悲痛な叫び声が、鷲羽を水中から引きずり出す。
我に返った時、最初に見えたのは、見知った教師が人だかりの中でもがいている様子だった。
名前は知らないが、あれは、あの少女の担任だ。
身体のどこかが、爆発したように熱くなった。
『おい!貴様らいい加減にしろよ!!』
『小塚先生……!』
『ハイエナみたいに寄って集りやがって!!それでも人間か!!』
考えるより早く、足が動いてしまう。
関わらずに、目を瞑ってじっとしていればいいのに。
すべてが過ぎ去るのをただ待っていれば、きっと苦しまなくて済むのに。
蟻地獄のような人波の渦へ、鷲羽は思わず飛び込んでいた。
ぽっかりと口を空けたこの罠が、捕らえた獲物を逃すわけもないのに。
『あなた、養護教諭の小塚さん?』
『!?そうだけど……』
『亡くなった生徒さんが頻繁に保健室登校していたというのは本当ですか?』
嵌ってしまったら最後、抜け出すことはできない。
ずるずると、最深部まで堕ちてゆくだけだ。
鋭い牙を突き刺す瞬間。その時を心待ちにした巣の主の視線が、鷲羽に絡みつく。
気持ち悪い。
『え……あっあぁ、それは……』
『ではあなたにもよく相談していたんですよね?様子がおかしいとか、思わなかったんですか?』
『ちょ、ちょっと待っ……』
『そうよ!』
不意に、明後日の方向から声が飛んだ。
『小塚先生は毎日彼女と話をされていたのに、どうして止められなかったんです!?』
それは、今さっき鷲羽がかばった女教師だった。
その声が、鷲羽を貫く。
心臓がえぐりとられたかのようで、鼓動の音が聴こえない。
手足の先から血の気が引いて、冷たくて、硬くて、動けなかった。
『どうしてなんですか!?答えてください!』
『生徒さんは、あなたに頼っていたのでは!?』
どうして。どうして。どうして。
そうやって、問い詰めることで、真実を暴こうとしている。それが正しいのだと信じながら。
身勝手な正義を貫こうとする眼。その眼の、なんと傲慢で気色が悪いことか。
ぎらぎらと光って、はしたなくて、ぞっとする。
自分もこんな眼をしていたのかと思うと、ぞっとして、心まで冷めていく。
そうだ、と鷲羽は思った。馬鹿馬鹿しいんだ。彼らの期待するような真実なんて、どこにもないのに。
ただ私が、無力すぎただけだ。教師としても、大人としても、人間としても、どれ一つとして完成されていない。
肝心なものが抜け落ちたまま、中途半端に誤魔化していた。
こんなことなら、最初から見て見ぬふりで、突き放していればよかったんだ。
そうしたら、彼らの望む筋書きだって簡単に書いてやれた。
私は堂々と答えることができたのだ。何も知りませんでした、と。
だけど、私は、欲を出した。
『見殺しにしたのか』
そう言ったのは、誰だったのか。
怒鳴るような質問の声に紛れて、それは、掻き消えるほどに小さい声。
それなのに、その言葉はどの罵声よりもはっきりと、鷲羽の耳に届いていた。
まるでその瞬間だけ、水を打ったような静寂が訪れたようで。
けれどそれは、本当にほんの一瞬で、すぐにまた喧騒が打ち寄せる。
動けないまま立ち尽くす鷲羽を、容赦なく飲み込む波。
その水圧は重く、今にも身体ごと押し潰されそうだ。息がうまくできない。苦しい。
圧迫されて、どこにも行けなくて、咽喉の奥に詰まっている何か。
伝えたいことも、伝えるべきことも、結局声になれないのなら。
誰にも届かないなら、もう、ひとりでいい。ひとりがいい。
なのに、どうして放っておいてくれないのか。
戻しそうになって、咄嗟に口元を押さえたけれど、込み上げる吐き気はおさまらない。
誰も私に触らないで。話し掛けないで。私を頼らないで。私を責めないで。何も期待しないで。
私も、誰にも何も求めない。
もう何も、見ないから。
限界だった。
『あ、ちょっと!』
誰かの制止を振り払い、逃げるように飛び出す。
がむしゃらに走って辿り着いたのは、静まり返った体育館。
そのトイレの個室の一つで、鷲羽は嘔吐した。
『うっ、うっ……、うえ……げほげほっ』
全部吐き出してしまえばいい。
吐いて、吐ききって、もう何も出なくなるまで。
身体の中が全部、空になるくらいに戻したら、何も感じなくなれる。
そんな気がして吐き続けたけれど、潰れた想いは後から後からせりあがって、留めどない。
『う……っく……ううっうううううっ……』
乱れた呼吸に、嗚咽が混じる。
絞り出すようだったその声は、いつしか慟哭になっていた。
激しく噎ぶ鷲羽の声は、陽が傾き始めるまで止むことはなかった。
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