白い約束
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ドンドンと、扉を叩く音で目が覚めた。
その振動が薄い壁を伝わり、床まで響いてくる。
『小塚さーん、いるんでしょー?』
大家の声だ。
『郵便物があふれかえって苦情が出ちゃってるのよねー!悪いけど片付けてくれるー?小塚さーん!?』
ぼんやりする頭のまま、寝てるのか起きているのか判らない適当な返事を返す鷲羽。
それでも大家は納得したのか、その声が途絶える。遠ざかっていくスリッパの音。
それが完全に聴こえなくなったのを確かめて、鷲羽はもそもそと布団の中から這い出した。
あれから一体、どのくらい経ったのだろう。
2日?3日?1週間?それとももっと過ぎたかもしれない。
あの後、どうやって家まで帰ったのかも、よく覚えていなかった。
気が付いたら、真っ暗な部屋で壁にもたれていて、ああ夜なんだ寝なくっちゃ、と思った。
それで布団に潜り込んで、今までの間に、何回くらいそこから出ただろうか。
曖昧な記憶を探り探り立ち上がると、眩暈と頭痛に襲われた。視界が悪い。目が腫れているのだろう。
それでも何とか、狭い部屋を見回してみる。それなりに散らかっていた。食べっぱなしのカップ麺とか、脱いだままの服や下着とか。
覚えはないが、この数日間も一応、生活らしき行動はしていたらしい。
ただ、掃除はしなかったようで、洗い物の溜まったシンクには、埃が積もり始めていた。
部屋の空気も籠りきっていて、換気された形跡はない。
(結構ひどい有り様だな……)
他人のことのように思いながら、ふらふらする身体を引きずって玄関まで辿り着く。
なるほど、新聞やらチラシやら突っ込まれ放題のパンク状態だ。多分、ドアの向こう側もわりと悲惨なことになっているだろう。
何日ぶりかに鍵を開け、ドアノブを回すと、新鮮な外気が流れ込んだ。
別に、自然が多いわけでも何でもない至って普通の街だけれど、それでも外の空気というものはこんなに気持ちのいいものなのか。
そう思ったら、つられて何かを思い出してしまいそうで、鷲羽は散乱している郵便物を手早く掻き集めた。
そしてすぐに部屋に引っ込み、いい加減な手つきでチェックに取り掛かる。
とは言っても、誰かから手紙が届くようなことはまず有り得ない。送る相手もいなければ、送られてくる心当たりもなかった。
予想通り、大半が不要なダイレクトメールで、鷲羽はテンポよくそれらをゴミ箱の中にぶち込んでいく。
結局、残ったのは書類の封筒一つと新聞の山だった。
『………………』
思わず、手が止まる。
何の書類かは明白だ。学校から送られてきたものである。
どのように処理されたのか、鷲羽は知らなかったし、知ろうともしなかったが、一言辞めるという意志は電話で連絡した記憶がある。
それを最後に、学校へは行っていない。恐らく、解雇されただろう。それでいい。書類は封を切らず、部屋の隅に放置した。
捨てるのは何かの時に具合が悪いかと思ったのだが、かと言って見たくもなかったからだ。
新聞も同じだった。見たくない。何も知りたくない。そして幸いなことに、新聞は捨てても一向に害はない。
早速、まとめて縛ろうと抱え上げる。と、その隙間から何かが舞い落ちたのに気付いた。
それは、一枚の手紙。差出人も、消印もない。
宛名には『小塚鷲羽先生』と、見よう見まねで書いたような文字が、落ち着きなく座っていた。
『この字……!』
それでも判る。
先と生のバランスや、最後の払い方の癖。
いつも自分のすぐ傍に、ちょこんと腰掛けてノートを広げていた。
そこにあった、見慣れた文字のかたち。
まるで、声まで聴こえてきそうなその文面を、一文字も見落とさないように目で追った。
“わしゅう先生へ。
ほけん室に行きたかったけど、
クラスの子に行くなって言われました。
だから、手紙を書きます。
ま女の世界にも、もう行けません。
いっしょに行くって言ったのに、ごめんなさい。
約束守れなくてごめんなさい。
わたしはこれから真っ白になります。
でも、こわくないです。
だって、白は友だちの色だから。
わしゅう先生、ありがとう。大好きだよ。”
指が震えて、捩れる手紙。
目の前が滲んで、ぼやけていく。
しずくが一粒、鷲羽の長い睫毛を伝って落ちた。
『〜〜〜〜〜〜っ!ちくしょう!!』
それに続くように、ぽろぽろとこぼれ続ける涙。
『ばかだっ……あたしは……!』
あの日。
あの子は、ここまで来ていたのだ。
ここまで来て、ポストに手紙を入れていった。
それなのに、私は気付きもしないで、明日になればまた同じような日が訪れるんだと思っていた。
どうして気が付かなかったのだろう。気付いていれば、こんなことにはならなかった。
どんなにあの子が嫌がったって、きっと抱き寄せて離さなかった。
だけど、そうしなかったのは、私。
『なんで……!迎えに、行けば、よかったっ……』
私はいつもここで待ってるから。
いつでもここに居るから、と。
そんな言葉ばっかり押し付けて、何にもしなかったのは私だ。
一度だけ教室の前まで行った時。あの時だって、そうだった。
あの時感じた視線は、私に向けられた奇異の目ではなかった。
あれはきっと、私と接触する彼女に対しての、警告の視線。
なのに、それなのに私は、笑顔で頷くあの子を見て、勝手に満ち足りた気持ちになって。
必死に助けを求めるあの子の眼差しに、気付いてやれなかったのだ。
『ごめん……ごめんっ……ごめんね……』
小さな身体が宙に舞った瞬間、あの子は何を思ったのだろう。
真っ白、だったのかもしれない。
白は、友達の色。
それを待ちわびて、でも私は居なくて、その色だけを胸に飛び立った。
私のせいだ。
“今度会う時は、魔女の世界で会えたらいいね”
手紙の裏に、小さく書かれた文字。
それに急かされるように、鷲羽は部屋のドアを開けた。
何も見なきゃいい。ひとりで居ればいい。そんなことはとっくに判っていたのに。
どうしてまた、探そうとしてしまうんだろう。何も見なければ、何も知らなければ、疵付くこともないのに。
どうして、まだ何かあるかもしれないって、裏返してまで見てしまうんだろう。
“みんな仲良しで暮らせます”
閉まるドアの音。
一歩踏み出した靴音が、やけに大きく響く。
左手には、トランク一つ。
右手は何を握るだろう。
白衣の裾が翻っては、鷲羽の歩調を速めようとする。
手紙は、部屋に置いてきた。
きっともう、戻ることはない部屋。
叶うなら、もう一度、何事も無かったかのように出逢いたい。
その時には、待っているだけじゃない、強い自分で居られるよう。
“魔女の世界への行き方は―――………”
笑って話ができるように。
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. そして今、同じトランクを持って鷲羽は此処に立っている。
伊佐奈小学校正門前。前にいた小学校よりも、随分と綺麗な外観だ。
「……さ、行くよ」
同じ靴に同じ服。あの日と同じいでたちで、自分は何か変わっただろうか。
この地を踏む日がまた来るなんて、あの時は思いもしなかった。
やけに直線ばかりのこの景色。あの時、半ば逃げるように後にした世界。
もう二度と見ることはないと思っていたそれを、今再び目の前にして、少し戸惑っている。
お前は向こうで何を見付けたのかと、誰かに問い掛けられているような気がして。
その挑発を、未だ上手くやり過ごせない自分がもどかしい。
けれど、もう逃げることはない。上手い答えは返せなくとも、迎え撃つくらいはやってやる。
勝負事は好かないが、一応これでも負けず嫌いな方なのだ。
たとえ気分の乗らない任務だろうと、「やるからにはとことん」だ。
そんで、さっさと終わらせてさっさと帰る。
でもって、帰ったらまたいつものように大門をこき使って、自分はのんびりしよう。
なんて、非常に都合のいい思いを廻らせながら、決意したように踏み出す足。
その一歩は、あの時とは明らかに違っていた。
(先生なんて二度とやるつもりなかった……か)
そんな鷲羽の思惑など露知らず、大門は、彼女の言った言葉を頭の中で反芻する。
どういうわけか、さっきまでに比べていくらか機嫌の良くなったその背中を見ながら、ふと、こぼれる笑み。
自分より、頭二つ分は小さい後姿に、問いかけた。
(だけど鷲羽、気付いてますか?あなたが初めて魔女の世界に来た時も、その後も、そして今も……)
初めて、鷲羽が魔女の世界に来た時。
どう見てもワケありだった彼女の事情を、大門は今も詳しくは知らない。
それでもあの時、何かに深く疵付いて、絶望している彼女を見て思った。
この女性には、それほどまで大切に想うものがあったのだ、と。
何らかの理由でそれを失くし、閉じ篭もってしまっているけれど。
(“保健室の先生”だったあなたの、その白衣だけは、ずっと手放さないでいる自分に)
失えば平気ではいられないほどに、自分の全てを懸けて信じられるものが、あった。
いつかはそれを、思い出してくれたら。そんなことを、思ったのだ。
鷲羽だって、口ではあんな風に言っていても本当は、心のどこかでちゃんと判っている。
守るべきもの。それが何なのか、数え切れぬほどの過ちを犯し、決して消えない疵を負ったその果てに、気付いたのだったとしても。
今はもう、怯えて投げ出す鷲羽ではなかった。
「大丈夫です」
不意に言われて、振り返る。
当然のようにそこにある笑顔に、最後までくすぶっていた緊張も消えた。
まったく、なんて呑気な顔をしているのだこの男は。
「うまくやれますよ。鷲羽なら」
「……当然だ」
だけど、何だか、ほっとした。
たったひとり異世界で、探し彷徨い、求めていたもの。
それは、やっぱりまだ完全には手に入っていないような気がする。
正しさや間違いなんかに揺るがない、自分だけの何か。
多分それは、ひとりじゃ完成しないのだ。
そのことに気付いた自分なら、きっと、何とかなる。
誤魔化したり、躊躇ったり、そんなことをまた繰り返しそうになっても。
今度こそは、離したりなんかしない。
「しかし、二人はめどが付いているものの、あと何人いるのやら……骨が折れますね」
「心配ないって」
不敵な笑みを浮かべて、鷲羽が言う。
「尻尾を出さないなら、こっちから迎えに行ってやるまでさ」
誰だって、辛い思いをしたいはずはない。
けれど、成長は痛みを伴うもの。
そこから逃げていては、いつまで経っても人は変われない。
そして、逃げ続けることもまた、できないのだ。
「やる気ですね、鷲羽」
「べっ、別にそんなんじゃ……オラとっとと行くよ!」
でも素直じゃないのだけはずっと同じだな、とこっそり思う大門。
その左斜め前を、鷲羽は足早に歩く。
翻った裾の白い色が、軽やかに舞っていた。
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